09/23 水曜日 / 少し顔を出している、5連休最後・・・秋分の日の穏やかなお彼岸、過ごしやすい東京です。
5連休は・・・ & & & ・・・ばっかりでなく、久しぶり鉄子・・・ならぬ鉄男に時間を合わせ・・・カシオペアに心だけ乗ってきた。
下り(上野→札幌)
上野 発 16:20 心はもう札幌だ。
大宮 発 16:45
宇都宮 発 17:50
郡山 発 19:13
福島 発 19:52
仙台 発 20:59
一ノ関 発 22:08
盛岡 発 23:16
ディナーは何に!!
函館 着 5:01
森 着 5:52
八雲 着 6:18
長万部 着 6:42
ナイト・キップは??
洞爺 着 7:12
伊達紋別 着 7:24
予約は1年先。
東室蘭 着 7:44
登別 着 8:00
苫小牧 着 8:33
南千歳 着 8:55
札幌 着 9:32
・・・取りあえず・札幌でだ。幸せな机上の旅である。
植村直己冒険館は後ほど
『自分には冒険しかない・・・』という、ある意味【悲壮】とも取れる決意を感じた。
エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦、単独登頂を成功させる。この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった。
リアルだが狼の毛皮の入った防寒具。
この頃から植村は南極横断への夢を抱き始め、少しずつ実現のための準備を始める。1971年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内市から九州鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現する。
グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功。
1978年、犬ぞりを操って、人類史上初の北極点単独行に成功し、極点に到達した。同年にはグリーンランド縦断にも成功。
1979年、イギリス王室から優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ章を受賞するなど、世界的な名声と評価を獲得した。一方で、スポンサーの電通の意向でもあったが食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機での補給をしたことなどに対し、一部で疑問と批判も出た。北極圏単独犬ぞり行にはナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った。
北極点・グリーンランドの犬ぞリ探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく。
1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指して植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去。悪天候にもみまわれ、登頂は断念する。
1982年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞリ探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、フォークランド紛争勃発によりア軍が協力を撤回し断念。
2度の冒険の失敗に初心に戻る決心をした植村は、野外学校設立を夢見、勉強を兼ねてアメリカの野外学校に参加するため渡米。ついでにアラスカでマッキンリー登頂を目指す。このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由については不明となっている。植村の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされた。
1984年2月12日、マッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たす。43歳の誕生日だった。翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となる。
最期のマッキンリー。DVDも流れている・因みにナレーターは俳優/江守 徹・・・重厚なナレーションに鳥肌が立った。・・・植村は動いている。
3日後の2月16日、小型飛行機がマッキンリーに行ったところ、植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので、救出することができずに見失ってしまった(最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高い)。その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、山頂付近とキャンプ跡地に残された植村の装備の一部が遺品として発見されるに留まった。やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。現在に至るまで遺体は発見されていない。このため、最後に植村の消息が確認された1984年2月13日が、植村の命日とされた。享年44(満43歳没)。
1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞。
・・・劣等感のかたまり・・・これしかない凄い冒険野郎にエネルギーをもらった。
ありがとう。
・・・凄い旅だった。
5連休は・・・ & & & ・・・ばっかりでなく、久しぶり鉄子・・・ならぬ鉄男に時間を合わせ・・・カシオペアに心だけ乗ってきた。
下り(上野→札幌)
上野 発 16:20 心はもう札幌だ。
大宮 発 16:45
宇都宮 発 17:50
郡山 発 19:13
福島 発 19:52
仙台 発 20:59
一ノ関 発 22:08
盛岡 発 23:16
ディナーは何に!!
函館 着 5:01
森 着 5:52
八雲 着 6:18
長万部 着 6:42
ナイト・キップは??
洞爺 着 7:12
伊達紋別 着 7:24
予約は1年先。
東室蘭 着 7:44
登別 着 8:00
苫小牧 着 8:33
南千歳 着 8:55
札幌 着 9:32
・・・取りあえず・札幌でだ。幸せな机上の旅である。
植村直己冒険館は後ほど
『自分には冒険しかない・・・』という、ある意味【悲壮】とも取れる決意を感じた。
エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦、単独登頂を成功させる。この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった。
リアルだが狼の毛皮の入った防寒具。
この頃から植村は南極横断への夢を抱き始め、少しずつ実現のための準備を始める。1971年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内市から九州鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現する。
グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功。
1978年、犬ぞりを操って、人類史上初の北極点単独行に成功し、極点に到達した。同年にはグリーンランド縦断にも成功。
1979年、イギリス王室から優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ章を受賞するなど、世界的な名声と評価を獲得した。一方で、スポンサーの電通の意向でもあったが食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機での補給をしたことなどに対し、一部で疑問と批判も出た。北極圏単独犬ぞり行にはナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った。
北極点・グリーンランドの犬ぞリ探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく。
1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指して植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去。悪天候にもみまわれ、登頂は断念する。
1982年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞリ探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、フォークランド紛争勃発によりア軍が協力を撤回し断念。
2度の冒険の失敗に初心に戻る決心をした植村は、野外学校設立を夢見、勉強を兼ねてアメリカの野外学校に参加するため渡米。ついでにアラスカでマッキンリー登頂を目指す。このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由については不明となっている。植村の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされた。
1984年2月12日、マッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たす。43歳の誕生日だった。翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となる。
最期のマッキンリー。DVDも流れている・因みにナレーターは俳優/江守 徹・・・重厚なナレーションに鳥肌が立った。・・・植村は動いている。
3日後の2月16日、小型飛行機がマッキンリーに行ったところ、植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので、救出することができずに見失ってしまった(最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高い)。その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、山頂付近とキャンプ跡地に残された植村の装備の一部が遺品として発見されるに留まった。やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。現在に至るまで遺体は発見されていない。このため、最後に植村の消息が確認された1984年2月13日が、植村の命日とされた。享年44(満43歳没)。
1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞。
・・・劣等感のかたまり・・・これしかない凄い冒険野郎にエネルギーをもらった。
ありがとう。
・・・凄い旅だった。