08/22
月曜日 曇天の東京の蒸し暑いような空の下から発信です。
昨日21日・日曜日。
自分御褒美は・・・17:00を回っていた。
五臓六腑に・・
染みこんでいくとはこの事だ。
浅草寺・・
米久を経ったのが・・・14:00。
ひさご通りにある牛鍋専門店。明治19年の創業で、いかにも浅草らしいレトロな雰囲気。お店に入ると、人数分太鼓が叩かれる。 すべてが座敷に座椅子。

えびすさんのお出迎え!!
錦鯉が優雅に・・。見ながらの牛鍋は・・・至福の一時。
放射能がなんのその(^3^)

迫力のある/インパクトの盛りつけに・・・どひぇ~!! 三人前。
店の方が・・・鍋から外し・・・食べ方を伝授してくれる。我が輩も10年振りである。
いやいや・・2000年に来たから・・11年ぶりだ。



視覚で・・・胸とお腹が一杯になる。
ご飯 & みそ汁/これまた旨い & お新香・これまたまいう~。
腹がへっては・・・水戸黄門・うっかり八平。状態。
・・・腹ごしらえをして・・・今戸橋・山谷堀・吉原大門をあるく。
吉原の帰りに。江戸時代は・・・吉原に行く前に・・・桜鍋を・・・“馬力”を付ける。
ここからこの文言が生まれる。・・・桜鍋の発祥は・・吉原だ。

文明開花の中、ハイカラなグルメとして桜鍋が生まれました。当時、遊郭があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊郭行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されたといいます。明治38年に中江もその中の一店舗として暖簾を掲げました。
遊郭からの朝帰りのお客様、昼食、夕方は遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえ、そして深夜は遊郭帰りの夜食にと、中江は一日中賑わっていたそうです。
創業当時はライバル店がたくさんありましたが、現在吉原に残ったのは中江だけになってしまいました。
桜鍋には『味噌ダレ』がつきものです。淡白な桜肉にコクを与える味噌ダレですが、桜鍋に最初に味噌ダレを使ったのが中江の初代桾太郎です。つまり、中江は現在の桜鍋の元祖なのです。
桜鍋は当時から滋養強壮に良いと言われていました。
現代でもスタミナのつく料理を食べることを『馬力をつける』と言いますが、これは吉原の桜鍋を食べることが語源です。

・・・ようは!! 持ち金がなく、床代を払えず・・・乗ってきた馬を床代代わりに・・置いていていく。
見かねた・・・先人が・・・桜鍋屋をやったとかが・・・始まりだ。
徳川幕府も・・・考えたあげくのとった行動なのだろうか!! (^3^)
土手の中江という愛称をいただいておりますが、理由をご存知ですか?
当時、中江の前は堀になっていて土手がありました。後に区画整理で掘は埋められたのですが、今でも堀と土手があった頃にちなんで「土手の中江」と呼ばれています。ちなみに、中江の前の道路は「土手通り」です。
映画『吉原炎上』のラストで主人公が土手を人力車に乗って去っていくシーンがありますが、その土手が中江の店の前にあった土手です。
長命寺により・・桜もちを。
大岡越前が・・町奉行になった年。1717年。隅田川土手の桜の葉を樽の中で塩漬けにして、試みる。桜もちの誕生だ。
江戸の味を今に伝える・・・逸品だ。
曳舟川・・・今は暗渠になってしまっているが・・・舟を縄につなぎ・・手で引いた。
曳舟の由来。
業平橋の・・新名所/東京スカイツリーは、霧雨で・・全景は見えず。
東武線・業平橋駅が、東京スカイツリーに・・・開業と同時に変わる来年。
何年か前に・・・その前の駅・・“玉ノ井“駅。が・・・東向島に改名変更された。
玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市 向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島から墨田あたり)に存在した私娼街である。 永井荷風の小説『濹東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。 
・・・ようは!! 青線であるが為の改名。教育上よろしくない。
吉原は・・・徳川幕府お墨付きの・・・遊郭であった。
江戸の消えゆく名を・・・旅する日でもあった。

昨日21日・日曜日。

自分御褒美は・・・17:00を回っていた。
五臓六腑に・・

染みこんでいくとはこの事だ。
浅草寺・・

米久を経ったのが・・・14:00。
ひさご通りにある牛鍋専門店。明治19年の創業で、いかにも浅草らしいレトロな雰囲気。お店に入ると、人数分太鼓が叩かれる。 すべてが座敷に座椅子。

えびすさんのお出迎え!!

錦鯉が優雅に・・。見ながらの牛鍋は・・・至福の一時。



迫力のある/インパクトの盛りつけに・・・どひぇ~!! 三人前。
店の方が・・・鍋から外し・・・食べ方を伝授してくれる。我が輩も10年振りである。
いやいや・・2000年に来たから・・11年ぶりだ。





視覚で・・・胸とお腹が一杯になる。



ご飯 & みそ汁/これまた旨い & お新香・これまたまいう~。
腹がへっては・・・水戸黄門・うっかり八平。状態。
・・・腹ごしらえをして・・・今戸橋・山谷堀・吉原大門をあるく。
吉原の帰りに。江戸時代は・・・吉原に行く前に・・・桜鍋を・・・“馬力”を付ける。
ここからこの文言が生まれる。・・・桜鍋の発祥は・・吉原だ。


遊郭からの朝帰りのお客様、昼食、夕方は遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえ、そして深夜は遊郭帰りの夜食にと、中江は一日中賑わっていたそうです。
創業当時はライバル店がたくさんありましたが、現在吉原に残ったのは中江だけになってしまいました。


桜鍋は当時から滋養強壮に良いと言われていました。
現代でもスタミナのつく料理を食べることを『馬力をつける』と言いますが、これは吉原の桜鍋を食べることが語源です。


・・・ようは!! 持ち金がなく、床代を払えず・・・乗ってきた馬を床代代わりに・・置いていていく。
見かねた・・・先人が・・・桜鍋屋をやったとかが・・・始まりだ。
徳川幕府も・・・考えたあげくのとった行動なのだろうか!! (^3^)

当時、中江の前は堀になっていて土手がありました。後に区画整理で掘は埋められたのですが、今でも堀と土手があった頃にちなんで「土手の中江」と呼ばれています。ちなみに、中江の前の道路は「土手通り」です。
映画『吉原炎上』のラストで主人公が土手を人力車に乗って去っていくシーンがありますが、その土手が中江の店の前にあった土手です。

長命寺により・・桜もちを。
大岡越前が・・町奉行になった年。1717年。隅田川土手の桜の葉を樽の中で塩漬けにして、試みる。桜もちの誕生だ。
江戸の味を今に伝える・・・逸品だ。
曳舟川・・・今は暗渠になってしまっているが・・・舟を縄につなぎ・・手で引いた。
曳舟の由来。
業平橋の・・新名所/東京スカイツリーは、霧雨で・・全景は見えず。
東武線・業平橋駅が、東京スカイツリーに・・・開業と同時に変わる来年。
何年か前に・・・その前の駅・・“玉ノ井“駅。が・・・東向島に改名変更された。


・・・ようは!! 青線であるが為の改名。教育上よろしくない。
吉原は・・・徳川幕府お墨付きの・・・遊郭であった。
江戸の消えゆく名を・・・旅する日でもあった。