ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

東名駅(仙石線・野蒜の西隣):2012年9月の記録

2017-10-01 17:32:16 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

宮戸から松島方面へ向かう途中、仙石線の東名駅(とうなえき)の辺りを回った。

住宅地であったが、津波で随分景観が変わり、ほとんどが空き地の野原になってしまった。 


東名駅は、もとより駅舎が無く、ホームに待合室がある無人駅だったが、周辺には家が並んでいたはずだった。

(東名駅前:2012年9月11日↓)


(東名駅近く・貞山堀(東名運河)周辺:9月11日↓)

 

ホームの傍に、踏み切りが立っているが、もはやそこに線路は無い。

線路の無い踏み切りは、ちょいと寂しい。


東名駅は、隣の野蒜駅とともに移設される予定だ。


野蒜小学校の北側へ移設し、今の線路の辺りは嵩上げ工事などがなされるようだ。

そして、移設される駅の周辺に、町が再生されていくだろう。



じっと立っている東名の踏切は、かつての駅と町を思い出しているみたいだ。


近くでは、残暑の中、重機で片付け作業をしている人がいた。

会釈して通ると、作業していた方も、笑顔で会釈を返してくれた。


変わり行く町の、津波の傷跡を、草花が覆って和らげる。

踏み切りは、ホームと共に残って、静かに語りかける。


人々を乗せた列車が通り、乗り降りする駅。

人々が、家路に着いたり出かけたり、話ながら歩いたり、挨拶交わして通ったり・・・


踏み切りは、そんな町の姿を、そっと教えてくれている気がした。


宮戸島・縄文の風と海の輝き:2012年9月の記録

2017-10-01 17:04:47 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

潜ヶ浦を左に見て、さらに南へ進む。

里浦の輝きが右手に見え、やがて歴史資料館の「縄文村」が見えてくる。 


2月にはまだ、敷地内に貯水槽が転がっていたが、すっかり片付き、かつての美しい庭が戻っている。

2月の様子↓)

(9月11日の様子↓)


3月には、地道な努力の末に再開したので、以降は資料館にも入れる。

大きくはないが、綺麗な室内で、発掘された物の意味や、先人の暮らしが分りやすく展示されていて面白い。

まるで、縄文時代の風がふと肩をかすめていくような気分になる。


上階には土器が並ぶ。

大昔の人の見事な物づくりも、欠けた土器を丁寧に組み立てた跡もいい。

先人の作る物の良さにも、今の人が甦らせた努力にも感心する。


また、当時の暮らしを再現した物語を見られる映像館もあって、大昔の人々に親しみを覚える。


我が連れ合いなぞは、すっかり大昔の物語に入り込んだらしい。

なんと、主人公の生涯が終わる場面で、驚きと嘆きの声を上げた。



縄文村を出て里浦を見ると、滑らかな絹の薄布が、空気を含みながら床いっぱいに敷かれたみたいに、島々の間に海が輝いている。(9月11日撮影↓)


その輝く波の上に漁船が浮かび、震災前ほどの量ではないが、奥には養殖用の浮きも並んでいた。

その光景は、懸命に海で働く人々の心意気の姿でもある。


はるか昔から、人々が、この海と森と共に生きてきた。


その輝きは、厳しい時である今もなお、絶えることなく引き継がれている。

(2012年9月11日撮影)


宮戸島・奥松島の修復:2012年9月の記録

2017-10-01 16:16:22 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

松島から、さらに東北へ進んで貞山堀(東名運河)を越えると、「奥松島」と呼ばれる陸繋島(りくけいとう)がある。

宮戸(みやと)島である。


今年(2012年)の2月には、大きな破片を重機で集めて大型車が行き来する脇を、邪魔しないように通って進んだ。


それから約7ヵ月後、震災からは一年半たち、宮戸はどんな風に変わったろうか。

 

 

9月、利府街道を通って、鳴瀬川の河口を左手に見ながら宮戸島に入った。

河口は、両脇の陸が削られて松林がまばらになり、白波が立って海が迫って見える。


野蒜のびるから宮戸への通りは、まだ片付けが続いている。

だが、道路や護岸などの修復整備が進んでいた。

(2月の野蒜(のびる)海岸沿い西側↓)


(9月の野蒜海岸沿い西側↓)


野蒜の洲崎浜に沿った道。

石が積まれ、護岸の修復も進められている様子。(9月11日↓)



洲崎浜の南端に、松ヶ島橋がある。

付近には嵯峨渓(さがけい)遊覧船桟橋があったが、津波で酷く損傷し整備中。

(9月11日↓)


その傍にあった、砂防堤も修復中。(9月11日↓)


松ヶ島橋の左手に、突き出た丘と入り江が見えるが、この入り江を潜ヶ浦(かつぎがうら)という。

野蒜海岸の砂が流れ込み、入り江と水道(海の水路)を塞ぎやすいため、数年前から砂防提を設置していた。

(2月の潜ヶ浦付近↓)


(9月11日の潜ヶ浦付近↓)


潜ヶ浦の船溜(ふなだまり)も、2月には荒れていたが、9月にはだいぶん整ってきて船も集まっていた。

(2月の様子↓)



(9月11日の様子①↓)

 

(9月11日の様子②↓)


震災前は、大高森近くの沼で、水辺の鳥や草を眺めながら、水上を渡り歩くようにした遊歩道がめぐらされていて楽しかった。

(震災前の様子↓)



そこも、津波で沼内は荒れて遊歩道も壊れてしまったが、壊れた部分は取り除かれ、沼が再び穏やかな美しさを取り戻し始めていた。

(2月の様子↓)



人々が日々、その地域の自然を大事に思って、片付けに尽力したのが察せられる。

(9月11日の様子↓)


震災後の宮戸、里浦周辺:2012年2月7日の記録

2017-10-01 15:40:56 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

以前、ここに来たのは2010年の9月だった。

その時は水と緑と空が輝き、まことに長閑であった。


貞山堀を渡って宮戸島に入ると、あんなに青々と、海を覆い隠すように続いていた松林が消えていた。 

工事車両が入って、道や土地を、懸命に片付けて整える様子が目に入る。


大高森近くまで来ると、かつて歩いた沼を渡る遊歩道も壊れ、その日そこに立ち寄るのはアオサギやコサギたちだけだった。

 

大高森を左手に見て、右手が里浦で、海辺に大高森観光ホテルという宿が見える。

その脇に、民家や田んぼの間を、森に向かって細く曲がりくねった道が続いている。

それが「薬師堂」の入り口だ。


この土地の人々は、自分たちの町や、古い祠も自然も大切にしているのが分る。


宮戸の中で、この辺りが比較的被害の小さかった場所とはいえ、地盤沈下や破損が所々に見られる。

それでも、残った場所は元のようになっていて、手をかけ過ぎることなく、程よく片付いているのだ。

震災直後は、漂流物がたくさんあったという里浦も、今は綺麗になっている。



さて、薬師堂に参る。

森の入り口には、雪が残り、タヌキだろうか草むらに入っていく足跡があった。

「ちょいとお邪魔しますよ。」


季節による違いはあれど、かつてと変わらぬ道と洞窟があり、石段の上にお堂が見えた。

さすがは、霊験あらたかな伝説の薬師堂だ。

お堂の脇の石灯籠は倒れていたが、頂に伊達藩の家紋が刻まれたお堂は、そのままじっと見守るように、里浦と集落の里浜を見下ろしている。 


薬師堂から、穏やかな里浦と、向かいあう里浜の集落が見える。



お堂に手を合わせ、頭を下げ下げ石段を下り、来た道を戻った。


里浜の方へ回ると、縄文村歴史資料館がある。

津波により、今は休館しているが、3月には再開したいと準備に奮闘している。

一見、穏やかだが、敷地内には給水タンクがひっくり返っていた。


縄文村を囲むように道がある。

里浜の桜井酒店さんを左手に見て右に曲がり、湾を渡る道を通って大通りへ出ようとしたが、その道は、途中で浸水していたので引き返した。


壊れた所を見かければ、切ない。


それでも今、宮戸は動いている。

漂流物を片付けて道を直し、宮戸の良さを大切にしている人々が、再び輝かせようと進んでいることも伝わってきた。


続・千賀の浦の町(塩竈):2011年7月の記録

2017-10-01 12:49:18 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

塩竈の本町、造り酒屋の佐浦を過ぎて、道を左に折れると、一番館がある。(←佐浦)


(←壱番館)

一番館から少し戻り、辻に出る。

まるで、道の真ん中にあるように見えるお肉屋さんを右手に見て、辻を渡ろうとすると、ここは信号が点いていない。

神奈川だったか、他所の県警の方が交通整理をしてくれていた。

猛暑の中、本当に大変だろうに、ありがたいと思って頭を下げて渡ったら、笑顔を返してくださった。



渡った先には、やみ市と呼ばれる鮮魚店の並ぶ路地がある。

震災の影響で、建物が破損している所があり、路地を除くがかつての市の姿はない。


通り過ぎて、本塩釜駅前に出る。

駅の向かいから見て、右手に店がある。


その日は休みだったが、以前に見かけた猫が、ちゃんとそこにいた。

お昼寝中だった。


一応声をかけてみると、やはり眠り猫のままだが、耳だけちょっと動かしてくれた。

夢の中で挨拶は交わせたかな。



駅はまだ、修復中だった。

 

駅前のビルは、地盤が沈んだか、建物との間に隙間が出来ている。

ぐるりと廻って、柳の揺らぐ涼しげな様を見ながら、街道沿いを進み、丹六園の前に出る。


丹六園の裏手に回ると、崖の上に、かつての法蓮寺跡で唯一残った書院が見える。

どうやら、震災にも耐えたようだ。


宮町から坂を上り、塩竈神社へと戻る。


この日、千賀の浦は青く穏やかであった。

風が爽やかに、町を木々を人を撫でていく。

修理に励む人々や、明るく挨拶を返してくれる人々に会い、ほっとしたひと時だった。