【DeNA26年ぶり日本一 史上最大「下剋上」の舞台裏】(上)
チームを26年ぶりの日本一に導いた三浦大輔監督(50)。
勝率.507の貯金2からの日本一はNPB史上初だ。
1998年日本一監督の権藤博氏は日刊スポーツの手記で、「横浜一筋、先発一筋で、勝っても負けても黙々と投げ続けた男」と称した。
制球重視の堅実な投球スタイルと合わせて、「安定感」という言葉がピタリと当てはまる投手だった。
「番長」
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律令官制における番長
古代の日本で番は交代制勤務の各勤務を意味する。
現代語の当番の番である。
律令制下の番長は、集団で一斉に交代する際の一つの集団の長で、様々な役職について番長が任命された。
出土資料としては、陸奥国多賀城の跡から9世紀の軍団兵士の勤務に関わる番長を記した木簡が複数見つかった[1]。
延喜式には左右の近衛府・衛門府・兵衛府(あわせて六衛府と言う)の舎人を引率する数名の番長役が設けられていたことが記される。
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おしゃれ番長グループのファッションリーダー。
または、ファッションに強いこだわりを持った格段にお洒落な人物に与えられる称号。
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というニックネームと「リーゼント」
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リーゼントまたはリーゼント・スタイル(英語: Regent style)とは、ヘアワックスやポマードなどの整髪料を利用し、両側頭部から髪を撫で付け後頭部でIの字型にぴったりと合わせる髪型(ダックテール)と、前髪を前方と上方に膨らませてボリュームを持たせる髪型(ポンパドール)の組み合わせのことである。
本来のリーゼントは、ポンパドールともダックテールとも関係のない独自の髪型だったが、のちにポンパドールとダックテールの組み合わせが流行したときに混同されるようになった。
現在では、リーゼントと言えばボリュームのある特徴的な前髪だけを指すことも多い。
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の風貌とは裏腹に、「サラリーマン、公務員の鑑のような人」と言う関係者は少なくない。
現役時代は球場に一番乗りし、音楽を聴きながらハマスタをランニングするのが日課だった。
監督になった今もホームでは朝9時には球場入り。
トレーニングなどをこなして実務に入る。
古株のOBが言う。
「98年日本一メンバーは佐々木、石井琢、谷繁らクセモノ揃いにあって、三浦は人柄の良さはさることながら、選手同士で徒党を組まないし、後輩に自分の考えを強要することもない。
来るものは拒まず、去る者は追わずのスタイル。
音楽、競馬、芸能、一般人とも積極的に交流する。
堅実かつ誠実で、波風が立つような言動もない。
マルハからTBS、DeNAと親会社が変わる中、横浜一筋でやっているのはこの三浦と同時期に活躍した川村丈夫くらい。
自分の立場をわきまえ、誠実に仕事をこなすサラリーマン、公務員のような一面がある。
2008年オフ、FA宣言しながら阪神に行かなかったのも、そういう人格が影響していると思う」
三浦監督は08年オフにFA権を行使、阪神への移籍は確実とみられた。
「当時の横浜は『万年最下位』の暗黒時代。三浦は勝ちに飢えてはいましたが、子供のころから面識があった岡田監督がその年のオフ、V逸した責任を取って退任したことに加え、熱狂的な関西マスコミと、阪神の高額過ぎる条件に気が引けた面もあった。
FA宣言するや、関西マスコミが実家が経営する大阪の生花店に大挙。
三浦自らマスコミに取材自粛を要請したほど。
阪神の条件も破格だった。
横浜は3年10億円程度で、阪神は3年13億円規模。
1年目は年俸1億5000万円で据え置かれるが、2年目以降の年俸は5億7500万円になり、阪神の最高給取りで、当時の球界最高年俸をもらっていた金本知憲の5億5000万円を超えることになる。
これに三浦は、『球界最高年俸なんてもらえない。
まして、金本さんを超えるわけにはいかない』と考え、横浜残留を決めたといわれている」
フロント主導のDeNAの監督は人事権がない中間管理職。
「上司」であるフロントと「部下」である選手のつなぎ役としての度量の大きさは、現役時代からの気質が支えている。
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DeNAがCS突破を決めた夜、石井琢朗コーチは三浦監督との《関係悪化説》を払拭すべく、「ピエロを演じた」そうだ。
あの日の夜にいったい何が起きていたのか。そもそもの《関係悪化説》とは。 ●関連記事【史上最大下剋上の舞台裏#中】…では、それらについて詳しく報じている。