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ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第37回ふうちゃんのお城ブログ 松前城2

2021-12-17 09:56:50 | 日本百名城

松前城には2回行ったことがあります。

1回は函館空港からレンタカーで

もう1回は木古内から路線バスで。

今回は、函館からレンタカーを運転していきました。

今回も木古内からの路線バスを考えたのですが、

ロスタイムが多いのと

戊辰戦争の舞台を思い描きたいということで

急遽レンタカーにしました。

戊辰戦争の舞台となったコースを通って運転したくなりました。

それそれの場所でいちいち下車したわけではありませんが、

箱館、七重浜、有川、富川、矢不来、茂辺地、当別、泉沢、木古内、知内、福島、松前と

戦地と言われるところやその近くを通っていきました。

木古内、知内、福島ではタイムを取りました。

余談になりますが、前回、戊辰戦争を意識しなかったときは、

新幹線停車駅(当時まだ駅の工事中)としての木古内

観光地として北島三郎出身地としての知内

横綱千代の山、千代の富士の出身地、

新幹線の北海道の入口としての福島

を意識して下車していました。

しかし、この全てが戊辰戦争の有名な戦場だったのです。

歴史的な知識が加わると旅、運転しながら考えることも違ってきます。

そして、松前城に着きました。

駐車場からの天守です。

この天守は昭和36年に

2千2百万円の町民等の寄付、

五百万円道費助成、

百万円函館市期成会

に町費を加え、

総工費七千六百三二万円鉄筋コンクリートで復元したものです。

この天守を見ると

前にも本ブログに書いたことがありますが、

前天守のことを思うと残念でたまりません。

前天守は

戦争を乗り越え、乗り越えしてきました。

戊辰戦争のとき天守の石垣に打ち込まれた砲弾の跡

第4回ふうちゃんのお城ブログ 戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに(松前城天守) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

昭和16年にも国宝に指定されていました。

太平洋戦争終了後の昭和24年6月に

隣の役場の火事に巻き込まれ焼失してしまったのです。

戦後のこの時期に町民らから2千2百万円という寄付が集まったということは

松前城に寄せる町民の思いの深さを感じます。

シンプルでいいお城です。

 

本丸御門(現存)と天守(復元)です。

これは、現存する本丸表御殿の玄関です。

「明治8年、北海道開拓使の命令により福山城(松前城)は、取り壊されたが、

天守と本丸御門、表御殿は残った。

表御殿は松城小学校として、充用され、

明治33年新校舎が完成した後も

この玄関だけは小学校正面玄関として、

昭和57年まで利用されてきた。」(掲示板の説明より)

 

今回の松前城訪問で分かったことです。

土方歳三たちは、初め海側から松前城を攻撃しました。

だから、天守台に砲弾の跡が残っているのです。

しかし、海側に向けた7基の砲台はじめ厳しい守りのため

攻撃は難航しました。

 

五番台場跡

しかし、土方は陸側の守りが弱いことを見つけ、陸側から攻め攻略に成功しました。

これらの攻撃の中で天守、本丸表御門、表御門はよく残ったものです。

今回は戊辰戦争を頭に描きながらの松前城への旅でした。

だから、国宝に値したのでしょう。

(2021.11.26訪問)

 


第34回ふうちゃんのお城ブログ 千葉県唯一の日本百名城・佐倉城へ

2021-12-01 11:50:00 | 日本百名城

佐倉城に行きました。

千葉県で唯一の日本百名城です。

京成佐倉駅から徒歩20分です。

佐倉城と言うより「国立歴史民俗博物館」と言った方が分かりやすいしれません。

佐倉城の椎木曲輪に「国立歴史民俗博物館」があるのですが。

京成佐倉駅前の観光案内所でパンフレットを入手する。

この城の特徴は、石垣のない土塁の城です。

なんと言ってもこの城の他の城にないよさは、

角馬出空濠だと思います。

馬出は、城門の前にあり、固く守りながら、出撃に適した出入り口です。

人馬の出入りを敵に知られないように土手があります。

写真をご覧ください。

この角馬出はコの字になっていています。

長辺は121m(原寸通り復元)あります。

短辺40m(原寸通り)

濠の深さは3m(原寸5.6m)

こんな大きな角馬出と濠をみたことありません。

諏訪原城で大きな丸馬出と三日月濠を見たことはありますが。

 

この城にある2人の銅像を見たとき、幕末の激動に引き戻されます。

堀田正睦とタウンゼント・ハリスです。

日米修好通商条約締結に働いた日米両国の当事者です。

 

そして、この城は太田道灌の時代へも誘ってくれます。

本丸には、銅櫓があります。

案内板には以下のように書いてあります。

「木造、銅瓦、六間四方、二階造り。

この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、

江戸城吹上庭内よりいちくしたもので

もとは三層であって、

太田道灌が造ったものともいわれたいる。」

これを読んでみると、

江戸城に太田道灌が造ったといわれる靜勝軒(じょうしょけん)

のことではないかと、思ってしまいます。

 

 

 


第32回ふうちゃんのお城ブログ・群馬県の日本百名城・箕輪城をゆく 

2021-11-20 20:09:00 | 日本百名城

箕輪城(群馬県高崎市)に行きました。

今回で3回目の訪問ですが、改めて堀の広さを歩いてみて実感しました。

 搦手口→二の丸→本丸→御前曲輪→堀へ下る→堀を歩き蔵屋敷で工事中の橋を見る→本丸に戻り橋の工事を見る

→二の丸→土橋・大堀切・郭馬出西虎口門を眺める→郭馬出西→郭馬出西櫓門→搦手口と歩きました。

午前曲輪から堀におります。この下を歩きます。

こんな道を歩きます。

人がいることで堀の広さと土塁の高さを感じる事が出来ます。

堀を歩いて行くと御前曲輪と本丸の間に掛かる木橋の復元工事をしています。

本丸に戻ります。

本丸から見た工事中の木橋です。

令和4年4月完成予定です。

二の丸に戻り郭馬出方向を眺めます。

土橋、大堀切、郭馬出、郭馬出西櫓門が見えます。

土橋上から大堀切を見下ろします。

郭馬出です。

郭馬出の解説です。

郭馬出西虎口門です。発掘調査の結果を生かして復元されました。

郭馬出西虎口門解説。

カメラのキャップがご愛敬ですね。

解説の内容を書いてみます。

 2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入り口(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)

の城門の柱の礎石が8石確認されました。

 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2ルートが集約される防衛上極めて重要な

場所になっています。そのため検出された箕輪城の城門の中で最大規模(幅5.73m、奥行き3.48m)

を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであったと想定されます。

 礎石の配置とから2階建ての櫓門と推定されますが、近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、

板葺きであることが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。

 礎石が全て残っていた好条件に加えて、各地に現存している近世初期の城門を参考にすることによって

門の建物構造を推定できました。2011年度から文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年から2年かけて

伝統的工法に基づき復元工事を行いました。

 なお、この門は、関ヶ原の戦い(1600年)以前の城郭で復元された城門の中では全国最大規模になります。

1 発掘調査で分かったこと

 ・礎石の配置から、1階建てになることが多い4本柱や6本柱ではなく、2階建ての櫓門であることが推定されました。

 ・門の全面と背面で、雨落溝から礎石までの距離が違っています。前面が45cm長いことから、2階部分が張り出す形

  になり、「石落とし」のあることが推定されました。

 ・硬く踏みしめられていた箇所(上図A)が、主な通行口で、大扉が取り付けられていたと推定されました。また、上図Bの

  箇所も硬化しており、脇戸の位置が明らかになりました。

 ・瓦の出土がなく屋根は板葺きと推定されました。

2 復元図の作成

  発掘調査結果や現存する近世初期の城門を参考に復元図を作成しました。

3 復元整備の工程

 ・伝統的工法で復元を行うため、多くの皇帝がありました。

 (20014年6月~2016年6月)

 1 検出された遺構を砂で保護する。

 2発掘調査で見つかった礎石と同形状・同石材の石を選別し設置する。

 3柱を加工し鉋をかけをする。繰り返すと光が反射するようになる。

 4内冠木や2階の梁に用いられるマツ材は手斧で仕上げる。

 5礎石上面の形状に合うように、柱を何度も加工する(光付け)。

 6慎重に柱を立て、くみ上げる。

 7竹を格組んで組んで縄で固定した小舞の上に荒壁を塗り込む。

 8屋根は、手作りしたスギ板で吹き上げる。

 9門に取り付けてある金具は手作りで製作する。

 

4番の行程を担当した大工さんが

とても苦労したことを

とかって参加したツアーで、

地元のガイドさんから

聞いたことを思い出しました。

 

今回はツアーではなく、

個人の訪問だったので時間が十分に取れ

堀や大堀切の中をゆっくり時間をとって歩くことができ

その広さを実感することができました。

木橋の完成が楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 


第31回ふうちゃんのお城ブログ 群馬県の日本百名城・金山城をゆく

2021-11-15 11:18:33 | 日本百名城

群馬県の日本百名城 金山城を訪ねました。

金山城案内図

城廻を始めて頃、一度訪ねたことがあります。

今回、関東の石垣の城としてのよさと関東平野の景色を堪能しました。

太田道灌が「天下の名城」とここを訪ねて絶賛したといいます。

『離合集散が激しい時代であり

いつ何時、双方が敵対するとも限らない中

道灌に敢えて手の内を見せ、

「寄らば斬るぞ」という抑止力があったかもしれない』』

という、伊東潤「歴史作家の城めぐり」の一節を思い浮かべながら、

昨日の共は今日の敵の時代、

相手に手の内を明かしたということは、

ここを攻めても無駄だとという思いにさせたのではないか。

と考えました。

今私たちが見る石垣は、道灌が見た者とはちがうかもしれませんが、

古い石垣が残っていました。

それがこれです。解説もありました。(新田神社の裏にあります)

では、いよいよわたしが実際に目にした今の石垣に向かいます。

その前に月の池と日の池を紹介します。

月の池

日の池 左右の四角は井戸

山の上にこのように水をたたえた大きな池が2つもあるのです。

まして、この池は2つとも石垣で囲まれています。

ローマの史跡のようだと感じた人もいるようです。

日の池の左右に見える四角く、格子の蓋があるのは井戸です。

飲料水は井戸で賄い、

池は戦勝祈願

雨乞いなど

神聖な儀式に用いたのではないか

という説もあります。

いよいよ石垣が登場します。

石敷の道をいきます。

大手虎口です。

実城(本丸)向かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点。

高く積まれた石垣は、敵を威圧し、城の威厳を示しています。

周囲の石垣です。

段築です。(高石垣ではなく、少しずつ上に積み上げていきます)

これは積み上げた石垣ではなく自然の岩盤です。

麓にあるこのような石を切り出して、石垣に使ったそうです。

 

本丸には新田神社があります。

新田義貞をご祭神としています。

この城を造った岩松家純は新田一族です。

 

そして、三の丸からのこの景色がなんと言っても素晴らしかったです。

金山城は石垣の立派な城でした。

室町時代に東の関東でこのように立派な石の城が造られたことに驚かされます。

 


第30回ふうちゃんのお城ブログ 小田原城再発見

2021-11-09 14:06:16 | 日本百名城

前回(29回)で小田原城の総構(惣構)についてふれました。

今回は小田原城のお城の門についてです。

その前にこれです。

天守にある売店で購入しました。

虎の印といわれるものです。

2代目の北条氏綱から使われました。

「祿壽應穩」(ろくじゅおうおん)とは

「領民の祿(財産)と壽(生命)は應(まさ)に穩やかなるべし」

領民の生命と財産は領主(北条氏)が守ることを意味しています。

虎にはどのような意味があるのでしょう。

現代では虎は百獣の王ライオンと並ぶ強い動物を表していると言えるでしょう。

虎が北条氏で、強い北条氏が領民の生命と財産を守ることを

表していると言えるしょう。

 

今回小田原城を訪問して見て新たな発見があったのは門についてです。

いつも下の地図にある学橋を渡って2の丸、銅門、常磐木門、天守と行っていました。

今回、正面入口は馬出門からという案内(掲示)従って学橋を渡らずに

馬出門を渡りました。

そこで、門について二つの発見がありました。

1 地図の正面入口、馬出門と内冠木門

2 住吉橋を渡ったところにある埋門についてです。

下の地図で青印があるところです。

 馬出門についての解説です。

高麗門形式の馬出門

高麗門形式の内冠木門

この2つの門で桝形を形成しています。

わたしが知ってる桝形を形成する門は、高麗門と櫓門の組み合わせが多かったので

珍しいと思いました。

次は住吉橋を渡るとき前の門を見ました。

渡り終わって門をくぐりました。

石垣を割って埋み門埋門(うづみもん)であることがわかります。

京都二条城の西門が同じ形式の門だそうです。

小田原城の訪問は何回目かわかりません。

いつも書きますが、城を訪れるとそのたびに発見があって楽しいです。

新たな課題も見つかります。

わたしは、二条城の西門を見ていないことがわかりました。

次回、京都に行くときは二条城の西門を見ることを目指します。