親不知を抜いて一週間。
今日は抜糸の日だった。
予想通りの難行苦行の親不知である。
痛みがとれず、抜いた親不知表面をコーティングしてもらったら痛みは落ち着いた。
処方薬もらいに帰り道薬局に立ち寄った。
後ろ姿がノリピーで、正面が連立で何とか大臣になった亀井さん似のおばちゃんだった。
恵比寿は恐ろしい街である。
オリンピックは予想通りブラジルで、当然だろうと笑っていたら朝のニュースに驚いた。
自民党の中川さんの突然の悲報は、父とその息子を知り尽くした鈴木宗男議員の、記者会見での溢れ落ちる涙が全てを語っていた。
本当の瞬間を知る者のみが、理解できる痛みと悲しみなのだろう。
力尽きた。
そんな、とある人生も、確かに存在するのだ。
理由や事情はともあれ、マイケルの時も同じ感情で受けとめた気がした。
人生、どこでどう、自分と折り合いつけられるのか。
それが勝負なんだと、また教えられた気がした。
先週、赤塚不二夫と手塚治虫のそれぞれの長女の対談記事を、読んでて感じたことがある。
娘二人が語る、父であり天才の人物像は、僕が勝手に思う何人かの天才作家達と全く同じ立ち位置から表現していることを知った。
“人間、どう生きるのか”
この世には、Insideとoutsideしかない。
僕の知る限りほとんどの人がinside人で、outside人にはまだ出会ったことがない。
insideな空間にinsideとoutsideの2つの架空を作り、その架空上で人は自分の描く様々な人物像を、演じながら暮らしているのが人間なんだと思う。
日常にストレスが常につきまとうのは、演じてはかりいるから、自分が誰だかわからなくなるからだろう。
例えば、この手のブログや、ガードされ至れり尽くせりのコミュニティーサイト内で、世情や世相を評価したり糾弾したり、時に魔女狩りしたり。
実在しない本人が、僕が演じる僕なのだ。
背負うリスクのない場所にリアルは存在しない。
鈴木宗男氏の涙こそがリアルだ。
涙の意味をいったい誰に伝えたかったのだろう。
今日は抜糸の日だった。
予想通りの難行苦行の親不知である。
痛みがとれず、抜いた親不知表面をコーティングしてもらったら痛みは落ち着いた。
処方薬もらいに帰り道薬局に立ち寄った。
後ろ姿がノリピーで、正面が連立で何とか大臣になった亀井さん似のおばちゃんだった。
恵比寿は恐ろしい街である。
オリンピックは予想通りブラジルで、当然だろうと笑っていたら朝のニュースに驚いた。
自民党の中川さんの突然の悲報は、父とその息子を知り尽くした鈴木宗男議員の、記者会見での溢れ落ちる涙が全てを語っていた。
本当の瞬間を知る者のみが、理解できる痛みと悲しみなのだろう。
力尽きた。
そんな、とある人生も、確かに存在するのだ。
理由や事情はともあれ、マイケルの時も同じ感情で受けとめた気がした。
人生、どこでどう、自分と折り合いつけられるのか。
それが勝負なんだと、また教えられた気がした。
先週、赤塚不二夫と手塚治虫のそれぞれの長女の対談記事を、読んでて感じたことがある。
娘二人が語る、父であり天才の人物像は、僕が勝手に思う何人かの天才作家達と全く同じ立ち位置から表現していることを知った。
“人間、どう生きるのか”
この世には、Insideとoutsideしかない。
僕の知る限りほとんどの人がinside人で、outside人にはまだ出会ったことがない。
insideな空間にinsideとoutsideの2つの架空を作り、その架空上で人は自分の描く様々な人物像を、演じながら暮らしているのが人間なんだと思う。
日常にストレスが常につきまとうのは、演じてはかりいるから、自分が誰だかわからなくなるからだろう。
例えば、この手のブログや、ガードされ至れり尽くせりのコミュニティーサイト内で、世情や世相を評価したり糾弾したり、時に魔女狩りしたり。
実在しない本人が、僕が演じる僕なのだ。
背負うリスクのない場所にリアルは存在しない。
鈴木宗男氏の涙こそがリアルだ。
涙の意味をいったい誰に伝えたかったのだろう。