護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

07年10月24日・水曜日  学徒兵 許されざる帰還

2007年10月24日 16時23分22秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
07年10月24日・水曜日  学徒兵 許されざる帰還
  
     

まず、書く前にあの戦争で亡くなった若者(正確には先輩)に感謝と祈りを捧げたいと思います。

 考えてみると、現在は防衛省の中に陸・海・空と三つに別れている。しかし昔の軍は、陸軍省と海軍省の二つだけで、陸と海が各々航空隊を持っていた。

 海軍航空隊の代表的戦闘機は零戦で、脚を同体内に収用できる開戦当時としては画期的な戦闘機で、性能は当時としては抜群だったと思う。

 一方、陸軍の戦闘機はこの番組にも出ている一式戦闘機・隼で、あの当時を思い起すと歌にもなった「加藤隼戦闘隊」今でも歌えるが「エンジンの音轟々と」だった。

 しかし、私の頭の中には特攻機と言えば何故だか海軍のことばかりだった。何故かと云えば兄が海軍の特攻要因だったからだろう。

 しかし、命を長らえ復員してきた兄に聞くと、終戦前は練習する飛行機はなく、本土決戦に向けてベニヤで出来たモーターボートで敵艦に突っ込む訓練で、その燃料も侭ならない戦後になって考えると、あれでは戦争に勝てっこない。   
 あらためて考えると国家から何の情報を知らされなかった国民が犠牲になっただけと苦笑いしていた。

 親の生死が分かった時に、兄と死について話しあった。特攻として死について恐怖はなかったかと問うと、憮然として「恐くのない者があるものか」と一喝されたのは忘れられない。早死にした兄が生きていれば、当時の詳しいことを聞けると思うが、嫌な思い出は話してくれないかも分からない。

 本題に入るが、戦後の話で海軍は突こめなく帰ってきた隊員は日を改めて特攻に出撃したと聞いていたので、恥ずかしながら、この放送で初めて陸軍には特攻作戦で死ねなかった隊員を収容する振武寮なるものを知った。
 当時から、海軍より陸軍の方が兵士は消耗品あつかいだと聞き及んでいたが、この番組でそれが証明できたと思う。

 大貫健一郎さんは戦後今までこの話を封印してきたと言っておられた。生き残られた隊員の方も、此のような話はしたがらないとおもうが、良くはなされたと思う。

 番組では機体の故障や整備不良と言っていた。当時を考えると家庭の鍋釜まで供出した時代。原材料の全くない日本。整備する兵士もベテランの多くは長い戦闘で消耗して整備もままならない時代だから当たり前だと昔を知る人間はそう思う。しかし当時を知らない現代人はどうとるのだろうか。

 私の先輩も、特別見習士官になって沖縄で散っていった。此れ等の若者は,殆ど二十歳前後の若者たちなのだ。彼等の遺書集も見たが私たち年代の人間には涙なくしては見られない。

 
 私は国民のみなさんに考えてほしいことは、戦争には正義というものは120%いや全く存在しないということだ。
 現在のアメリカでも正義というものは20%程だろう。

 世界で軍隊を持っている国家で紛争地で戦死した政治家や司令官の話を聞きますか。
 戦時中でも玉砕した所は別として、山本五十六連合艦隊司令長官は特別、犠牲になった人々は善良な庶民がほとんどなのです。

 その善良な兵士も、命のやり取りする戦場では人格が変わります。その結果が、戦後BC級の戦犯という形で罰を受けているのです。

 考えてみましょう。もし日本が勝っていれば、BC級の戦犯の人々は英雄だと崇められたでしょう。

 だから、戦争は絶対に避けねばならない。軍の力で世界を征服しようとする国家と手を組むぐらいなら、少々不自由はしても人間らしく余生は生きたい思う今日この頃である。