なるほど、面白いところに目をつけた。
それは、「確信」。
それは「感覚」であって、
結び付くものが曖昧であっても関係ないらしい。
読んでいて腑に落ちた。
その人!ここまで名前が出てきているんだけれど思い出せないっ!
っていうのはこの感覚のせいで、
本当に覚えているかどうかはまた別なんだそうだ。
確信が先にある、っていうのは
最近ネットを見ていてときどき思うことではあった。
ある記事に対して賛成する人と反対する人、もう真っ向から
対立して、お互いの意見を自分の内側に入れて咀嚼することが
ないように見える。
それは情報を集めて賛成するか反対するかゆっくり決めよう、
という態度ではなくて、まずどちらにつくか決めて
反対意見を攻撃する材料をいろいろ集める、という態度。
ディベートみたい!? (己を棚に上げてます)
これはどうも ヒトの面倒な性質のひとつかもしれない、と
なんとなく思ってはいたが、この「確信」のなせる業だ、
と解釈すれば分かりやすい気がする。
やっかいだね
己の確信が思い込みにすぎない、という衝撃。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
~ああなんにもあてにならない
思わず口から出てしまった。
ヒトの理想をぶっ壊して限界がごく近いことを示されるとねぇ。
これはネタバレではあるけれど、この本は
いかにヒトは不確実で思い込みの激しい思考をするか、
ということを畳みかけ、
ヒトは思い込むことで安心感を得る、みたいなはなしになり、
それでも不確実性を受け入れるべきだ、というようなことを述べた一冊である。
それをどのような例、道筋で1冊の量を述べたかを味わえばよい、
と思うのである。
だからこそ、終章に近い245ページで
科学と宗教の対話の最終的な目的は、個人の希望や意味感をできるだけ広げ、間違った 個人の姿勢や社会政策の悪影響をできるだけ抑えることにある。
とあるのに強い違和感を持った。
何をもって「間違った」と確信できるのだろう?
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