僕の人生の今は何章目ぐらいなんだろう?

昨日に戻りたいと思うよりも、
今日を楽しみ、
明日が待ち遠しいと思える、
そんな人生を送りたい。

与えるということ

2006-02-15 12:35:08 | ヒトの気持ち
常に自戒することの一つ。

「欲」の強くなる部分というのは
必ずと言っていいほど、こころの奥深くにある
「傷(トラウマ)」が原因になっている。
これは、自覚がなければないほど、重傷と言える。

人から客観的に見て、
「強く」みえるところも、「弱く」みえるところも
その乗り越え方と、対峙の仕方で
「悪い」部分になっていたり、
「良い」部分になっていたりするが、
結局はなんらか、強いヤスリによって出来た
こころの「傷」が原因であることは少なくない。
人はそれを乗り越えて強くなる。

「感動」「共感」によって、人は成長したり
癒されたりするが、「逆境」における強さは身につきにくい。

「名声」「愛」「時間」
「モノ」「金」「色」「情」

こころが「奪おう」とするいろんなものは
実は奪おうとすればするほど得られないという法則性がある。

「人は、与えた分しかもらえない。」

仏教ではこれが真理であると説く。
「得たければ、先に与えること」

これしかないのだという。

しかし、たいていの場合、自分がどれほど、ひどく欲している
あるいは、奪おうとしているか?という自覚がない場合がほとんどだ。
つまり欲する結果のためにどれほど、相手に与えなければ
その結果が得れないか、が理解できていないことが多いということだ。
それは、量ではない。相手が何を欲しているかは人それぞれでもある。

「与えることを意識する」こと、
それが、自分の望みを叶えて幸せになっていく第一歩だという。

ちょっとしたことだったりもする。

赤ちゃんの「笑顔」を見た時に、たいていの人はつられて微笑むのだという。
純真に笑った笑顔は実は物凄く人を幸せにするエネルギーに溢れる。

笑顔のいい人が幸せになっているとは限らないが
その「笑顔」によって少なからず、その人の人生が
好転しているのだそうだ。

だれかの幸せを「祈る」ことも「与えること」になると思う。

「祈られている」人と、「祈られていない」人は
明らかに、人生における幸せ度が違うと思う。

「奪う」ことが多いと、「祈られず」に「恨まれたり」
「妬まれたり」「嫉まりたり(?)」するから注意しなければいけない。
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