ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

折石・気仙沼の海と人と(2012-01-29 の手記)

2017-05-09 16:34:01 | 東北被災地のあゆみ:気仙沼

以前の工場は、南気仙沼駅の南側で、大川と気仙沼湾に挟まれた所にあった。

工場も会社も津波で破壊されたが、助かった家族や社員とともに、少し高台の方へ移動して仮事務所を設けた。その傍に、新たな工場を再建するという。「石渡商店」の新たな一歩だった。

 

石渡さんは、ふかひれ食品加工の会社である。

先日、石渡商店さんが、工場再建のために地鎮祭を行ったという知らせを受けた。

 

 

昨年の暮、「気仙沼横丁」という仮設商店街に寄った時、石渡さんも商品を販売していたのだが、初めは気づかなかった。

理由は、「リアスの国から」という店名で、石渡さんのふかひれだけでなく、気仙沼の物産を扱う店の中にあったからだ。

仮説商店街のこうした取り組みは、「町のために」という思いが伝わってくる。



さて、気仙沼からの知らせを機に、以前行った場所をあれこれ思い出す。

その一つが、気仙沼市の東側にある、唐桑半島である。


唐桑半島の北東には、「巨釜(おおがま)」という岬がある。


そこに、「折石(おりいし)」という石柱があるのだ。

これは、明治29年の三陸大津波の時に、2メートルほど先端が折れたために、付けられた名だそうだ。


前回、この折石を見たのは2010年の4月のことだった。

この時、霧の中に浮かぶ岩と波が、墨絵のような白と黒の眺めで、晴れた日とはまた違う美しさだった。

力強さと、現実を離れた世界にも思える、不思議な空気が漂っていたのである。




明治の津波は、記録に残るところで20メートル以上あり、場所によっては40メートル程と言う話もある。



2011年の3・11の大津波は、同じように大変なものであった。

場所によっては、高さ40メートルを超えたのではないかとも言われ、堤防を破壊し、町を壊しながら浸水した規模は大きかった。



だが、「折石」は折れなかった。

津波の象徴として、その地に知れ渡っている石柱である。

傷つきながらも、踏ん張っている姿の一つだ。

この「折石」も、これからの海と人との関わりを、気仙沼の再生と復興を見守っているだろう。

            


気仙沼南町通り:震災前(2009-12)と震災後(2011-12-29 )

2017-05-09 16:20:42 | 東北被災地のあゆみ:気仙沼

津波に消えた町の思い出が、いくつかある。

町はまた、人々によって作られる、その道を進む中で、思い出も大事にしたい。

かつて、そこにあって輝いていたことの証だから。こうして書き残しておきたい。


        ① 2009年12月20日公表、編集・再掲載記事

日暮れて着いた、六つ時の気仙沼を少し巡ると、風情ある建物が点在する少し狭い通りに入った。

気仙沼市の南町だ 


 
  

 

木造の、古き美しい料理屋や


お茶屋があったり、


昭和初期に創業した洒落た洋食屋があったり、


懐かしさや心地よさが漂うような通りだと思った。

 

 

そこで、灯りのついている菓子店を見つけた。

「菓心 あめや」という、お菓子屋さんだ。

店先に貼られている、品書きにびっくりしながら店内に入った。

その品書きに、「ふかひれ」の文字があったのだ。

 

「ふかひれ最中」である。  

         
お店も最中も、品の良い落ち着いた風情だ。一体どんな最中だろうと、未知への興味と少しの不安を抱きつつ買った。

「これは、美味しいぞ」
最中がとても芳ばしく、餡は程よい甘さなのだ。大豆と白ゴマと寒天を練った餡の、柔らかく粘りのある食感に混じって、滑らかにとろける、ふかひれの食感がまた、とても良い。

この最中が気に入った。


ふかひれの良さと、土地の人々の努力が、まあるい形に込められているなぁと思うのだ。                    

 

まあるい最中が輝いている。割ってみると、その中にも白餡に混じって、

ふかひれの金糸が輝いているのであった。

 


 

       ② 震災後の南町通り (2011年12月29日記録)


       

所々、空き地になっている。残っている建物も、1階が空洞になってしまい、2階まで浸水した様子である。3階建ての、その3階の部屋にいた人ならば、助かっただろうか。

 

あの美しかった木造の店は、通りの東側の建物が緩衝となったか、道を挟んで西側にあったことで、建物が根こそぎ流されるのは免れたようである。しかし、中身がなくなっていた。

                 

洋食屋さんも、いつか寄ってみたいと思っていたのに、あの魅力的だった店頭の飾りも見られない。


あめやさんも、建物は残っていた。しかし、あの落ち着いた風情の店があった1階は、空洞になっている。

店の方々、みなどうしているだろう。無事であって欲しい。また再び、その味を取り戻して欲しい。

通りを歩き、そう願うばかりであった。



それでも、町は一歩を踏み出している。

南町に、仮設の商店街ができたのだ。

再開できる店が、ここで一歩を踏み出した。

ふるさとを取り戻すと、覚悟を決めて生きる人々の輝きを見た。

           

 

 

 


本吉・宮城沿岸の町:2011-11-07

2017-05-09 15:51:49 | 東北被災地のあゆみ:気仙沼

ここは、大丈夫だろうか。

志津川、歌津を回って、その破壊された現状に不安になりながら、国道45号線を、さらに北に進んで本吉に寄る。

途中、鉄道が分断されているのを見にする。

果たして、本吉の商店街はどうなっているのか。



「あ、あった」かつてのままの、商店街だった。


以前に寄った、菓子店の「三浦屋」もそのままだ。

あの時に食べた菓子も、そこにあった。

お店にいたお母さんも、あの時と同じく、和やかで気さくだ。



「何年か前に来て、震災後どうかと思っていました。志津川、歌津と寄って、みんな無くなっていて、こっちも心配しましたが、ここはあって良かった。」と話しながら、言葉の終わりに不覚にも涙が滲んだ。



聞けば、家の裏の畑まで津波が着たが、ここは無事だったという。

良かった、本当に良かった。



あの時と同じ、「ビスケット饅頭」を買った。本吉の思い出の味だ。

お店のお母さんが、

「これ、おまけ」と、ゆべしを入れ、

「また、来てくださいね」と言って、送り出してくれた。



かつて来た時は、当然ながら、こんな事になるとは思っていなかった。

ただ、地域の魅力を見つけて嬉しがり、楽しんでいた。

その思い出が、とても大切な宝であることを、実感するこの頃である。