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読んだ本の感想と旅行の日記を書いていきます。
後、その他なんかあれば・・・

120冊目:「一瞬で信じこませる話術 コールドリーディング」

2013-12-30 16:27:18 | 
総評:★★★★☆ まあまあ面白かった。
面白い度:★★★☆☆ 普通。
読みやすい度:★★★★☆ 読みやすいほう。
ためになる度:★★★★★ 新しい知識を学べてタメになった。
また読みたい度:★★★☆☆ テクニックとか読み返すかも。


「モテるようになるには」とかそういった情報が書いてあるサイトで紹介されていた本。
はい、動機が不純です。(笑)

占い師や詐欺師がよく使う、コールドリーディングというテクニックについて解説された本。
(うまくいけば)短時間に相手の信用を得ることができ、常連のお客さんに出来たり、また詐欺師であったら絶好のカモにできるという、ちょっと危険なことにも使われる技術、らしい。

技術自体は全然危険なことではなく、使いようによっては本当に悪いことに使えるというスキルなので、使う人の人格や目的やテクニックによって色々印象が変わるテクニックではある。
まあ技術も使いようということですな。

覚えておくと、仕事の会話や営業、人と仲良くなることに使えるのではないかと思うが、やはり使いこなすのは初心者には結構難しいと思う。
とりあえず合コンなどのネタ的に覚えておくと楽しい!?かも。


どんな技術かというと、相手のパーソナルな情報とかを当てていって、というか、うまく相手に自分から情報を引き出させて、相手に、自分のことをよく知っているという人物という印象を相手に植え付けるような技術である。
それなりに色んな理論が使われたりしている。例えばバーナム効果(どっちつかずの情報でも、相手に当たってる!と思われる効果)や、セレクティブメモリ(人間の都合のいいことだけ覚えているという特性)やアンビバレンス(相反する二つの面からその人を評価すれば、必ずヒットする)などの人間の特性が利用されている。

また、技術としては、ストックスピール(誰もが体験するようなことをリーディングする(当てる)こと)、ズームアウト/ズームイン(ミスやヒットから解釈を拡大させたり狭めたりしながらヒットを狙うこと)、サトルネガティブ(当たっても外れてもその後の会話に続けることが出来る聞き方)、サトルクエスチョン(曖昧な情報を出して相手に具体的な情報を答えてもらう聞き方)、サトルプリディクション(未来を当てにいく予言)などがあることが分かった。

サトルプリディクションなんかは未来を当てにいくので、かなり大胆な技術かと思うが、相手は結果的に当たった時にその時の予言を思い出す(セレクティブメモリの特性)ので、当たった時だけ思い出し、当たらなかったらそれはそれで思い出さないという、まさに都合のいいようにあっちが解釈してくれるという、なんとも面白い技術なのであった。逆に人間ってバカだな(笑)って思った。まあ自分もそうなのだが。(^_^;)


まずはストックスピールでヒットを重ねて信用を得るというのが基本的な戦略、らしい
そのためには、人間をあるタイプ別に分けて、そのタイプに応じたストックスピールを行えば、結構ヒット率が上がるので、大体はそのタイプ別の質問を質問者は考えているらしい。
とりわけ、この本ではMe/Weタイプ分けというのが紹介されていた。

簡単にいうと、Meタイプはリーダー気質だったり、1人で何でも出来るような万能型だったりしたタイプで、Weタイプはみんなで群れるのが好きだったり、周りの人達に依存してしまうタイプであるという。
このMe/Weタイプは人が必ずどちらかの特性を持っているので、このタイプが分かると、その後の対応もすんなり行くので、コールドリーダーじゃなくてもなんかこういう情報は捉えておくといいんじゃないかと感じた。


一応本に書いてあった、二つのタイプの特徴を書いておく。
    Me/We
長所  リーダーシップ・責任感・頭がいい/協調性が高い・こだわらない・愛情深い
短所  利己主義・冷淡・臆病/感情の起伏が激しい・依存的・気分屋
考え方・感じ方  論理的/情緒的
ひとりでいる時間  絶対必要/たまに必要
交友関係  少ない/多い
話し方  直接的・義務的/湾曲的・詳しい
理解の仕方  人の話の裏を読む/人の話を素直に受け取る
行動力  理解してから行動・実践/行動・実践しながら理解
やる気の出る指示のされ方  「あなたにしかできない。助けて欲しい」/「あなたにもできる。」「私たちがついている。」
他人からのアドバイス  欲しくない/欲しい
メール・電話  必要最小限・事務的/雑談から入って、最後に用件
向いている職業  エンジニア・弁護士・スペシャリスト/教師・看護師・営業など人と関わる職業
仕事  自己実現的/奉仕的
家庭と仕事  仕事優先/家庭優先
子供  あまり好きではない/好き
ペット  猫派/犬派
好きな本や映画  フィクション/ノンフィクション
スポーツ  個人競技/団体競技
飲み物  コーヒー派/ティー派
遊び  インドア派/アウトドア派
恋愛・セックスに求めるもの  刺激・エネルギーの発散/一体感
ブラックジョーク  わりと平気/傷つきやすい
捻挫など怪我をしやすい側  右半身/左半身
お腹の調子  下痢症気味/便秘症気味


こんなに分かれる訳ではないけど、最終的などっちよりというのには分けることが出来るらしい。
ちなみに自分はMe派だと思います。

さらに、それぞれの見分け方も書く。

    Me/We
立ち位置  相手を自分の左手側に置く/相手を自分の右手側に置く
髪の分け方  左に分け目(左の額が出る)/右に分け目(右の額が出る)
小さな音を聞くとき  左の耳を傾ける/右の耳を傾ける
視線  (本人から見て)左に多く動く/(本人から見て)右に多く動く
歩くとき  左手の振り幅が大きい/右手の振り幅が大きい
カバンなど  右手側に持つ/左手側に持つ
重心  右重心/左重心
両手を組むと  右の親指が上になる/左の親指が上になる
ウインク  右目を閉じる/左目を閉じる
教室・映画館などでの座席  (本人から見て)右よりの席に座る/(本人から見て)左よりの席に座る
手書き文字  文字の右肩が上がる傾向/文字の左肩が上がる傾向
ファッション  周囲と同じような服装を好む/派手な服装を好む
アイコンタクト  少ない・短い/多い・長い
初対面の人との距離  手を延ばして届かない距離/手を延ばせば触れられる距離


こんな感じ。(笑)
なんかこれから話題のタネに使えればと思います。

そんなんで、長くなってしまったが以上☆

119冊目:「宇宙が味方する経営」

2013-12-29 16:44:18 | 
総評:★★★☆☆ まあまあ面白かった。
面白い度:★★★☆☆ 面白さは普通。
読みやすい度:★★★★☆ 読みやすいほう。
ためになる度:★★★★☆ なかなかタメになった。
また読みたい度:★☆☆☆☆ 2回目はいいと思う。


神との対話に続き、微妙?にスピリチュアル系の本を読んでみた。
今回は関西アーバン銀行頭取の伊藤さんという方が、キリスト教の思想を持っている方で、その伊藤さんの考える会社経営とはということについて書いてある。

具体的な経営手法という訳ではなく、経営者としての心の持ち方、考え方、人としての在り方について書いてある本で、どちらかというと、稲森和夫さんの「哲学」に近いジャンルの内容かなと思った。


読んだ感想をまとめると、経営者は、金とか名誉とかそういうものを目的としていては会社は長くは続かず、人のために周りのためにといった正しい目的で会社を経営すると、宇宙の流れと同調し、しっかりとした経営が出来るよと言ったことが書いてあった。

まあ、昨今、マスコミやなんらかの特集や報道もあってか、お金もうけが優先だったり、お金を儲けるためには何でもする!といった会社が増えてきているとは思うが、やはりそういった会社は後にも先にも長くは続かないと思う。
「なんのために生きるか」もそうだし、「なんのために会社を経営するか」といった明確な目的がなければ会社は続かないと思うし、それが、一時のお金儲けのためとか、会社を存続させるため。だけでは、やっぱり会社はうまく行かないと思う。

会社を経営していく上では、周りや社会に何らかの「良いこと」をしていく必要があるとは思うし、それは形が残るのであっても、残らないのであってもいいとは思う。
経営者はやはり人の上に立つものであるので、何かやましい考え方や、自分の成功のため。といった自分のために会社を起こすのはやはり間違っていると自分も思う。
一度人の上に立つのであればやはりそれ相応の人格が必要だと思うし、それ相応の目的を持って会社を経営していくのが必要だと思った。というか前からこれは感じているが。

そんな訳で、人の上に立って会社を経営していく人はどういう考え方を持って、どういう人であるべきかと言った内容が書かれていて、フムフムなるほど、と思うこと多数。
なかなか面白い知識を得ることができ、タメになった内容でした。


最後に面白いと思った部分を抜粋する。

・少し物質について考えてみましょう。物質はもとはエネルギーだと考えられています。エネルギーが物質化するためには、ひとつの設計図みたいなものが必要になってきます。たとえば身近な例でいくと、どこかの大学に入りたいという意志を持つとします。そうすると、具体的にどういうふうにしたら入れるかという情報を集めます。そして努力して、希望の大学に入ったという結果がでてきます。会社でも、自分の会社をこうしたいと願います。時価総額をいくらにしたいとか、そういう意志、想念です。そのためにそれを具現化する手段を作っていくのです。
 そう考えると、私たちの目の前にある現実は結果の世界となります。まず想念の世界があって、そして結果の世界が現実の世界です。そしてまたその先には新たな想念の世界があるでしょう。因果応報というのは、これを表しています。いい結果をもたらすためにはいい想念がまず大事です。想いの方向が間違っていたら、間違った結果が出てしまうのです。

・逆に問題なのは、価値観が頭の中で固定化されて微動だにしない人、自分なりの固い妄想ともいえる信念ができあがってしまった人です。いわば、自分で自分を今の時代の価値観に洗脳してしまった人といってもいいでしょう。
 どこにもそんな人は少なからずいます。そして、そんな人を生んだ原因は何かといえば、実は「苦労」であることが多いのです。何のために「苦労」してきたかです。
 苦労というと、経験すべきこと、いいことだとばかり思われている節がありますが、必ずしもそうではありません。いい苦労ならば人間を成長させますが、悪い苦労をすると頭が固くなってしまい、一つの考え方を改めようとしなくなります。こういう人は、なかなか時代の洗脳から離脱できません。
 いい苦労なのか悪い苦労なのか、それを分けるのは「目的」であると私は考えています。たとえば、同じように下積みの苦労を重ねて社長になるにしても、金儲けをして威張ることを目的にしていた人と、よりよい社会を作ることを目的にしていた人とでは、人間の成長の度合いがまったく違ってきます。~(中略)~
 一方、よい目的をもって成功した人は、自分の成功に対して謙虚な気持ちになれます。周囲の協力や応援があって、自分はここまでやってきたのだと考えられるからです。
 どうも、世の中の中小企業の社長さんを見ていると、この二つのタイプにはっきりと分けられるような気がします。

・私は経営者として大事な仕事の一つに『適材適所を見極める」ということがあると思います。業績が上がらない理由は、その人のやる気がたりないとか能力が低いという問題である場合は少なく、その仕事や環境に合っているかどうか、それによってその人のよい面が引き出されているかどうかの問題である場合が多いのです。

・人間にたとえれば、「人間とは何か。人生をどう生きるか」を考えるようなものでしょうか。何のためにいきているかと考えていない人は、顔を見ればわかります。それと同じで、企業も何のために存在するのかを問い続けている企業と考えていない企業とでは、違いが出てくるのです。

・想念は人間の精神エネルギーそのものです。そしてトップの想念というものは、岸に次々と波が打ち寄せるように、着実に従業員に伝わります。ですから、トップは高貴でかつ強力な想念を持ちつづけなければならないのです。
 
・霊眼が開かれているから、あるいは何か不思議なことができるからといって、その人の霊性が高いとは限りません。霊界の声を聞いたり、霊を呼び寄せたりできるという人が、よくテレビに登場しますが、そうした人の霊性が低いと、寄ってくるのは低い霊界の魂だけになってしまいます。霊界の全貌を知るには、かなり高いレベルの理性、理解力、霊性が必要とされるのです。そして、霊性の高い低いは、実はその人の謙虚さの程度によるのです。神は謙虚な人にしかけっして神の奥義を啓示しません。悪用されるからです。

・しかし、本当に知恵ある人というのは、「自分は本当にくだらない人間で、まったく無知な人間だ」と悟った人なのです。反語的ですが、いわば、「愚者が最大の賢者」なのです。

・では、具体的にどういうことをすれば精神性を高めることに役立つのでしょうか。それは、幅広く好奇心を持つことだと私は思っています。それも、自分の仕事から離れたことがらについて興味や関心を持つことが大切です。

こんな感じです。以上☆

118冊目:「神との対話③」

2013-12-14 16:09:32 | 
総評:★★★★★ 長くて難しいがとてもすごい!。
面白い度:★★★☆☆ 面白いというか引き込まれた。
読みやすい度:★★☆☆☆ 読みやすくはない。
ためになる度:★★★★★ 超超タメになった。
また読みたい度:★★★☆☆ 長すぎるんで微妙。


神との対話シリーズもこれで最後!
とても疲れました。何よりもボリュームが半端ない!
1冊一ヶ月近くかかるって(笑)
でも読み終わった時のなんか悟った感はすごかった。。。
この3冊で結構考えが変わると思う。


まず大きく分かったことは、人は本当の自分になるために生きているということだ。
本当の自分というのは、一人一人違うし、それも答えが用意されているわけではない。
人は生きて行く上で、その本当の自分というのを探しながら生きていかなければいけないと思う。
それは、自分の感情を指針にしたり、瞑想などで「内なる自分」と向かいあうことで少しずつ分かるようになっていくと思う。

また、本当の自分は、今生の生き方だけでなく、自分の今まで生きてきた「魂」や「カルマ」によって決められているのだろうなあと思う。なので、一人一人本当の自分になるための方法は違うし、本当の自分になるための難易度や時間も人によっては違うだろう。
また、今生で本当の自分が見つかるか、またなれるかも分からない。
そんな難しい「魂の試練」というか、そう言ったものがあるが、それはそれで楽しんだもん勝ちなんだろうなあと思う。
そして「素直になること」が必要なんじゃないかと漠然と感じた。

この本を読んで、「目に見えないもの」がとても大事なことだということが分かった。
星の王子様の絵本にも、本当に大切なものは、目に見えないんだ。という一説があるが、
これはまさにこのことなんだろうなあと思う。
イメージ、波動、祈り、感情、オーラ、気など、この世界には物質以外のものもたくさん溢れている。
またそれを含めてのもちろん地球なので、その世界にももちろん目を配らなくてはならないと思う。

お金やいい家、いい車などと言ったステータスは、目に見える分分かり易いが、もちろんそれを手に入れたといって幸せになれるか、というか、「本当の自分」になれたかどうかは分からない。
それがその人の波動にあったものなのなら良いと思うが、いずれにせよ自分は、「お金」や「成功」を手に入れた人が全て幸せであるとは思わない。成功を手に入れて周りを見たら、信頼できる人は一人もいなかったっていう物語も往々にしてあったりもするし。

なので、自分が言いたいのは、周りに惑わされることなく、自分が本当に欲しているもの、本当の自分になれるためのものをそれぞれが探して、それぞれにあった「本当の自分」になるための道を歩んで行くのが必要だということだ。
なので、マスコミだったり、周りの意見や情報に左右されず。自分のこれだと思う道を選ぶことが重要なのだ。


最近思い返した話に「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編がある。
王は絶対的な力を持って産まれた。それも世界を掌握できる程の力である。
側近の3匹?のキメラアントはもちろん王が王として世界を支配するのを願っている。
最初は王も自分が世界を支配するものだと思っていた。

しかし、一人の盲目の軍儀(将棋のようなもの)打ちの少女と会ったことで、大きくそこからの運命を変える。
単なる余興と思って少女と軍儀を打っていた王だったが、王と少女のハイレベルの対局を通じて少女が覚醒する。
元から軍儀世界一だった少女が王と打っていて、さらに強くなれるきっかけを掴めたのだ。
今まで力が全てだと思っていた王はそこで自問自答する。「自分は何なのか?」「何のために生まれてきたのか?」

それは本当の自分になるためのきっかけだったのではないかと思う。
その折に王討伐軍(主人公側)との戦闘が始まる。
恐ろしいほどの力を持っていた王は、討伐軍を簡単に倒せる力を持っていながら、力だけではない解決策を考えようとしていた。
最終的に王は、討伐軍との戦闘で、人間側の仕掛けた毒に冒される。

紆余曲折を経て、王が最後に願ったことは、その軍儀打ちの少女と最後に軍儀を打って過ごすことだった。
軍儀打ちの少女は盲目で、軍儀以外の取り柄はほぼ無い人物でありながら、軍儀を打つことに自分の生きる意味を見いだしていた。
この子は自分に匹敵する力を持った打ち手をずっと探しており、その力を持った王と対局をすることにこれ以上に無い幸せを感じていた。

王と少女の最後の対局では、王が繰り出した一手に少女は感動し、涙を流す。
それを見て王は、自分が毒に冒されていること、そしてこのままいると少女にも毒が周り死ぬことを打ち明け、「最後にそなたと打って過ごしたかった」と告白する。
少女は、ノータイムでそれに応ずる一手を打ち、「ふつつか者ですが、ご一緒させて下さい」と返す。
そして「私はこの日のために生まれてきました」と王に告げる。

それを聞いた王はそこで「私はこの瞬間のために生まれてきたのだ」と悟る。
そして最後、目が見えない暗闇の中、人知れず二人は手をつなぎながら共に息を引き取り、キメラアント編は終わる。


そんなことを思い返しながら、なぜか自分は涙が出ました。
なぜかは分からないが、とても感動して涙を流していました。

「力」でもない「お金」でもない。
それぞれに生まれてきた意味、生きる意味がある。それは一日で成就するかもしれないし、一瞬で成就するかもしれない。
でもその生まれてきた意味のために。人は生きる必要があると思う。


ちょっと話が逸れてしまったが、最近この話を思い出したことにも何かしらの意味があるのだろう。
ということでここで書いておく。


こんなんで、31歳にしてこの3部作を読んで自分なりに何かを掴めた気がしました。
それは今までこのブログに書いてきた本を読んできた土台があり、今の自分があると思うが。
思い返してみると、それぞれの本でも同じようなことが書いてあった気がします。
とりわけ、この神との対話③に書いてあることと、「小さな宇宙人 アミ」シリーズが書いてあることが結構重なっているかなと思いました。

この本に書いてあることは、良くわからないことも多いが、それはそれで何かを掴めるきっかけになると思います。
そんなんで、とてつもなく長かったが、この本はオススメです。


ということで最後に、印象に残った部分を抜粋する。とても長いです!

・「知っていることを知るためには、知っているかのように行動する」ことだ。~(中略)~
まず、「幸せ」(あるいは「知っている」「賢明だ」「優しい」)という状態になりなさい。その状態から、「行為」を始める。そうすれば、まもなく自分の行為が、結果として「所有したい」と思っていたものをもたらすことに気づくだろう。
この創造的プロセスを始動させるには(これはまさに創造のプロセスなのだが)、自分が「所有」したいものを見つめ、それが「もてたら」自分はどう「なる」だろうと考え、そのとおりになりなさい。

・あなたの選択が矛盾していて、身体と精神と霊魂の動きが一体でなければ、全部のレベルでそれぞれ創造のプロセスが進行し、結果はめちゃくちゃになる。いっぽう、あなたが調和のとれた存在なら、選択は一致し、驚くべきことが起こりうる。子供達はよく、「みんな一緒」と言うね。あれが調和し、一体になった状態だと言っていい。
それぞれの意思決定のレベルのなかにもまたレベルがある。とくに精神のレベルではそうだ。精神は、少なくとも論理的なレベル、直感的なレベル、感情的なレベルという三つのレベルのどれかで決断し、選択できるし、三つのすべてでも選択できる。この結果、さらにややこしい葛藤が生まれることがある。
また、感情のレベルには、さらに五つのレベルがある。つまり五つの自然な感情だ。悲しみ、怒り、羨望、不安、そして愛。さらにそのなかに、最終的な二つのレベルがある。愛と不安だ。
愛と不安は五つの自然な感情にふくまれるが、どの感情も基本は愛と不安だ。他の三つの感情は、この二つから派生する。
結局、すべての考えは、愛か不安によって支えられている。これが偉大な二極性だ。原始の二元性だ。すべてはどちらかに還元される。すべての思い、思考、概念、理解、決定、選択、行動はこのどちらかに根ざしている。しかも、究極的にはたったひとつしかない。愛だ。じつは愛こそがすべてだ。不安さえも愛の派生物であり、効果的に使われれば愛の表現になる。

・それは、子供を産む若者たちが子供を育てるようにはできていないからだ。あなたのいる社会で言うと、もう育児期間が終わっているころに、子育ては始まるべきだ。
生物学的に見て、人間は自分が子供のうちに子供をつくることができる。驚くかもしれないが、生まれて四〇年、五〇年はまだ子供なのだよ。~(中略)~
子供をつくるのは、よく発達した強い身体をもつ若者の活動だ。
子供を育てるのは、よく発達した強い精神を持つ年長者の活動だ。
あなたがたの社会では、子供をつくった者に子育ての責任を負わせる。その結果、子育てが非常にむずかしくなるばかりでなく、性的な活動を包むエネルギーまでゆがめられる。

・だが、年長者が貢献しないとしたら、それはあなたがたが貢献させないからだ。会社でほんとうに良い仕事ができるようになったころに退職させ、彼らの参加によって進歩に何らかの意義がもたらされるころに、積極的な意義のある活動から退かせる。
子育てだけではなく、年長者たちがかろうじて足がかりを得ている政治、経済、宗教でさえも同じことだ。あなたがたの社会は若者を崇拝し、年長者を追放している。
それに、複数社会ではなく、単数社会にもなっているね。つまり、グループではなく個人単位でできあがっている社会だよ。社会が個人化し、若者化したために、あなたがたは豊かさや資源をたくさん失った。だからおおぜいが感情的にも心理的にも貧しく枯渇した暮らしをしている。

・創造する力は、「一体化」のなかにある内なる強さから生じるのだから。~(中略)~
べつべつだと考えるのをやめなさい。そうすれば、「一体化」のなかの内なる強さから、社会全体としても、個々の部分としても、好きなように真の力をふるえる。
だが、覚えておきなさい。力は内なる強さから生まれる。内なる強さは、そのままの力からは生まれない。~(中略)~
なにごとからも、何ものからも離れていないというつもりで行動しなさい。そうすれば、明日にも世界を癒すことができる。これが、あらゆる時を通じて最も偉大な秘密だ。人間が何千年も探し求めてきた答えだ。人間が苦労して求めつづけた解決策、祈りつづけた啓示だ。
なにごとからも離れていないつもりで行動しなさい。そうすれば、世界を癒せる。これは、何かとともにある力のことで、何かの上にふるう力ではないことを理解しなさい。

・思考のコントロールとは、最高のかたちの祈りだ。だから、良いこと、正しいことだけを考えなさい。否定的なことにこだわり、闇のなかにいてはいけない。たとえ、ものごとが荒涼として見えても、いや、そういうときこそ、完璧さだけを見つめ、偉大さだけを表現し、それから、つぎにはどんな完璧さの実現を選択しようかということだけ考えなさい。この公式におだやかさが見いだされる。このプロセスに平和が見いだされる。この認識に喜びが見いだされる。

・視点が思考を創り、思考がすべてを創るという真実さえ覚えていれば、それに、身体を離れる前にこの真実を思い出せば、あなたの人生はがらりと変わる。~(中略)~
視点を変えれば、考えが変わる。この方法を覚えれば、思考をコントロールできる。経験を創造するには、思考のコントロールこそすべてだ。これをつねに祈ることだと言うひともいる。

・前に、あなたが起こってほしいと思うことはなんでも実現すると言ったね。あれはほんとうだ。身体に宿っているあいだも、身体から離れたあとでも自分の現実を創造している。最初はそれに気づかず、意識すらしないかもしれない。そのとき、あなたがたの経験は二つのエネルギーのいずれかによって創られる。コントロールのきかない考えか、集合的な意識か。
コントロールのきかない考えが集合的意識よりも強ければ、その度合いに従って、そちらを現実として経験する。集合的意識が受け入れられ、吸収され、内部化されていれば、その度合いに従って、それを現実として経験する。現在の人生で現実と呼ばれるものを創造するのと同じことだ。
生命にはつねに、三つの選択肢がある。
 ①コントロールのきかない考えに「いま」を創造させる。
 ②自分の創造的意識に「いま」を創造させる。
 ③集合的意識に「いま」を創造させる。
 ~(中略)~
ほんとうは、低い意識にとりまかれているときに、自分の考えを大事にしたほうが身のためだし、高い意識にとりまかれているときには、まわりに屈服したほうが身のためだ。
だから、高い意識をもったひとを探し求めるほうが賢い。どんなひとと道連れになるかということが、大切なのだ。このことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。

・自分のためになるのなら、信念にこだわりなさい。信念をもちつづけなさい。迷わなくていい。何が「正しく」、何が「間違っている」と考えるか、それによって自分が決まるのだから。しかし、ひとにあなたの考え方を押しつけてはいけない。それに、現在の信念や習慣に「しがみつき」進歩のプロセスをはばんでもいけない。~(中略)~
生命はすべて動きだ。岩でさえも動きに満ちている。すべてが動く。すべてだ。すべては次の瞬間には変わっている。変わらないものはない。同じところにとどまること、あるいはとどまろうとすることは、生命の法則に反した動きだ。それはばかげている。その闘いでは、つねに生命が勝つ。
だから、変化しなさい! そう、変わりなさい! 何が「正しく」何が「間違っている」かという考え方も変えなさい。あれこれについての意見も変えなさい。自分の組成、自分の構造、自分のモデル、自分の理論を変えなさい。

・内側へはいっていきなさい。内なる知恵を探ってごらん。内なる知恵が何をしろと呼びかけているか、聞いてごらん。そして、そのとおりに行動しなさい。~(中略)~
いちばん大切なのは恐れないことだ。いずれにしても、あなたがたは「死ぬ」ことはないから、恐れることは何もない。プロセスの展開を認識し、すべてはうまくいくと知っておだやかにしていること。
すべてのものごとの完璧さにふれようと努めなさい。どこへ進もうとも、そこはほんとうの自分を創造するという経験にふさわしい場所なのだ、ということを覚えていなさい。
これが平和への道だ。すべてのものごとに完璧性を見ること。
最後に、なにごとからも「のがれ」ようとしてはいけない。抵抗すると、相手はますます強くなる。

・「超能力」を増強する第一歩は、それをもっていることを知って、使うことだ。あらゆる勘、あらゆる感情、あらゆる予感に注意をはらいなさい。注意をはらうこと。それから、「知った」ことをもとに行動する。それについては、精神に口出しをさせてはいけない。不安だからと、遠ざけてはいけない。恐れげもなく直感どおりに行動すればするほど、直感が役に立つようになる。直感はつねにあるのに、あなたが注意をはらっていないだけだ。

・超能力現象には三つのルールがある。それを知れば、超能力がどんなふうに働くか、わかるだろう。
 ①思考はすべて、エネルギーである。
 ②ものごとはすべて、動いている。
 ③すべての時は、現在である。
超能力者とは、この現象が引き起こす経験、つまり振動に自分を開いているひとだ。ときには、心に画像が浮かぶ。ときには、思考が言葉になる。
超能力者は、このエネルギーをうまく感じとる。最初は簡単ではない。このエネルギーは非常に軽くて、移ろいやすく、かすかだから。~(中略)~
すぐれた超能力者は、決して疑問をいだかない。疑問をいだいたら、答えが消えてしまうから。疑問をいだくというのは精神の働きだが、超能力者は精神を働かせるのをとてもきらう。直感は精神には存在しない。超能力者になるには、精神から離れ、常軌を逸していなければならない。直感とは心に、魂にあるものだから。
直感とは、魂の耳だ。
魂だけが、生命のほんのかすかな振動を「聞き分け」、エネルギーを「感じ」、波動の存在を意識して、それを解釈する繊細なツールをもっている。あなたがたは、五つではなく六つの感覚がある。嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚・・・そして知覚だ。

・物質的宇宙に組みこまれた自然の法則はある。そのひとつが、因果関係の法則だ。因果関係の法則のなかで、最も重要なのは、つぎのようなことだ。
自分が引き起こした結果は、結局、自分自身が体験する。~(中略)~
自分にしてほしいと思うように、ひとにしてやりなさい。イエスは、因果関係を教えているのだ。第一の法則と呼んでもいい。

・どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが十分にわかるだろう。
死を理解しなければ、生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。
これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほどの重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。

・聖らかにひとたちはセックスをしないとか、それが聖性の証だと言うひとがいたら、それは、生命の働きを理解していない。わかりやすく説明しよう。人類にとって良いことか悪いことかを知る物差しが欲しいのなら、単純な質問をしてみるといい。
誰もがそれをするようになったら、どうなるか? これは、とても簡単な、非常に正確な物差しだ。
誰もがそれをして、その結果が人類にとって究極的な恵みをもたらすなら、それは「高度に進化した」ことだ。誰もがそれをしたら人類に災厄がもたらされるなら、それはあまり「高度な」ことではないから、推奨しかねる。

・そう、魂はいつでも身体から離れる。一生を通じて何度でも。だから、眠りというものを編み出したのだ。

・ときには、ただ楽しむだけのために、魂が身体を離れることもあるから。精神の目覚めや身体の若返りが目的ではなく、「ひとつであるもの」を知るという無上の喜びを再創造するために、身体を離れることもある。だから、必ずしも眠りが少ないひとほど進歩しているのではない。
しかし、身体で何をしているのかに目覚めたひとほど(そして、自分は身体ではなく、身体とともにいるのだと気づいているひとほど)身体とともに長くいられる。だから、「眠りが少なくてすむ」ように見えるのは、偶然ではない。

・毎日の瞑想は、最良の道具のひとつだ。瞑想によって、生命エネルギーを最高のチャクラに引き上げることができる―さらに、「目覚めた」ままで身体から離れることさえできる。
瞑想していると、身体が目覚めた状態のままで、全的な認識を経験する用意ができる。この準備ができている状態を「真の目覚め」と呼ぶ。だが、瞑想は単なる仕掛け、あなたが言う「道具」にすぎない。真の目覚めを経験するには、座って瞑想しなければならないとは限らない。立って行う瞑想もある。歩く瞑想もある。行動する瞑想もある。セクシュアルな瞑想もある。
瞑想とは、「真の目覚め」の状態だ。
この状態で立ち止まるというのは、道のなかばで足をとめること、どこかへ向かうのをやめること、何かをするのをやめること、立ち止まってその場に「いる」こと、ただその場で本来の自分でいることだ。
ほんの一瞬でも立ち止まることは、祝福に値する。周りをゆっくりと見まわせば、通り過ぎるだけではわからなかったことに気づく。雨上がりの深々とした土の匂い。愛するひとの左耳にかかる巻き毛。遊ぶ子供たちを見る楽しさ。この状態を経験するのに、身体から離れる必要はない。これが、真の目覚めの状態だ。
この状態で歩いていれば、すべての花の香りを吸い、すべての鳥とともに羽ばたき、一歩ごとの足もとの感触を実感できる。美と智恵を発見する。智恵は、美がかたちづくられるところにある。美は、すべての生命によってあらゆるところにかたちづくられている。探す必要はない。向こうからやってくる。
この状態で「行動」すれば、何をしてもそれが瞑想になり、あなたからあなたの魂への、そしてあなたの魂からすべての贈り物になり、捧げ物になる。皿を洗えば、手をひたす湯の温かさを楽しみ、湯と温かさの両方に感動する。コンピュータを使っていれば、指の動きに応じて目の前のモニターに現れる文字を見て、思いどおりに動く心身の力にわくわくする。夕食のしたくをすれば、食べ物を与えてくれた宇宙の愛を感じ、お返しに自分の愛のありったけを食事にこめる。その食事がごちそうだろうと、質素だろうと、それはかまわない。缶詰のスープだって、愛によっては美味になる。
この状態で性的なエネルギーの交換を経験すれば、ほんとうの自分の最高の真実を知る。
恋人の心があなたのホームになる。恋人の身体はあなたのものになる。あなたの魂は、もう自分がほかから離れているとは想像しなくなる。
準備ができたとき、あなたははっきりと目覚める。微笑みがそこへ連れていってくれる。シンプルな微笑みだ。一瞬、すべてを止めて、ただ微笑む。何かに向かって微笑むのではない。ただ、良い気分だから微笑む。心が秘密を知っているから微笑む。魂が秘密を知っているから微笑む。そのために微笑む。たくさん微笑む。その微笑みが、どんな痛みも癒してくれる。
あなたは道具を教えてくれと言う。だから教えてあげよう。呼吸しなさい。これも道具だ。長く、深く呼吸しなさい。ゆっくりと、おだやかに呼吸しなさい。生命という無を、満ちあふれるエネルギーを、満ちあふれる愛を静かに呼吸しなさい。あなたが呼吸しているのは、神の愛だ。深く呼吸しなさい。そうすれば感じられる。深く、深く呼吸しなさい。そうすれば、泣きたくなるほどの愛があふれ出す。うれしくて、泣きたくなる。神に出会うから。神があなたをあなたの魂に紹介してくれるから。
一度、これを経験すれば、人生は一変する。ひとは、「山の頂上に立った」り、最高のエクスタシーを感じた経験を語る。そういう経験をすると、ひとはすっかり変わる。

・宇宙で悠々と生きていこうと思うなら、神聖なる二分法を学び、十分に理解することが大事だ。神聖なる二分法とは、一見矛盾する二つの真実が同じ場で同時に存在しうるということだ。
いまの地球上の人びとには、受け入れがたいだろう。彼らは秩序が好きで、自分たちの考えに合わないものは頭から拒否する。だからの、二つの現実があり、それが矛盾しているように見えると、片方は間違っている、インチキだ、真実ではないと決めつける。
だが(あなたがたのいる相対性の領域とは逆に)絶対の領域では、「存在するすべて」というひとつの真実が、相対的には矛盾する効果を生み出す。
この神聖なる二分法は、人間の経験のなかでもよくあるのだよ。さっきも言ったとおり、これを受け入れなければ、悠々と生きていくことはまず不可能だ。しょっちゅう不平を言い、怒り、のたうち、むなしく「正義」を求めつづけなければならない。あるいは、正反対の力を融和させようと、むだな努力をしなくてはならない。だがそんな力は融和するはずがない。それどころか、もともと両者が緊張しているから、好ましい効果が生まれているのだ。
じつを言えば、相対性の領域はこの緊張によってたばねられている。たとえば、善と悪の緊張だ。究極的な現実のなかでは、善もなければ悪もない。絶対の領域にあるのは愛だけだ。だが、相対性の領域で、あなたがたは悪と、「呼ぶ」経験を創造した。善悪の両極を創造し(いまも毎日、創造しつづけ)、片方を使って、べつの側を経験できるようにした。
これが、神聖なる二分法だ。
さて、それでは最大の神聖なる二分法について話そう。
あるのは「ひとつ」だけだから、「魂はひとつ」しかない。しかし、「ひとつ」のなかには多くの魂がある。―ここで、二分法が働く。いま、魂のあいだに分離はないと説明したね。魂は生命エネルギーで、すべての物質的な客体の内外に(オーラとして)存在する。それがすべての物質的な客体を「たばねて」存在させているとも言える。「神の魂」が宇宙をたばね、「人間の魂」が個々の身体をたばねている。

・家の空気のように、生命エネルギーも(「神の魂」と呼んでもいい)、べつべつの物質的な客体をとりまき、べつの性質を示している。じつは、このエネルギーが一定の方法で合体して、客体のかたちができあがる。
エネルギーの粒子が集まって物理的なモノになると、非常に凝縮する。つきかためられ、まとまる。すると、ひとつひとつべつの単位の「ように見え」、「感じられる」。他のエネルギーとは「べつの」「異なった」ものらしくなる。だが、同じエネルギーがべつのふるまいをしているだけなのだ。べつのふるまいをするから、「存在するすべて」が「多くの存在」として現れることが可能になる。
凝縮して物理的なモノになる「エネルギーのかたまり」のひとつひとつ、それが、あなたがたが「魂」と呼ぶものだ。つまり、わたしというエネルギーが分かれてたくさんのあなたがたになった。これが、神聖なる二分法だよ。わたしたちはただひとつである。わたしたちはたくさんいる。

・ほんとうの自分についての最も偉大なヴィジョンの最も壮大なヴァージョンだけで、自分の人生を表現しなさい。

・愛とは、無制限ものだ。はじまりもなければ終わりもない。以前も以後もない。だから、愛はつねにある。つねに現実だ。
さて、さっき使った言葉に戻ろうか。自由だ。愛が無制限で、そしてつねにあるなら、愛は・・・自由だ。愛は完璧な自由なのだよ。
ひとはつねに愛し、愛されたいと願っている。そうだろう。つねに、愛が無制限であってほしいと願っている。そして、それを自由に表現したいと願っている。あなたがたは愛の経験のすべてで、自由と無制限と永遠を求める。いつも実現するとは限らないが、求めてはいる。愛とはそういうもので、ひとは心の奥底ではそれを知っているから求める。なぜ知っているか。あなたがたは愛であり、愛の表現を通して、ほんとうの自分を知り、経験するからだよ。
あなたがたは生を表現する生であり、愛を表現する愛であり、神を表現する神だ。
だから、これはみんな同義語だよ。同じものだと考えればいい。
神―生命―愛―無制限―永遠―自由
これにあたらないものは、ほかのどれでもない。

・あなたがたは愛である。愛は無制限で永遠で自由である。したがって、あなたがたもそうだ。それが、あなたがたの本来の性質だ。あなたがたはもともと、無制限で永遠で自由なのだ。
さて、あなたがたの本来の性質を踏みにじる、あるいは押さえつける人工的な、社会的、倫理的、宗教的、哲学的、経済的、政治的な機構はすべて、あなたがたの真の自己を侵害する。だから、あなたがたは強い不満をいだく。
たとえば、アメリカという国はどのように生まれたか。「自由を、しからずんば死を与えよ」ではなかったか? ところが、国民はその自由を放棄し、あなたがたは人生の自由を放棄した。どちらも同じ目的のため、安全保障のためだ。あなたがたは人生を―生命そのものを―恐れるあまり、自分の本来の性質を安全保障と引きかえに放棄したのだ。
結婚という制度は、安全を保障しようとする試みだ。政府と同じだね。じつは、両方の内容は同じなんだよ。お互いの行動を律しようとする人工的な社会制度だ。

・社会的な面で言えば、「公平」と「平等」との違いを理解することが重要だ。平等を求めることも、平等であろうとすることも、知的存在の基本的な本能ではない。それどころか逆だ。
同一性よりも独自性を表現する、それが生きとし生けるものの基本的な本能だ。真に平等な社会の構造は、不可能ばかりではなく、望ましくもない。真の平等を、言い換えれば経済的、政治的、社会的な「同一性」を実現しようとする社会のメカニズムは、最も偉大な考えと最高の目的に全く反している。
最高の目的とは、新たな真の自分を再創造していく機会を得るということだ。必要なのは機会の平等で、現実の平等ではない。それが公平ということだ。外部の力や法でつくり出された現実の平等は、公平を損なう。
では、機会の自由は何によって創り出されるか。社会がすべてのひとに基本的な暮らしを保障し、誰もが生存ではなく自分の成長と自己の創造を追求しつつ生きられる、そんなシステムだ。言い換えれば、生存を保証する真のシステム(生命と呼ばれる)を模倣したシステムだね。

・結婚する理由は、安定を求めるからではない。
また、心の安定が得られるのは、相手を自分のものとして所有したり、支配したり、また所有されたり、支配されたりするからではない。
人生で必要なものを相手に要求したり、期待したり、希望するからですらない。
心の安定が得られるのは、人生で必要なものすべて―すなわち愛と智恵と洞察と、力と知識と理解と、慈しみと共感と強さのすべてが自分自身のなかに存在することを知っているからだ。
それを相手から得るためにではなく、お互いに贈りたいから、それによって相手をもっと豊かにしたいから、私達は結婚する。
自分のなかの最高にして最善のものを正直に表現することをお互いに制約したり、コントロールしたり、妨げたり、お互いを束縛するために結婚するのではない。
義務を生み出すためではなく、機会を提供するために、成長する機会、お互いの魂を結びあわせることを通じて神との究極の一体化を実現する機会を与えあうために、わたしたちは結婚する。
わたしたちは対等なパートナーとして愛する人と人生を旅し、すべてのパートナーシップにつきものの権威と責任を平等に分かち合い、平等に負担を引き受け、平等に栄光に浴する。
わたしたちは、赤いバラを交換する。結婚という物質的なしくみのなかで、生身の人間としてどう暮らしていくかを知って同意するしるしに。
わたしたちは、白いバラを交換する。二人の上にいつまでも輝く神の愛の純粋さのしるしに。
わたしたちは指輪を交換する。はじまりも終わりもない、太陽と地球と宇宙のシンボルである丸い輪を、支配ではなく合体、制約でなく強力、束縛でなく手を繋ぎあうシンボルとして。
この結婚の秘績を執り行えるのは当人たちだけであり、それを神聖なものとできるのも当人たちだけである。わたしたちはすでに心に刻まれた真実をここに表明し、集まった友人と精霊の前で証言する。
アーメン。

・個人や社会がどれほど進化しているかは、何を「喜ぶ」かで、測られる。さらに言っておくが、何が自分の役に立つと言明するかでも測られるのだよ。
戦争に行き、ひとを殺すことが自分の役に立つのなら、そうするだろう。妊娠中絶をするのが自分の役に立つのなら、そうするだろう。進化とともに変わるのはただひとつ、何が自分の役に立つと思うかだ。そして、何が自分の役に立つと思うかは、何をしようと考えているかによって決まる。

・一瞬一瞬に神は自らを表現している。それはあなたがたを通じて行われている。あなたがたは、神がどう創造されるかをつねに選択している。神は決してその選択権を奪わないし、「間違った」選択をしたからと罰しもしない。また、あなたがたを指針なしに放り出しもしないし、今後も決してそんなことはない。あなたがたのなかに、わが家へ戻るための指針のシステムが組みこまれている。そのシステムとは、つねに最高の選択肢を語りかける声であり、最も偉大なヴィジョンを教える声だ。あなたがたはその声に耳を傾け、ヴィジョンを捨てずにいればいい。

・あなたがたの文明が瀬戸際に立ったのは、今回がはじめてではない。前にも一度、地球上で技術が進みすぎ、責任を持って活用する能力を超えてしまったことがあった。あなたがたは、人類史上の同じ地点に近づきかけている。
これは大切なことだから、理解しておきなさい。危険なことに、あなたがたの現在の技術は賢明に活用する能力を超えそうになっている。技術が社会の産物ではなく、社会が技術の産物になりかけている。社会が技術の産物になると自滅するよ。

・「そうであるかのように、行動しなさい」
すべてがひとつであるかのように、行動しなさい。明日から、そう行動してごらん。誰もがつらいときを過ごしている「自分」であるように、誰もが公平なチャンスを待っている「自分」であるように。誰もがつらい経験をしている「自分」であるように。
試してごらん。明日から、試してごらん。すべてのひとを新しい目で見てごらん。それから「充分」であるかのように行動してごらん。「充分」な金、「充分」な愛、「充分」な時間があったら、あなたの行動は違ってこないか? もっとオープンに自由に平等に分かち合うのではないか?

・この対話では基本的なこと、大事なことをくり返している。あなたがほんとうにものごとを変えたいなら、理解しなくてはならないことだ。だから、もう一度くり返そう。人間の文化と高度に進歩した文化のちがいは何か。高度に進化した存在はつぎの二つをする。
 ①充分に観察する。
 ②真実を伝えあう。
彼らは「何が役に立つか」を見抜いて、「ありのまま」を言う。これも、小さいが根本的なちがいで、地球上の人類をはかり知れないほど向上させるだろう。

・あなたは見つめているものを、本当は「見て」いないことを忘れないように。あなたの脳は、知の源泉ではない。データの処理装置にすぎない。脳は五感と呼ばれる受容器を通じてデータをとりこむ。かたちをつくっているエネルギーを、ものに関するこれまでのデータにてらして解釈する。脳はあなたが何を知覚したかを教えるのであって、何が現実かを教えるのではない。その知覚をもとに、あなたは真実を知ったと思うが、じつは半分しか知らない。ほんとうは、あなたが知る真実はあなたが創造しているのだ。

・しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。ただ、ありのままのわたしでいればいい。
だからといって、あなたの人生から「行為」がなくなるわけではないよ。そうではなく、あなたが経験する行為はあなたの存在から生じるのであって、行為があなたを存在に導くのではないということだ。
あなたが最初に「幸福」であれば、幸福だから何かをすることになる。幸福になりたいから何かをするという古いパラダイムとは逆だ。
あなたが最初に「智恵」であれば、賢いから何かをする。智恵を獲得しようとなにかをするのではない。
あなたが最初に「愛」であれば、愛だから何かをするのであって、愛を得たいから何かをするのではない。
あなたが最初に「存在」しようと求めるのではなく、最初に「存在」であれば、すべては変化する。すべては逆転sるう。「行為」によって、「存在」に行き着くことはできない。幸福に、賢明に、愛になりたくても―あるいは神になりたくても―行為によって「そこへ行き着く」ことはできない。だが、「そこに行き着けば」、すばらしい行為をする、それは真実だ。
ここに神聖なる二分法がある。「そこへ行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい! 簡単なことだ。しなければならないことは、何もない。
幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。賢明になりたいか? では賢明でいなさい。愛が欲しいか? では愛になりなさい。いずれにしても、それがあなただ。


そんなんで、最終巻の感想はこれで以上☆
長すぎた!次からはもうちょっとライトな本を続けて読もうと思う。