総評:★★★★★ これは文句なく5つ星!
面白い度:★★★★★ 面白さというかインパクトがすごい。
読みやすい度:★★★★★ 対話形式で読みやすい。
ためになる度:★★★★★ めっちゃためになった。というか世界が変わった。
また読みたい度:★★★★★ これはちょくちょく見直したい。
久々にでた!満点本!!
「嫌われてもいいから自分の意見を言えるようになろう!」と思って買った本。
仕事でかなり大人しい状態になっていたので、それを上司から指摘され、このままじゃいけないよなと思い、自分の意見をまず言えるようになることから始めようと思いました。
そんな中見かけたのがこのタイトル。
まさに今の自分にピッタリだと思って読んでみることにしました。
この本は題名からは想像つかないが、本題はアドラー心理学についてを扱った本で、アドラー心理学を学んだ哲人と呼ばれる先生とその考え方に真っ向から対立し、哲人の考えを論破しようとする青年の二人の対話が描かれている。
これはギリシャの有名な哲学者ソクラテスの考えを、その愛弟子プラトンがソクラテスとその相談者との会話を綴った「対話編」になぞらえて書き記されているものなのだった。
ソクラテスは自分の考えを文献などに書き記そうとしなかったらしい。その代わりにその弟子プラトンが勝手にその内容を対話記録として残しており、それが対話編として今日残っているとのことだった。
そんなギリシャの哲学にも触れられてなかなか面白い本であった。
そんなんで、卑屈な青年が哲人に向かって色々問答をするのだが、哲人はその質問の内容をアドラー心理学になぞらえて色々ためになる話を青年にしているのだった。
青年は最初はなかなか本当に卑屈だったが、やがてアドラー心理学に引き込まれ、大きく考えを変え、遂には哲人とアドラー心理学に感謝するのだった。
てか自分が読んでもこのアドラー心理学は本当にすごいなあと思う。
この思想はなかなか新しいし、自分が結構思っていたことに当てはまっていたりする。
例えば「成功」とは何か?「幸せ」とは何か?とか、この世界を楽しいか残酷なものかを決めるのは自分の考え方したいだとか、「他人」ではなく「自分」に焦点を当てるべき、など、アドラー心理学を作り出したアルフレッド・アドラーさんは100以上前に産まれて、かなり前に亡くなっている方なのだが、そんな昔にここまでの考えに行き着ていたことが本当にすごいと思う。
100年以上前の当時の考え方というよりかは、物質的に豊かになったが、精神的な豊かさには乏しい現代向けの人々にこそ分かってもらうべき内容であると思う。
なので、この心理学は当時からすると100年早すぎて誕生した心理学なのではないか?と思ったりする。
とりあえずアドラーさんは、当時(今でもそうだが)主流だった、フロイト流の心理学の前提、人は今まで生きた経験やトラウマなどが人の性格を決定するという考え方を180度覆し、人は今から変わることができるなどの斬新な考え方や、自分を精神や身体とかに分かれることなく、自分は最小単位は自分とし、それ以上小さく分割できないという考え方など、本当に変わったというか、自分も今まで考えたことのない考え方を編み出しているのだった。
そして「いま、ここ」という考え方。
いままでいろんなブログでいまここという考え方が書いてあったりしたのを見てきたのだが、これが最終章で本当に伝えるべき内容として書いてある。
このいままここという考え方は他でもないアドラーさんが生み出していたんだなあということが分かり、自分もまだよくわからない概念だったりするのだが、それを100年前に生み出していたアドラーさんは本当にすごいなあと思った。
このアドラー心理学は自分に自信がない人や、自分を変えようと思っている人にピッタリな考え方だと思うし、これを知っていると知らないとでは結構生き方に違いが出ると思います。
それほどこのアドラー心理学のインパクトは自分にとっても凄まじく、本当に読んでよかったなと思える本でした。
でも本当にまだつかみ所がわからないことが多く、特に全体を俯瞰できたかというと全然そうでもないので、もうちょっとこの考え方を整理する必要があるなあと思っています。
なので何回も読んでみて、さらに理解を深めていきたいと思える本でした。
とりあえずは面白かった箇所(いっぱいあるのだが)を抜粋していく。これを見ただけでもアドラー心理学の雰囲気を垣間見れることができると思う。
・哲人:変わることの第一歩は知ることにあります。~(中略)~
哲人:なぜそう答えを急ぐのです?答えとは、誰かに教えてもらうのではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対話療法にすぎず、なんの価値もありません。~(中略)~
青年:ソクラテスもアドラーも、対話を通じて気づきを与えていたと?
哲人:そのとおりです。あなたの抱いている様々な疑問は、そべてがこの対話のうちに解消されていくでしょう。そしてあなたは変わっていくでしょう。わたしの言葉によってではなく、あなた自身の手によって。わたしは対話を通じて答えを導き出していく、その貴重なプロセスを失いたくないのです。
・哲人:さて、彼女の悩みは赤面症でした。人前に出ると赤面してしまう。どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。そこでわたしは聞きました。「もしその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密かに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。赤面症が治った暁には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。
青年;ひゅう! いいですね、なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。
哲人:はたして、本当にそうでしょうか? わたしの見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか?どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面症という症状を必要としている」からです。
青年:いやいや、なにをおっしゃいますか。治してくれといっているのでしょう?
哲人:彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。
ところが、赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって・・・」と可能性のなかに生きることができるのです。
青年:じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえてると?
哲人:端的にいうのなら、そうです。
・哲人:何度でもくり返しましょう。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。
・哲人:たたし、権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。ここは強く指摘しておかねばならないところです。
青年:ふうむ、優越コンプレックスか。それは興味深い心理です。もっと違った事例は挙げられますか?
哲人:例えば、自分の手柄を自慢したがる人。過去の栄光にすがり、自分がいちばん輝いていた時代の思い出話ばかりする人。あなたの身近にもいるかもしれませんね。これらもすべて、優越コンプレックスだといえます。
青年:手柄を自慢することが?そりゃあ尊大な態度ではありますが、実際に優れているから自慢しているのでしょう。偽りの優越感とは呼べませんよ。
哲人:違います。わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。アドラーは、はっきりと指摘しています。「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。
・哲人:健全は劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
・哲人:競争の恐ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の安まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。
青年:それはそうかもしれませんが・・・、
哲人:しかし実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、その機会を虎視眈々と窺っているものでしょうか?おそらく違うでしょう。
わたしの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。すると彼は祖母からこういわれました。「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます。
・哲人:もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立った時には、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。
青年:権力争い?
哲人:たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。
青年:闘って、なにがしたいのです?
哲人:勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。
青年:よくわからないな。ちょっと具体例を挙げてもらえますか?
哲人:たとえば、あなたがご友人と、現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだ、と。
青年:そんなことをいわれたら、こちらだって堪忍袋の緒が切れますよ。
哲人:この場合、相手の目的はどこにあるのでしょう?純粋に政治を語り合いたいのでしょうか?違います。相手はただあなたを非難し。挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。いかなる挑発にも乗ってはいけません。
青年:いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!
哲人:では、仮にあなたが言い争いを制したとしましょう。そして敗北を認めた相手が、いさぎよく引き下がったとしましょう。ところが、権力争いはここで終わらないのです。争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。
青年:次の段階?
哲人:ええ。「復讐」の段階です。いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。
青年:たとえば?
哲人:親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。
しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、今の目的(親への復讐)をかなえるために。~(中略)~
哲人:ええ、そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。
・哲人:権力争いについて、もうひとつ。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
青年:なぜです?
哲人:人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
青年:正しいと思っただけで?いやいや、なんて誇張ですか!
哲人:わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から
「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。
青年:ううむ
哲人:そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。たからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。
青年:たしかに、その側面はあります。
哲人:負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
・哲人:それで、どうしてあなたが他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか。それは、勇気をくじかれたあなたが、「人生のタスク」から逃げているせいです。
青年:人生の課題?
哲人:そう、ここは大切なところです。アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。
青年:ほう。どういった目標でしょうか。
哲人:まず、行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてこの行動を支える心理面の目標か「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。
行動面の目標が、次の2つ。
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
そして、この行動を支える心理面の目標として、次の2つ。
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
・哲人:しかしアドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。
青年:いやいや、それは不貞を否定しかねない議論ですよ!だって、相手が幸せそうに浮気をしていたら、その姿までも祝福しろということになるではありませんか。
哲人:積極的に浮気を肯定しているわけではありません。こう考えてください。一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。劣等感を抱くでもなく、優劣性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことです。
一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。自分に不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできませんよね?アドラーはいいます。「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と。
・哲人:わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。
青年:誰の課題なのか?
哲人:子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
青年:子どもがやるべきこと、ということですか?
哲人:端的に言えば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?
青年:まあ、それはそうです。
哲人:勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年:分離して、どうするのです?
哲人:他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年:・・・・・それだけ、ですか?
哲人:およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと-あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。課題の分離ができるだけで対人関係は激変するでしょう。
青年:ううむ、よく分かりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、私の目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えるのですが。だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。
哲人:誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末ーたとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなどーを最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
・哲人:ここはしっかりと理解してください。他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
青年:じゃあ、自己中心的に、好き勝手に生きろと?
哲人:課題を分離することは、自己中心的になることではありません。むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。
・哲人:きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
青年:・・・先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?
哲人:嫌われることを怖れるな、といっているのです。
・哲人:たしかに、自己中心的な人物に対する一般的なイメージは、そのあたりでしょう。しかし、もうひとつのタイプを付け加えておかねばなりません。じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです。
青年:なぜです?
哲人:承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?・・・こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。
青年:じゃあ、わたしのように他者からの評価に怯えている人間もまた、自己中心的だというのですか?これほど他者に気を遣い、他者に合わせようとしているのに!?
哲人:ええ。「わたし」にしか関心がない、とう意味では自己中心的です。あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。
青年:しかし・・・
哲人:前回、わたしはいいました。あなたのことをよく思わない人がいるのは、あなたが自由に生きている証なのだ、と。もしかするとそこに、自己中心的な匂いを感じられたかもしれません。ですが、いまの議論でおわかりになったでしょう。「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」に鹿関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
・哲人:ここで最初の話に戻るわけです。われわれはみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。
青年:積極的にコミットする?具体的にどういうことです?
哲人:「人生のタスク」に立ち向かうことです。つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。もしもあなたが「世界の中心」なのだとしたら、あなたは共同体へのコミットなど露ほどにも考えないでしょう。あらゆる他者は「わたしのためになにかをしてくれる人」であり、自分から動く必要などないのですから。
しかし、あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。
青年:なにかを与えてこそ、自らの居場所を得ることができると?
哲人:ええ。所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。
・哲人:ええ、たしかに簡単ではないでしょう。そこで覚えておいてほしい行動原則があります。われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。
青年:より大きな共同体の声?
哲人:学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。
仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振舞っていたとしましょう。しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンスであって、それ以上のものではありません。「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。
青年:でも、目の前の教師に異を唱えるのは、相当にむずかしいでしょう。
哲人:いえ、これは「わたしとあなた」の関係でもいえることですが、もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
・哲人:アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。
青年:では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?
哲人:線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考えてください。
チョークで引かれた実践を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。
青年:連続する刹那?
哲人:そう。「いま」という刹那の連続です。われわれは、「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。
それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生に線などありません。
青年:人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?
哲人:もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、わえわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
・哲人:自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。
われわれの人生もまったく同じです。人生全体にうすらぼんやりとして光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
青年:強烈なスポットライト?
哲人:ええ。われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるようなきがしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとして光のなかに生きている証です。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうであるかなど、「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉などでてこない。
青年:し、しかし・・・。
哲人:フロイト的な原因論に立っていると、人生を因果律に基づく大きな物語としてとらえてしまいます。いつどこで生まれて、どんな幼少時代を過ごし、どんな学校を出て、どんな会社に入ったか。だからいまのわたしがいて、これからのわたしがいるのだと。
たしかに、人生を物語に見立てることは面白い作業でしょう。ところが、物語のさきには「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘の他なりません。
しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。
・哲人:目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。
青年:真剣だけど、深刻ではない。
哲人:ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
そしてもひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的(現実活動態的)視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。
青年:完結している?
哲人:あなたも、そしてわたしも、たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきもではありません。20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのです。
青年:もしも、わたしが「いま、ここ」を真剣に生きていたとしたなら、その刹那はつねに完結したものである、と?
哲人:そのとおりです。ここまでわたしは、何度となく人生の嘘という言葉を使ってきました。そして最後に、人生における最大の嘘はなにかをお話ししましょう。
青年:ぜひ教えてください。
哲人:人生のおける最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去を未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生にかけがえのない刹那に、おおいなる嘘をついてこられた。
青年:・・・・・ああ!
哲人:さあ、人生の嘘を振り払って、怖れることなく「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てなさい。あなたには、それができます。
青年:わたしに、わたしにそれができますか?人生の嘘に頼らず、この刹那を真剣に生き切る”勇気”が、このわたしにあると思われますか?
哲人:過去も未来も存在しないのですから、いまの話しをしましょう。決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。
・哲人:旅人が北極星を頼りにするように、われわれの人生にも「導きの星」が必要になる。それがアドラー心理学の考え方です。この指針さえ見失わなければいいのだ、こちらの方向に向かって進んでいれば幸福があるのだ、という巨大な理想になります。
青年:その星はどこにあるのですか?
哲人:他者貢献です。
青年:・・・・・他者貢献!
哲人:あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
青年:自らの上空に他者貢献という星を掲げていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにある!
哲人:そして、刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。
・哲人:ええ、信じてください。わたしは長年アドラー心理学の思想と共に生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
青年:なんでしょう?
哲人:それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
青年:どういうことでしょうか?
哲人:つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。
とても長かったが以上です。
結構この本のエッセンスは書いたので、ちょくちょくこれを見返して戻ってこようと思う。
そんなんでかなりのインパクトがあった本。読んでおいてよかったなあと思いました。
面白い度:★★★★★ 面白さというかインパクトがすごい。
読みやすい度:★★★★★ 対話形式で読みやすい。
ためになる度:★★★★★ めっちゃためになった。というか世界が変わった。
また読みたい度:★★★★★ これはちょくちょく見直したい。
久々にでた!満点本!!
「嫌われてもいいから自分の意見を言えるようになろう!」と思って買った本。
仕事でかなり大人しい状態になっていたので、それを上司から指摘され、このままじゃいけないよなと思い、自分の意見をまず言えるようになることから始めようと思いました。
そんな中見かけたのがこのタイトル。
まさに今の自分にピッタリだと思って読んでみることにしました。
この本は題名からは想像つかないが、本題はアドラー心理学についてを扱った本で、アドラー心理学を学んだ哲人と呼ばれる先生とその考え方に真っ向から対立し、哲人の考えを論破しようとする青年の二人の対話が描かれている。
これはギリシャの有名な哲学者ソクラテスの考えを、その愛弟子プラトンがソクラテスとその相談者との会話を綴った「対話編」になぞらえて書き記されているものなのだった。
ソクラテスは自分の考えを文献などに書き記そうとしなかったらしい。その代わりにその弟子プラトンが勝手にその内容を対話記録として残しており、それが対話編として今日残っているとのことだった。
そんなギリシャの哲学にも触れられてなかなか面白い本であった。
そんなんで、卑屈な青年が哲人に向かって色々問答をするのだが、哲人はその質問の内容をアドラー心理学になぞらえて色々ためになる話を青年にしているのだった。
青年は最初はなかなか本当に卑屈だったが、やがてアドラー心理学に引き込まれ、大きく考えを変え、遂には哲人とアドラー心理学に感謝するのだった。
てか自分が読んでもこのアドラー心理学は本当にすごいなあと思う。
この思想はなかなか新しいし、自分が結構思っていたことに当てはまっていたりする。
例えば「成功」とは何か?「幸せ」とは何か?とか、この世界を楽しいか残酷なものかを決めるのは自分の考え方したいだとか、「他人」ではなく「自分」に焦点を当てるべき、など、アドラー心理学を作り出したアルフレッド・アドラーさんは100以上前に産まれて、かなり前に亡くなっている方なのだが、そんな昔にここまでの考えに行き着ていたことが本当にすごいと思う。
100年以上前の当時の考え方というよりかは、物質的に豊かになったが、精神的な豊かさには乏しい現代向けの人々にこそ分かってもらうべき内容であると思う。
なので、この心理学は当時からすると100年早すぎて誕生した心理学なのではないか?と思ったりする。
とりあえずアドラーさんは、当時(今でもそうだが)主流だった、フロイト流の心理学の前提、人は今まで生きた経験やトラウマなどが人の性格を決定するという考え方を180度覆し、人は今から変わることができるなどの斬新な考え方や、自分を精神や身体とかに分かれることなく、自分は最小単位は自分とし、それ以上小さく分割できないという考え方など、本当に変わったというか、自分も今まで考えたことのない考え方を編み出しているのだった。
そして「いま、ここ」という考え方。
いままでいろんなブログでいまここという考え方が書いてあったりしたのを見てきたのだが、これが最終章で本当に伝えるべき内容として書いてある。
このいままここという考え方は他でもないアドラーさんが生み出していたんだなあということが分かり、自分もまだよくわからない概念だったりするのだが、それを100年前に生み出していたアドラーさんは本当にすごいなあと思った。
このアドラー心理学は自分に自信がない人や、自分を変えようと思っている人にピッタリな考え方だと思うし、これを知っていると知らないとでは結構生き方に違いが出ると思います。
それほどこのアドラー心理学のインパクトは自分にとっても凄まじく、本当に読んでよかったなと思える本でした。
でも本当にまだつかみ所がわからないことが多く、特に全体を俯瞰できたかというと全然そうでもないので、もうちょっとこの考え方を整理する必要があるなあと思っています。
なので何回も読んでみて、さらに理解を深めていきたいと思える本でした。
とりあえずは面白かった箇所(いっぱいあるのだが)を抜粋していく。これを見ただけでもアドラー心理学の雰囲気を垣間見れることができると思う。
・哲人:変わることの第一歩は知ることにあります。~(中略)~
哲人:なぜそう答えを急ぐのです?答えとは、誰かに教えてもらうのではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対話療法にすぎず、なんの価値もありません。~(中略)~
青年:ソクラテスもアドラーも、対話を通じて気づきを与えていたと?
哲人:そのとおりです。あなたの抱いている様々な疑問は、そべてがこの対話のうちに解消されていくでしょう。そしてあなたは変わっていくでしょう。わたしの言葉によってではなく、あなた自身の手によって。わたしは対話を通じて答えを導き出していく、その貴重なプロセスを失いたくないのです。
・哲人:さて、彼女の悩みは赤面症でした。人前に出ると赤面してしまう。どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。そこでわたしは聞きました。「もしその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密かに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。赤面症が治った暁には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。
青年;ひゅう! いいですね、なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。
哲人:はたして、本当にそうでしょうか? わたしの見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか?どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面症という症状を必要としている」からです。
青年:いやいや、なにをおっしゃいますか。治してくれといっているのでしょう?
哲人:彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。
ところが、赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって・・・」と可能性のなかに生きることができるのです。
青年:じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえてると?
哲人:端的にいうのなら、そうです。
・哲人:何度でもくり返しましょう。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。
・哲人:たたし、権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。ここは強く指摘しておかねばならないところです。
青年:ふうむ、優越コンプレックスか。それは興味深い心理です。もっと違った事例は挙げられますか?
哲人:例えば、自分の手柄を自慢したがる人。過去の栄光にすがり、自分がいちばん輝いていた時代の思い出話ばかりする人。あなたの身近にもいるかもしれませんね。これらもすべて、優越コンプレックスだといえます。
青年:手柄を自慢することが?そりゃあ尊大な態度ではありますが、実際に優れているから自慢しているのでしょう。偽りの優越感とは呼べませんよ。
哲人:違います。わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。アドラーは、はっきりと指摘しています。「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。
・哲人:健全は劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
・哲人:競争の恐ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の安まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。
青年:それはそうかもしれませんが・・・、
哲人:しかし実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、その機会を虎視眈々と窺っているものでしょうか?おそらく違うでしょう。
わたしの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。すると彼は祖母からこういわれました。「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます。
・哲人:もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立った時には、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。
青年:権力争い?
哲人:たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。
青年:闘って、なにがしたいのです?
哲人:勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。
青年:よくわからないな。ちょっと具体例を挙げてもらえますか?
哲人:たとえば、あなたがご友人と、現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだ、と。
青年:そんなことをいわれたら、こちらだって堪忍袋の緒が切れますよ。
哲人:この場合、相手の目的はどこにあるのでしょう?純粋に政治を語り合いたいのでしょうか?違います。相手はただあなたを非難し。挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。いかなる挑発にも乗ってはいけません。
青年:いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!
哲人:では、仮にあなたが言い争いを制したとしましょう。そして敗北を認めた相手が、いさぎよく引き下がったとしましょう。ところが、権力争いはここで終わらないのです。争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。
青年:次の段階?
哲人:ええ。「復讐」の段階です。いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。
青年:たとえば?
哲人:親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。
しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、今の目的(親への復讐)をかなえるために。~(中略)~
哲人:ええ、そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。
・哲人:権力争いについて、もうひとつ。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
青年:なぜです?
哲人:人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
青年:正しいと思っただけで?いやいや、なんて誇張ですか!
哲人:わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から
「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。
青年:ううむ
哲人:そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。たからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。
青年:たしかに、その側面はあります。
哲人:負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
・哲人:それで、どうしてあなたが他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか。それは、勇気をくじかれたあなたが、「人生のタスク」から逃げているせいです。
青年:人生の課題?
哲人:そう、ここは大切なところです。アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。
青年:ほう。どういった目標でしょうか。
哲人:まず、行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてこの行動を支える心理面の目標か「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。
行動面の目標が、次の2つ。
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
そして、この行動を支える心理面の目標として、次の2つ。
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
・哲人:しかしアドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。
青年:いやいや、それは不貞を否定しかねない議論ですよ!だって、相手が幸せそうに浮気をしていたら、その姿までも祝福しろということになるではありませんか。
哲人:積極的に浮気を肯定しているわけではありません。こう考えてください。一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。劣等感を抱くでもなく、優劣性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことです。
一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。自分に不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできませんよね?アドラーはいいます。「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と。
・哲人:わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。
青年:誰の課題なのか?
哲人:子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
青年:子どもがやるべきこと、ということですか?
哲人:端的に言えば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?
青年:まあ、それはそうです。
哲人:勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年:分離して、どうするのです?
哲人:他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年:・・・・・それだけ、ですか?
哲人:およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと-あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。課題の分離ができるだけで対人関係は激変するでしょう。
青年:ううむ、よく分かりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、私の目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えるのですが。だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。
哲人:誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末ーたとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなどーを最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
・哲人:ここはしっかりと理解してください。他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
青年:じゃあ、自己中心的に、好き勝手に生きろと?
哲人:課題を分離することは、自己中心的になることではありません。むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。
・哲人:きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
青年:・・・先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?
哲人:嫌われることを怖れるな、といっているのです。
・哲人:たしかに、自己中心的な人物に対する一般的なイメージは、そのあたりでしょう。しかし、もうひとつのタイプを付け加えておかねばなりません。じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです。
青年:なぜです?
哲人:承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?・・・こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。
青年:じゃあ、わたしのように他者からの評価に怯えている人間もまた、自己中心的だというのですか?これほど他者に気を遣い、他者に合わせようとしているのに!?
哲人:ええ。「わたし」にしか関心がない、とう意味では自己中心的です。あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。
青年:しかし・・・
哲人:前回、わたしはいいました。あなたのことをよく思わない人がいるのは、あなたが自由に生きている証なのだ、と。もしかするとそこに、自己中心的な匂いを感じられたかもしれません。ですが、いまの議論でおわかりになったでしょう。「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」に鹿関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
・哲人:ここで最初の話に戻るわけです。われわれはみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。
青年:積極的にコミットする?具体的にどういうことです?
哲人:「人生のタスク」に立ち向かうことです。つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。もしもあなたが「世界の中心」なのだとしたら、あなたは共同体へのコミットなど露ほどにも考えないでしょう。あらゆる他者は「わたしのためになにかをしてくれる人」であり、自分から動く必要などないのですから。
しかし、あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。
青年:なにかを与えてこそ、自らの居場所を得ることができると?
哲人:ええ。所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。
・哲人:ええ、たしかに簡単ではないでしょう。そこで覚えておいてほしい行動原則があります。われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。
青年:より大きな共同体の声?
哲人:学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。
仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振舞っていたとしましょう。しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンスであって、それ以上のものではありません。「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。
青年:でも、目の前の教師に異を唱えるのは、相当にむずかしいでしょう。
哲人:いえ、これは「わたしとあなた」の関係でもいえることですが、もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
・哲人:アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。
青年:では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?
哲人:線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考えてください。
チョークで引かれた実践を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。
青年:連続する刹那?
哲人:そう。「いま」という刹那の連続です。われわれは、「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。
それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生に線などありません。
青年:人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?
哲人:もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、わえわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
・哲人:自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。
われわれの人生もまったく同じです。人生全体にうすらぼんやりとして光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
青年:強烈なスポットライト?
哲人:ええ。われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるようなきがしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとして光のなかに生きている証です。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうであるかなど、「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉などでてこない。
青年:し、しかし・・・。
哲人:フロイト的な原因論に立っていると、人生を因果律に基づく大きな物語としてとらえてしまいます。いつどこで生まれて、どんな幼少時代を過ごし、どんな学校を出て、どんな会社に入ったか。だからいまのわたしがいて、これからのわたしがいるのだと。
たしかに、人生を物語に見立てることは面白い作業でしょう。ところが、物語のさきには「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘の他なりません。
しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。
・哲人:目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。
青年:真剣だけど、深刻ではない。
哲人:ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
そしてもひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的(現実活動態的)視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。
青年:完結している?
哲人:あなたも、そしてわたしも、たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきもではありません。20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのです。
青年:もしも、わたしが「いま、ここ」を真剣に生きていたとしたなら、その刹那はつねに完結したものである、と?
哲人:そのとおりです。ここまでわたしは、何度となく人生の嘘という言葉を使ってきました。そして最後に、人生における最大の嘘はなにかをお話ししましょう。
青年:ぜひ教えてください。
哲人:人生のおける最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去を未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生にかけがえのない刹那に、おおいなる嘘をついてこられた。
青年:・・・・・ああ!
哲人:さあ、人生の嘘を振り払って、怖れることなく「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てなさい。あなたには、それができます。
青年:わたしに、わたしにそれができますか?人生の嘘に頼らず、この刹那を真剣に生き切る”勇気”が、このわたしにあると思われますか?
哲人:過去も未来も存在しないのですから、いまの話しをしましょう。決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。
・哲人:旅人が北極星を頼りにするように、われわれの人生にも「導きの星」が必要になる。それがアドラー心理学の考え方です。この指針さえ見失わなければいいのだ、こちらの方向に向かって進んでいれば幸福があるのだ、という巨大な理想になります。
青年:その星はどこにあるのですか?
哲人:他者貢献です。
青年:・・・・・他者貢献!
哲人:あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
青年:自らの上空に他者貢献という星を掲げていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにある!
哲人:そして、刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。
・哲人:ええ、信じてください。わたしは長年アドラー心理学の思想と共に生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
青年:なんでしょう?
哲人:それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
青年:どういうことでしょうか?
哲人:つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。
とても長かったが以上です。
結構この本のエッセンスは書いたので、ちょくちょくこれを見返して戻ってこようと思う。
そんなんでかなりのインパクトがあった本。読んでおいてよかったなあと思いました。