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21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは

2020年06月22日 | 事件
21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは

6/21(日) 17:00配信
文春オンライン

「ドン!! と弾けるような音が突如夜のしじまを破ったが、まだ気づく人が少なかった。続いてドン! ドン! という鉄砲の発射音が起こり、同時に『助けて!』と悲鳴があがり、さらにこの音がだんだんと近づいてくると、何事か重大な異変が起こりつつあることが村人たちに分かり始めた。同時にこれは、かねて心配していた同の都井睦雄(22)が人殺しを始めた、そして、鉄砲を撃ちながら手当たり次第に殺戮を加えて回っていると感じた時、村人は恐怖におののき、逃げ支度を始めたが、それよりも殺戮者の襲撃の方が一瞬早かった。表出入り口のつっかい棒を必死で押さえ、侵入を防いでいた者は板戸もろとも撃ち倒され、縁から走り出た者は背後から狙い撃ちされた。ある若夫婦は一つ布団の中で並んだまま射殺された」(「岡山県警察史下巻」)=当時の記録は全て数え年齢。

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 82年前に起きた「津山三十人殺し」は、被害者の多さと態様の異常さなどから日本の犯罪史上名高い事件だ。
「八つ墓村」のモデルにもなった事件

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 岡山県の山村・西加茂村(現津山市)で21歳(満年齢)の青年が祖母をオノで殺した後、猟銃と日本刀で近隣の家を次々襲撃。住民を殺害して自殺した。殺された住民は計30人、重軽傷3人。「怪物三つ目小僧のように、頭の両側に棒型懐中電灯を固定し、胸にも自転車用の角型電灯を吊った都井睦雄は、腰に日本刀を差し込み、懐に短刀、さらに猟銃から弾薬袋まで持ち、巻き脚絆、地下足袋姿という装備で荒れ狂い、内過半数の家々を襲った。暗夜にこの三つの光芒に照らし出された者は、そして悪鬼のような姿を見た者は、その瞬間がこの世の別れとなった。殺戮者の魔手は幼児・老婆の見境なく降り注ぎ、午前3時ごろ走り去った」(同書)。銃の腕は正確無比。その姿は悪夢のように強烈で、事件は横溝正史のミステリー小説「八つ墓村」のモデルにもなった。

 事件にはさまざまな背景が絡み合っていた。地域の閉鎖性、男女を中心にした人間関係の複雑さ、結核に対する視線、徴兵検査の意味、容疑者の心理的な問題……。そのため、地域では長い間タブー視された。そうしたことから生まれた誤解なのだろうか。加太こうじ「昭和犯罪史」にはこう書かれている。

「昭和12年末には岡山県下の山村で、怨恨による40数人殺しという殺人事件があったが、その新聞記事など、どこを探してもない。おそらく、地方紙にほんの小さい形で報道されただけだと思われる」。時期も人数も間違っているだけでなく、実際には全国紙でも報道されている。それでも、事件の重大さに比べれば量は極端に少なく、公表をはばかる配慮が濃厚に感じられるが……。現在の視点から事件をできるだけ客観的に見てみる(容疑者の青年以外は姓名を省略。差別語を使用)。

「世界犯罪史上にも特筆さるべき」

「三十二名を殺傷す 失戀(恋)・病苦に狂ふ(う)農村青年 岡山縣(県)下の鬼熊自殺」。これが1938年5月22日付(21日発行)東京朝日(東朝)夕刊2面4段の記事の見出しだ。「【津山電話】21日午前1時40分ごろ、岡山県苫田郡西加茂村字行重平井、農業都井睦雄(22)はへの送電線を切り、頭にナショナルランプを括り付け、イノシシ狩り用口径12番10連発の猟銃と日本刀を携え、まず自分の母(祖母の誤り)の首をオノではね、即死せしめたうえ、隣家の女性(47)方に闖入。女性に重傷を負わせ(午前9時死亡)、娘(21)を即死せしめ、次いで日本刀と猟銃で次々に民27名を殺害。さらに2名に重軽傷を負わせ、中国山脈内に遁入。午前10時半ごろ、同村青山の荒坂峠付近の山林中で猟銃をもって自殺をした」。

 記事はさらに続く。「犯人都井は小学校時代、級長を務めた秀才であったが、小学校教員検定試験の勉強中、神経衰弱となり、漸次狂暴となってきた」「平素はごくおとなしい男であるが、この凶行は計画的のものとみられ、凶行に用いたイノシシ狩り用の猟銃のごときは、2、3年前から同人所有の田一反歩を売って買っていたものである。また犯人は肺病で近所の者ののけ者にされ、しかも最近、女の問題で失恋していた」

 驚くことに、この事件についての東朝の記事はこの1本だけ。対する東京日日(東日)の同じ5月22日付夕刊は2面トップで大きく報道。「就寝中の村を襲ひ(い) 猟銃で卅(30)名を射殺す」が見出しで、被害者の氏名一覧など、記事は質量とも豊富で記述にも迫力がある。岡山県警察部から内務省宛ての公電も掲載。さらに「午前3時ごろ、同村奈良井の民家に立ち寄り、紙と鉛筆を出させ『目的の人物を殺すまでは俺は死なぬ』と書き記し、再び闇の中へ姿を消した」という記述も。記事には、警視庁鑑識係長の「単独犯行であるのと被害者の数において、わが国犯罪史上のレコードであるとともに、世界犯罪史上にも特筆さるべき事件である」という談話も添えられている。

 岡山の地元紙「合同新聞」(現山陽新聞)では、5月22日付夕刊はほぼ2面全部をつぶして報じている。「戦慄!二十八名を射殺」の横見出しに「九連發(発)の猟銃を亂(乱)射 十二戸の寝込(み)を襲撃 今暁作州西加茂の凶劇」などの見出しで、記述は詳しいが、内容はほぼ全国紙2紙と同様。被害者と容疑者の家、「犯人の登った電柱」の写真がこの段階で掲載されている。興味深いのは「鬼熊」の見出しが複数登場すること。連載「昭和の35大事件」でも紹介した鬼熊事件が千葉県で起きたのは1926年。既に12年がたっていたうえ、鬼熊こと岩淵熊次郎が殺したのは3人と津山事件の10分の1。それでも一世を風靡した事件の記憶は強烈だったのだろう。

睦雄が残した3通の遺書に書かれていたこと

 次の5月22日付朝刊段階。東日は社会面2段で「小學(学)生時代を 懐しむ殺人鬼 卅人殺し・血の遺書」という記事を載せた。「遺書は自宅に2通、自殺現場に1通発見された」とし、自宅の1通には「僕は決して精神異常者ではない。9カ年の間、不治の病と闘い、その間僕を冷遇し、虐待した村の人々に復讐するのだ。思えば、真面目で先生からかわいがられていた小学生時代が懐かしい」と書かれていたという。そして、自殺現場の1通の内容は次のようだった。

「復讐の機会は3年前から狙っていた。きょう決行の動機は、自分に背いて嫁いだ女が里帰りしていたからだ。日ごろから復讐すべく考えていた村人は大体思い通りやっつけた。しかし、中には心なくも良い人を殺している。これはものの弾みだから許してもらいたい。祖母を一人残して死ぬのは心残りなので道連れにした。いま思えば涙が出る。世間の人々よ、孤独の人間や不治の病に悩む若い人々にはいま少し同情の涙を注いでほしい」。記事には現場の貝尾地区の写真と都井睦雄の小学校時代の顔写真が付いている。そして、東日の報道もここで途絶える。一足早く掲載がなくなった東朝と併せ、被疑者が死亡したとはいえ、これほどの大事件の報道がこの程度かと驚く。当時、東京周辺で新聞を読んでいた人がこの事件を知らないのも当然かもしれない。

 大朝は社会面5段で「二十九人殺し 何がこの凶劇を生んだか?」の見出し。犠牲者のうち18人の顔写真を載せている。記事は、岡山地裁津山支部から予審判事と検事らが現場に出張。実地検証を行っているとして、現場の模様を書いている。「加害者の祖母のごときは手おのでメッタ切りとされ、首は血まみれとなって消し飛び、胴体にはダムダム弾を無数に撃ち込まれて凄惨な地獄図絵を現出している」。さらに「愛人漁りから悪鬼へ 病気を嫌ひ(い)彼から去る女・村人 遺書に綴る怒りの文字」の見出しで、睦雄が残した3通の遺書の記述から地区の女性との関わりなど、犯行に至る過程を記している。

「小学卒業後間もなく肋膜炎に冒された。これが彼の不幸の第一歩で、その時は3カ月ばかりで一応治癒し、早熟の彼はやがての多くの女たちと関係を持ち始めた。19歳の時、今度は肺結核に冒され始めた。病勢は次第に進み、間もなくこの事実を知った女たちはたちまち手のひらを返すように彼から遠ざかったばかりか、彼が結核患者だということをの人々に触れ回った。こうして彼の憎悪をかった女は2人」。憎悪は殺意にまで発展し、睦雄は猟銃などを手に入れ始めた。

「ところが、彼の気配を知ったの人たちは一層彼を警戒し、邪魔者扱いしだしたので、彼の殺意は意外にも全体に及び」、彼を恐れた女の1人は「今春津山市方面に転住してしまった。しかし、彼の怪しい気配は親戚の者も感づくところとなり、本年3月、加茂駐在所で厳重説諭を受けて、猟銃だけ残して苦心して用意した凶器一切を取り上げられたのである。だが、堅く殺意を決した彼は駐在所から帰った翌日から再び周到な準備を始め、間もなく日本刀、短刀などを整え」、18日に狙った女2人が「結婚先から帰ったことを知った彼はここでいよいよ殺意を決めたものである」。かなり詳しいが、睦雄の立場に立った解釈だ。

村の人々が語った「睦雄の人物像」は

 実は大朝は5月22日付で2ページの号外を出している。しかし、1面の見出しが「戦慄の卅人殺し」で、犠牲者18人の写真が載っていることから分かるように、内容は22日付朝刊の続報。なぜこの段階で号外なのかは分からない。1面は「周到を極めた 犯行の足取(り)」(見出し)が判明したことを記述。「不治の病から 性格一變(変)」の小見出しの記事では「近隣の人々は口をそろえて語る」として、睦雄の人物をこう表現している。

「村の女たちは人妻、娘の区別なく追い回し、執拗に迫り、ある時は暴力を振るったりし、漸次から指弾され始め、また親しい人々はいろいろ忠告したのですが、一向反省をしませんでした。指弾されるのは当然のことです。それを、当人はすっかりひがみ、民に食ってかかり、いろいろ嫌がらせをしますから村人から嫌われました。最近は形相まですっかり変わっておりました。村からこんな恐ろしい殺人鬼を出したことは実に残念です」。こちらはあくまで住民側の言い分だ。2面には「犯人の使用した凶器」「犯人自殺の現場」など写真4枚を載せている。大朝のこの事件の報道もここで終わる。

 合同は社会面トップで「猟銃凶魔後聞」として「一年間人射ちの練習 銃四挺(ちょう)に弾丸五百發用意」という記事。銃4丁を買い入れ、犯行の1年以上前から2キロ以上離れた密林で、松の木を目標に秘密の射撃訓練をしたという話題。合同葬の雑観記事もあり、写真も「犯人使用の凶器」や標的とした松の木などが掲載されているが、特筆すべきは、現在も事件関連で登場する成人してからの睦雄の顔写真を載せたこと。「凶行直前の犯人都井」と説明があるが、実際の撮影時期は不明という。この後、この事件の報道は合同の「稀(希)代の殺人鬼・都井睦雄」という連載企画だけになる。5月24日付夕刊(5月23日発行)から5回続き。生い立ちから小学校時代、結核との闘病、女性への思いと恨みなどを描いた。こうして津山三十人殺しの新聞報道は幕を閉じた。

 この事件のドキュメントとして有名な本がある。1981年9月に出版された筑波昭「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」(草思社)。その中には事件記録として「津山事件報告書」が何度も登場する。表紙の写真も載っており、「司法省検事局」が事件から約1年半後の1939年12月に出した「極秘」文書だ。国会図書館にも収蔵されておらず、石川清「津山三十人殺し最後の真相」によればアメリカのスタンフォード大図書館に収蔵されてあり、事件研究所編著「津山事件の真実第3版」にほぼ全編が収録されていた。そこに収録されている鹽田末平・岡山地裁検事が調査・執筆した「津山事件の展望」で事件の全容が分かる。それに沿って経緯を見よう。

「頭脳明晰、常に優秀な学業成績をあげ、将来を嘱望されていた」

 睦雄の父は「睦雄が2歳の時、感冒(あるいは肺結核)が原因で38、9歳で死亡した」。母は病弱で「自らは慢性気管支カタルだと言っていたそうだが、実は肺結核を患っていたものと思われる」。その母も夫の後を追って世を去った。睦雄の血族中に精神障害者がいないことは確認できた。「彼に片親なりともあったならば、本件のごとき凶事は絶対に惹起されていないと確信する。彼が親の愛に欠けていたことが本件の有力なる一原因を形成することは否めない事実だと思う」。

 両親が死亡した時、1町3段(反)の田畑と約8反の山林が残されており、相当裕福な農家だったことが想像できるという。彼が6歳の時、彼と姉は祖母に連れられて、祖母の郷里である貝尾地区に移住。姉弟は「ただ祖母を頼りに、その盲目的愛のうちに養育せられて成長したため、自然睦雄はわがままな性質となってしまった」。

 満14歳で小学校高等科2年を卒業。病弱で欠席が多かったが、「頭脳明晰、常に優秀な学業成績をあげ、将来を嘱望されていた」、「同級生らの気受けもよく、常に級長または副級長に選挙せられ、まさに模範的小学生であった。ただ家庭的事情によるか、はたまた病弱のゆえか性格陰性であって快活明朗を欠いていた」、「何となく寂しさのある生徒だったということである。生来孤独の質で先輩、親族、友人間には指導者となったり親交を結んだりした者もなく、その他、本人の性格に特別の影響を与えた人物は全くない」という。
上級学校への進学断念&姉の結婚で増した「孤独」

 卒業の際、その才を惜しんだ担任教師から「上級学校に進んだらどうか」と勧められたが、「孫1人の祖母は彼を手放すことをがえんぜず、ためにそのまま家に残ることになった」。が、その卒業の春、肋膜炎(胸膜炎=主として結核菌によって起こる胸膜の炎症)を患い、約3カ月ぶらぶらした。身体的にも農業を続けることが難しいのを自覚したが「確固たる志望を立ててこれに邁進せんとするだけの気力もなく」、「何の目的も何の希望もなく、毎日毎日を過ごしていくにすぎなかった」。

 肋膜炎も小康を得たので、旧制中学・高校に進まなかった農家の子弟を教育する実業補習学校と、徴兵検査まで軍事演習や実業教育を施す青年訓練所に入ったが、いずれも病気を理由に欠席しがち。「かくするうち、その陰鬱性は次第に深刻化し、外出を好まず、の青年団、及び隣人たちとの交際に無関心となり、親族らより注意しても青年団の会合や夜警などにもあまり出ず、また近隣の寄り合いごと、法会、葬式などにも顔を現さず、入営兵の見送りなども怠りがちで、次第に孤独に陥り、終日家に閑居してこたつにあたり、雑誌を読む程度で他になすこともなく、徒食を続けていた」。

 1934年3月、睦雄が満17歳の時、姉が他地区の男性と結婚して家を出た。「語るべき相手もなく、一層孤独の癖を増し、ますます放縦怠惰に陥り、労働を嫌い、家業の農は老いたる祖母の手一つに任せて、自らは時折その手伝いをなすにすぎない状態であった」

肺結核、徴兵検査、夜這い……なぜ村の秀才青年は残酷すぎる「津山三十人殺し」を決行したのか へ続く


 1935年の初めごろ、巡査採用試験か小学校教員検定試験を志して勉強を始めたが、病気が再発。経過がはかばかしくなかったところへ、「実母らの死因が肺結核にあったことを聞知したらしく、彼自身もまたその自覚症状に照らして同病にかかったものと自認するに至った」。その後も地区の医師から「左肺尖(せん)カタル」と診断され、自分で「開放療法」を実行したが、「肺結核をもって絶対不治の病と盲断する本人の信念はあまりにも強く、自己の症状を実際の程度以上に重患のごとく思い込んでいたように考えられる」と鹽田検事は書いている。
「当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく……」

 戦前の結核の猛威については、連載「昭和の35大事件」の「三原山投身繁昌記」解説でも触れた。終戦直後までは国民的な疾病で、1943年の約17万人をピークに死者は毎年10万人超え。1935年以降は死因の第1位を占めていた。特に若い世代での感染は強烈で、「20~24歳の死因の半分までが結核だった」ともいわれる。そのせいか、当時は一種ロマンチックなイメージさえ伴っていたという。睦雄も地域では秀才の誉れ高く、農家の青年にしては色白。イメージに合っていたのかもしれない。
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 それに対して地域の反応はどうだったのか。戦後、精神病理学の立場から現地調査を繰り返してまとめられた中村一夫「自殺 精神病理学的考察」が触れている。「には肺病患者が多いというわけではないが、肺病と癩病(ハンセン病)に対しては極端に嫌悪する風習があった。現加茂町長三島氏は健康対策に非常に熱心な人で、例えば保健所の結核検診の際、昭和37年の受診人員は全町民の99%であったとのことであった。三島町長の語るところによれば、当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく、結核は遺伝であると信じ、肺病患者が住んでいる家の前を通るときは、口や鼻をハンカチでおさえて通るような状態であったとのことである」
犯行の引き金になった、徴兵検査での「不合格」

 1937年3月、満20歳の成人を迎えた睦雄は正式に家督を相続。同年5月には徴兵検査に臨んだ。

「津山事件の展望」は、睦雄が「軍医より十分な静養をなすよう注意せられ、かつ書類に肺結核患者と記入せられたのを見てますます悲観し、自己の死期近きにありとなし、ここにかつて抱いた青春の夢はもちろん、闘病の気力や生きて行く希望すらも喪失し、全く自暴自棄の虚無の闇底に落ちていった」と書く。

「津山三十人殺し」は、睦雄が西加茂村役場に届けを出しに行った際、同じ地区の住民である兵事係職員に「わしは肺病ですけん、よろしくお頼みもうしますがの」と言ったと書いている。そして5月22日に津山市で行われた徴兵検査で軍医に結核と宣告されると、泣き出しそうな顔で「軍医殿、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」と懇願。軍医に怒鳴りつけられると、服を着ながら「わしはやっぱり結核じゃった」と、同時に検査を受けた同じ村の男に話し掛けたという。それまで「肋膜炎」や「肺尖カタル」と診断されていたが、肺結核とは思っていなかったということだろうか。身体検査を総合した結果は「丙種」だったとされる。

徴兵検査の結果は「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分かれ、乙には第1種と第2種があった(のちに第3種が加わる)。一ノ瀬俊也「皇軍兵士の日常生活」などによれば、1927年以降、甲種は「身長155センチ以上で身体強健な者」、乙種は「甲種に次ぐ者」とされた。甲種と第一乙種が「合格」で、その年12月以降に入営する「現役兵」として徴兵された。丙は「現役に適さざる者」など、丁は「兵役に適さざる者」などで、戊種は翌年再検査の対象。受験者の約半数が甲と乙だった。兵役には現役、第一・第二補充兵役、第一・第二国民兵役があったが、丙種は第二国民兵役に服するとされる。熊谷直「帝国陸海軍の基礎知識」は「丙種は徴集を免除されて国民軍の要員になるが、平時は名目的であった」としている。要するに「不合格」ということだ。

 睦雄にとって徴兵検査「不合格」は大きなショックだったに違いない。吉田裕「日本の軍隊」は「この徴兵検査は重要な『人生儀礼』の場でもあった」と書いている。「『人生儀礼』とは、人が生まれてから死ぬまでの間に、身体の発達や精神的な成長に応じて体験しなければならない儀礼や儀礼的な意味合いを持った試練のことを指す。若者たちは、徴兵検査を終えることで初めて『一人前』の男とみなされたのである」。同書によれば、戦前の農村社会を記録した本には「男子は徴兵検査がすむか除隊してくると、結婚話が盛んに出る」という証言があるという。
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 彼は「兵隊に行く」ことをそれまでの閉塞状態を一挙に解決する転機にしたかったのではないだろうか。「それ以来、彼の性格は一変し、極端に猜疑心深く、事物に対する認識ないし判断もはなはだしく偏奇(常識外れで風変わり)し、ことごとに偏執的な考え方をなし、ことに道義的感情が鈍り、極端に主我主義、自己中心主義的傾向を示し、自己の行為に対する反省力薄弱となり、その行動常軌を逸し、無暗に近隣の婦女子に手を出し始め、ために甚だしく民から嫌悪せらるるに至った」と「津山事件の展望」は認定している。

 そのころ、睦雄は田畑と山林を担保に600円を借り、7月にはその金のうちから津山市の銃砲店で猟銃1丁を購入。警察から狩猟免許を取得した。その後、別の猟銃と交換して改造。毎日のように射撃練習をするようになった。やはり徴兵検査の失敗が犯行の引き金になったのは間違いないようだ。
自由恋愛だった「夜這い」という文化

「婦女に挑み、情交を迫り、応じないと恨み、応じても関係を継続しないと憤激し、いつしか世間にもうわさが広がって冷笑されるようになった」(岡山県警察史下巻)。睦雄を「色情狂」とした住民もいた。その背景として事件当初から言われていたのが、現場となった地域の性的な風土、具体的には「夜這(ば)い」の風習だ。



「この事件発生の有力なる原因の1つと思われる男女関係の淫風存否の問題である」と「津山事件の展望」で鹽田検事も書く。「でき得る限りの調査をしたのであるが、外の者が大部分、この悪習の存在を肯定するに反して、民の大半及び駐在巡査はその風習の現存することを否定し去って、この事件によって暴露されたいろいろの男女関係弛緩の事実は、この犯人の都井睦雄を中心とする例外のことたるにすぎないと主張し、ただ2、30年前まで夜這いの弊風があったことを認むるにとどまるのであるが……」。地元は徹底して否定したということだ。
事件当時の睦雄の姿を再現したもの(「津山三十人殺し」より)
事件当時の睦雄の姿を再現したもの(「津山三十人殺し」より)

「夜這い」とは「男が夜間、女のもとに通うこと。若者組の支援と承認を得ている場合もあった」(「精選日本民俗辞典」)。民俗学の泰斗・柳田国男は「男女の呼び合う(ヨバウ)歌垣の名残り」で中世以前の「通い婚」の一種と考えた。いまでは信じられないだろうが、家々がほとんど戸締りをせず、明かりもなかった時代、男が夜、女の家に忍び込んで性的交渉を持つ。地域によってそれぞれ「取り決め」や「条件」が違ったが、農村や山村などでほぼ全国的に行われていたとされる。

 立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」も「相手の意思を無視して忍び込むという例もなくはなかったが、多くは事前に相手の同意を得て訪ねたもので、それも性交渉が必ず伴うというものではなかったようだ」とした。「ヨバイで関係ができ、結婚に至る例もあり、自由恋愛による結婚であり、性的には自由であったが無規律ではなかった」

 この後、夜這いの文化は「大正から昭和にかけての青年会運動や官憲の取り締まりでほぼなくなり」(「精選日本民俗辞典」)とあるが、清泉亮「夜這いはかくして消えた」(「望星」2017年2月号所収)は事件現場と同様、中国山地の山中に位置する山口県周南市出身の男性の証言として「戦後も長らく夜這いが活発だったことを覚えている」と書いている。地域によって実態は異なっていたのだろうか。いずれにしろ、事件との関連性ははっきりしない。
「克服されない肺結核に対する不安の感情である」

 遺書はあるものの、睦雄が死亡した結果、さまざまな分析が登場したものの、犯行の動機については遂に未解明のまま事件は終わった。「自殺 精神病理学的考察」によれば、事件前、睦雄の観察・指導を続けていた西加茂村担当の今田武司・加茂駐在所巡査(当時)は、睦雄が自殺を決意した原因に次の3つを挙げたという。

(1) 徴兵検査に不合格だった

(2) 祖父、両親とも肺結核で死亡し、彼の家系がいわゆる「結核筋(すじ)」(「労咳筋」とも呼ばれた)として嫌悪・白眼視され、自分でも再起不能と考えた

(3) 恋愛、性生活が円満に行われず、うとんぜられた

 さらに「津山事件報告書」の中で内務省防犯課情報係の和泉正雄・係官は「犯行原因(動機)を主観的方面よりこれを見ると」として列挙している。

(1) 犯人の変質的性格
(2) 疾病よりの厭世観
(3) 離反せる女に対する復讐心

 また「客観的諸原因」として次を挙げた。



(1) 風紀頽廃
(2) 民の自警心の欠けている点
(3) 凶器の種類及び入手の容易なる点
(4) 地理的関係(僻陬地=片田舎=たりし点)

「自殺 精神病理学的考察」は「客観的諸要因」のうち風紀頽廃は「の人たちは全面的にこれを否定している」、「特に指摘されるほどの乱れはなかったようである」とし、その他の項目についても「彼が殺傷事件を起こさねばならなかった原因ではない」と断言した。さらに、主観的原因3項目のうち、(2)は「殺人の動機というより、むしろ自殺しようと考えるに至った動機とみるべきであり」、(3)も「離反した女を殺害する動機であっても、33人殺傷の動機ではない」と断じた。(1)についても「原因・動機に密接に関連することではあっても、原因・動機そのものではない」とした。

 そして、第5の客観的原因として睦雄の性格と心理構造を取り上げている。「大量殺人者であった彼は、決して残忍性がその根本的な性格・特徴をなすものではない」と強調。「彼の犯行後の遺書は強い罪悪感で満たされており、憎しみよりもそれが強く強調されているのを見ても、冷酷無情な性格が彼の性格の根幹では断じてない」「むしろ繊細な、情味ある、神経の細い性格の持ち主を想起する方がよほど自然である」と主張した。さらに「一貫して彼に支配的に作用したものは、長い間悩まされ、脅かされ、しかも克服されない肺結核に対する不安の感情である」「彼の生涯は全て結核との闘いであり、屈辱・不安・絶望の連続であった。この慢性的な体験刺激が、彼の先天的な性質と相まって、彼の性格・精神現象に大きな影響を与えたものと考えられる」。

「自殺 精神病理学的考察」は最後に、「冷たい目で見られ」「悪口を言われ」「嫌悪、白眼視され」「憎しみさげすまれ」「つらく当たられ」るのは全て肺結核のためだと考えたとすれば、それは性格特徴からの妄想的固執傾向だと指摘し、こう結論づけた。「彼が肺結核に対して長い間、激しい抵抗を感じており、それに関連して関係妄想が発展し、遂には極めて苦しい内的葛藤のもとに自殺を決意し、道連れ的大量殺人事件に移行したのである」。これが事件の全てを解明する答えではないが、傾聴に値する意見だろう。事件直後からこれまで、こうした見方がほとんど顧みられなかったのには理由がありそうだ。
都井睦雄(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)
都井睦雄(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)
「自分が決行しようとする犯罪との間に、常にある葛藤があった」

「自殺 精神病理学的考察」も指摘しているが、睦雄の3通の遺書には国家や時代を意識した記述がある。「小さい人間の感情から一人でも殺人をするということは、非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ」(自宅に残された宛て先のない遺書)。これについて「津山事件報告書」に収録された「三つの遺書に現は(わ)れた犯人の倫理観」で林隆行・岡山地裁検事局思想係検事は、「犯人のどこかに、国民的道徳がメスのようにではないが光っていて、自分が決行しようとする犯罪との間に、常にある葛藤があったことだけは確かである」と評した。姉宛ての1通には「こういうことは日本国家のため、地下にいます父母には甚だすまぬことではあるが……」、「同じ死んでも、これが戦死、国家のために戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人ということになるでしょう」という部分も見られる。林検事はこれを「犯罪史上稀有の大罪人といえども、生を皇道日本に受くる以上、国民的感情に捉われずにはいられないのである」とした。

 しかし、一方で「犯人は徹底的に自己中心であり個人主義的である。彼はあくまで利己主義的にものを解釈している」、「全く非社会的な犯人の生活態度は、前述した犯人の国民的心情と決して一致するものではない」と断言。「言葉としては『国家』を論じ『非常時』を論じてはいるが、その言葉ほどに犯人は『国家』を考え『非常時』を考えたかどうか」、「そういうふうに問題を進めてみれば、われわれの誰一人、犯人の倫理を信用することはできない」と切り捨てている。
ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのは……

 この検事の姿勢に時代が表れている。時は日中全面戦争に突入して2年目。事件の前々日、5月19日には、戦略上の要地である徐州が陥落し、新聞紙面は沸き立っていた。津山事件を取り上げた松本清張「闇に駆ける猟銃」(「ミステリーの系譜」所収)は「新聞は連日のように敵兵の大量死者数を発表し、日本軍隊の勇敢を報道していた。1人の機関銃手が数十人の敵兵を皆殺しにしたという『武勇伝』も伝えられた。これが睦雄の心理に影響を与えていなかったとはいえない」と言う。睦雄の“武装”したスタイルも、前年の「少年倶楽部」に掲載された「珍案歩哨」という中国戦線の兵士を描いた漫画がヒントだったとされる。
睦雄が参考にしたとされる「少年倶楽部」1937年12月掲載の漫画(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)
睦雄が参考にしたとされる「少年倶楽部」1937年12月掲載の漫画(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)

 ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのはどうしてだろうか。それは、国家にとって津山事件のような出来事は銃後の国民の在り方からみて、絶対にあってはならなかった。士気に影響するからだ。新聞の扱いはそうした国民に共通する意識を反映していたように思える。地域にとってもそうだった。あまりの異様さ、残虐さに、社会的背景などを追求するより、容疑者に異常のレッテルを張って、なるべく早く一件落着させることが優先されたのだろう。そうしてこの事件は、どこか現実離れした悪夢のような殺人伝説として言い伝えられてきたのではないだろうか。

 1975年に刊行された「加茂町史本編」は事件についてささやかにこう記述している。「戦争に非協力的な者は非国民よばわりされ、徴兵検査での甲種合格は成年男子の華であった。このような風潮の中で都井睦雄事件も発生したのであった」

【参考文献】 
▽「岡山県警察史下巻」 岡山県警察本部 1976年
▽加太こうじ「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年
▽筑波昭「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」 草思社 1981年
▽「津山事件報告書」 司法省検事局 1939年=事件研究所編著「津山事件の真実第3版」(2012年)収録
▽石川清「津山三十人殺し最後の真相」 ミリオン出版 2011年
▽中村一夫「自殺 精神病理学的考察」 紀伊国屋新書 1963年
▽吉田裕「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」 中公新書 2017年
▽吉田裕「日本の軍隊」 岩波新書 2002年
▽「精選日本民俗辞典」 吉川弘文館 2006年
▽赤松啓介「夜這いの民俗学」 明石書店 1994年
▽立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」 吉備人選書 2002年
▽土井卓治ら「岡山の民俗」 日本文教出版 1981年
▽清泉亮「夜這いはかくして消えた」=「望星」(東海教育研究所)2017年2月号所収
▽松本清張「闇に駆ける猟銃」=「ミステリーの系譜」(中公文庫1975年)所収
▽「加茂町史本編」 加茂町 1975年







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