くされ縁というものがこの世に存在するのであれば、
そのくされ縁を続けている友人関係を出来るだけやめる事にした。
中でも、「昔は良かった」という一点だけで、
毎度毎度同じように盛り上がってしまう友人関係というものは、
実に情けなく味気ないものなのだ。
しかし僕は現在二十一世紀を生きているのだ。
振り返る事もする。
懐かしみもするが、その事に埋没してしまうのはお断りである。
ましてやその事でしか会話がはずまないというのは、
残念ながら悲劇というしかない。
人間は時にとどまり、時に進み、また時に後退する。
そういうゆとりとか幅が必要なのだ。
わたしたちは一直線に進歩が続くというものの見方が崩れた時代に生きている。
それはグルグル回りするものの見方への回帰と違う。
そういう行き先不明な時代に「昔は良かった」で群れるのもひとつの心のよりどころなのかもしれない。
拓郎の意見はそういうものにとどまらず
「時にとどまり、時に進み、また時に後退」しても先に進もうとする意地がある。わたしはそのたくましさに共感を覚える。
そのくされ縁を続けている友人関係を出来るだけやめる事にした。
中でも、「昔は良かった」という一点だけで、
毎度毎度同じように盛り上がってしまう友人関係というものは、
実に情けなく味気ないものなのだ。
しかし僕は現在二十一世紀を生きているのだ。
振り返る事もする。
懐かしみもするが、その事に埋没してしまうのはお断りである。
ましてやその事でしか会話がはずまないというのは、
残念ながら悲劇というしかない。
人間は時にとどまり、時に進み、また時に後退する。
そういうゆとりとか幅が必要なのだ。
わたしたちは一直線に進歩が続くというものの見方が崩れた時代に生きている。
それはグルグル回りするものの見方への回帰と違う。
そういう行き先不明な時代に「昔は良かった」で群れるのもひとつの心のよりどころなのかもしれない。
拓郎の意見はそういうものにとどまらず
「時にとどまり、時に進み、また時に後退」しても先に進もうとする意地がある。わたしはそのたくましさに共感を覚える。