「このまま黙って死んだら私に悔いが残る」カイロ時代の友人が明かした小池百合子都知事“疑惑の大学生活”【実名告白】
6/20(木) 6:12配信
文春オンライン
「都民ファーストの会」事務総長を務めた元側近・小島敏郎氏に、公職選挙法違反(虚偽事項公表罪)容疑で刑事告発された小池百合子東京都知事(71)。小池氏の学歴詐称疑惑を指摘しているのは小島氏だけではない。エジプト留学時代に同居していた北原百代さんが、実名で「文藝春秋」に手記を寄せた。
【画像】ピラミッドの前でツーショットに収まる若き日の小池氏と北原氏
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カイロの日々を知る「友」からの告発
北原百代氏 ©文藝春秋
百合子さん。もうずっとお会いしていませんが、あなたの姿はテレビ画面を通していつも見ています。
初めて会ったのは、エジプト・カイロ市内のペンションでした。あなたは19歳で、私は30歳。もう半世紀以上も前、1972年の春のことでした。
あなたは私が滞在していたペンションに、商社マンのAさんに連れられてやってきました。同居相手として、Aさんが私に紹介してくれたのです。半年ほど前にカイロへ来て、カイロ・アメリカン大学に通っている小池さんだと紹介されました。
私は同居を快諾し、あなたと2人でアパートを探しました。そしてザマレックのアパートで同居生活を始めた。あなたは冗談好きで明るく、料理上手な楽しい人でした。2人で映画『ジョーズ』を観に行った時、隣で怖がって声を上げていた姿を思い出します。ある日、お風呂を沸かす火が弱くて困っていると、百合子さんが「こうすればいいのよ」とガスボンベをひっくり返してくれた。「底にガスが溜まっているんだから」と言って。大胆で少しお茶目。それもあなたの魅力でした。
カイロの日々を今でも懐かしく思い出します。だからこそ、私は深く悩み続けたのです。「黙っていたほうがいいのか、それとも世間に明らかにするべきなのか」と。
でも、今のあなたの立場では、これはやはり許されないことだと思ったのです。そして事実を知りながら、黙っている私もまた、許されないはずだ、と。
あなたは日本の法律に違反することをして、今の地位を築きました。また権力者で居続けることによって、秘密を守り続けています。
私は事実を知る者としての義務を果たしたいと思ったのです。あなたに恨みがあるわけじゃない。今の地位から引きずり下ろしたくて、語るわけじゃない。このまま黙って死んだのでは、私には悔いが残る。そう思い、この手紙をしたためました。
2年生でカイロ大に編入
最初に同居した時、19歳のあなたは、ほとんどアラビア語を話せなかった。でも口癖のように「お父さんが、来年からカイロ大学の2年生に編入できるように取り計らってくれているの」と言って、特に勉強をしている様子はありませんでした。お父さんは日本で石油関係のお仕事もされていたので、その伝手があると言っていましたね。
秋に私が外国人向けの語学学校に行くと言うと、あなたも2回ぐらい付いてきましたね。でも、すぐ辞めてしまった。そして、その語学学校で出会った日本人留学生Bさんと「結婚する」と言い出した。出会って2カ月も経っていなかったので驚きました。Bさんはアラビア語のかなりできる人でしたから、来年のカイロ大学入学にあたり、頼れる人が欲しいのだろうと察しました。
手許に残っている、当時、私が日本の母に書き送った1972年11月29日の手紙には、「百合子さんは来年1973年10月からカイロ大学の2年生に編入できることになったので、アパートでお赤飯を食べてお祝いした」とあります。お父さんの尽力が実ったのでした。
1973年2月、あなたはBさんのアパートに移っていきました。新居に行くと、机の上に大学の教科書が積まれていました。彼に手伝って貰いながら、10月からの学生生活に備えているのだと思いました。
私は2年の予定でカイロに来ましたが、旅行ガイドのアルバイトをするようになり、そのままカイロで暮らしていた。すると1975年の年末、あなたから「また北原さんと一緒に暮らしたい」と言われ、驚きました。Bさんと離婚して行く場所がないと困っている様子でしたね。
私はガーデンシティに住んでいましたが、ちょうど同居していた日本人女性が帰国したばかり。受け入れることに問題はなかったのですが、少し躊躇してしまいました。というのは、前回、同居した時、百合子さんとお喋りがしたくて、やってくる日本人が多かったからです。日本語でお喋りをするので語学の勉強にはならないですし、来客の接待で疲れてしまいました。
でも、離婚して行く先がなく、1976年5月の大学の進級試験に向けて勉強しなくてはならない百合子さんの頼みを、無下には出来ませんでした。
辞書も持っていなかった
ただ、2度目の同居生活では、来客は打って変わってひとりもありませんでしたね。代わりにあなたは夕方、外交官の夕食を作るアルバイトに出かけていました。
日中は机に向かっていましたが「辞書を貸して」と言われ、驚きました。「辞書も持たずどうやって勉強していたんだろう」と。あなたは調べた単語に鉛筆で丸を付けていましたが、返してもらった辞書を開き、丸の付いた単語を見て「こんな言葉も知らなくて大丈夫かな」と、正直なところ思っていました。
覚えているかと思いますが、エジプトでは口語と文語が分かれています。日常で使うのは口語ですが、インテリ層が通うカイロ大学の教科書や授業では文語が使われています。この文語はエジプト人ですら使えない人も多い。だからエジプト人でも4人に1人が留年すると言われています。それを日本人が習得するのは並大抵の努力では出来ません。
他の留学生からも、カイロ大学の授業がいかに難しいものであるか聞いていました。外国人は入学を融通して貰えても、進級試験では容赦なく落とされる。皆、大学に通いながら家庭教師を雇っていました。日本人で初めてカイロ大学を卒業した、大東文化大学名誉教授の小笠原良治さんは留学生の中では抜群の語学力だと言われましたが、彼でも卒業までに7年かかったほどでした。
壁に「初心貫徹」と書いた紙を貼り、水を張った洗面器に足を浸して涼をとりながら、ひたすらノートに文字を書いていたこともありましたね。何を書いているのか聞くと、教科書を引き写しているだけで意味はわからない、図形のように丸暗記して書くんだと、あなたは言いました。そんな勉強で進級できるのか疑問に思いましたが、黙って見守っていました。
進級試験は5月から始まって1カ月以上続き、合否が掲示板に張り出されます。7月上旬、結果を見に行った百合子さんは肩を落として帰ってきた。「落ちちゃった」と答えるあなたは、暗い顔をしていました。そして「お向かいの先生のところに行って相談してくる」と言って、部屋を出て行きました。私たちのアパートの同じ階に、大学の教授が住んでいたからです。やがて、あなたは浮かない顔で帰ってきて、こう言いました。
「先生から、『あなたは最終学年ではないから、追試を受けることができない』って言われた」
私はそれを聞き、あなたはお父さんのコネで入学したけれど、あの語学力ではカイロ大学の授業にはついて行けなかったのだと、察しました。
進級試験に落ちてしまった百合子さんは、JALの現地スタッフとして働き始めましたね。チケットの販売係のような仕事でした。進路に悩んでいるようでしたが、私はデリケートなことだからと、あえて深く聞かないようにしていました。
1976年8月、私が旅行ガイドの仕事で、日本人ツアー客を率いカイロからルクソールに向かう飛行機に乗った時のことです。飛行機がハイジャックされる事件に巻き込まれました。大勢の日本人が乗っていたので、日本の新聞でも報道されました。日本の私の親にも「安否を気にする親族の声」を求めるメディアが殺到しました。この時、あなたも読売新聞の取材を受けていますね。「同居する北原さんの安否を心配する日本航空駐在員の〇〇(Bさんの名字)百合子さん」として。
百合子さんが「小池」ではなく、離婚しているのにBさんの名字を名乗ったことに驚きました。そして「日本航空駐在員」となっていることにも驚きました。もしかしたら記者が聞き間違えたのかもしれませんが、あくまで現地採用のスタッフで、駐在員ではなかったからです。
幸いハイジャック事件はすぐに解決し、私はその日のうちにアパートに戻りました。約1カ月後の9月下旬、日本から旅行会社の社長が来て、事件に巻き込まれた私を慰労してくれることになり、カイロ近郊に小旅行をしました。この時、あなたも誘ったのは、試験に落ちてから落ち込みがちだったので、気晴らしになると思ったからです。その時のスナップ写真が今も残っています。9月終わりから10月初めにかけてのことでした。
そしてある時、あなたはJALの仕事を終えて帰宅すると、興奮した様子で、私にこう言いました。
「急いで日本に行かなくちゃいけなくなったの。でもお金が足りない」
切っ掛けはサダト大統領夫人の来日でした。これを知ったお父さんから電話があり、「日本に帰って大統領夫人のアテンドをしろ。話はつけてあるから」と言われたというのです。あなたは身の回りの物を売り、航空券を買うお金を工面した。私も頼まれて、あなたのアイロンなどを買い取りました。そして一時帰国をした。10月初めのことでしたね。
サダト大統領夫人は40歳を過ぎていましたが、カイロ大学に学生として通っていました。百合子さんのお父さんは日本アラブ協会に「娘は夫人と同級生で顔見知りだ」と言って売り込んだのだと後に聞きました。
「だって、バレちゃうからね」
日本であなたがどう過ごしていたのか、私は知る由もありませんでした。でも11月半ば、カイロに戻ってきたあなたをひと目見て、とても驚きました。別人のように晴れやかな顔をしていたからです。そして荷ほどきをしながら、あなたは「これ見て」と新聞を差し出しました。
百合子さんの顔写真が大きく載っている記事を読み始め、私は驚きました。「カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した」などと紹介されていたからです(「サンケイ新聞」1976年10月22日)。
私は思わず尋ねました。
「そういうことにしちゃったの?」
あなたは、
「うん」
と、屈託なく言いましたね。
あなたは、冗談を言って人を喜ばせたり、驚かせたりすることが大好きだし、得意でした。だから悪気はなかったのかもしれません。私も注意することは出来ませんでした。落ち込んでいた姿を見ていましたし、まさか日本の総理候補になるような地位を築くことになるとは、夢にも思っていなかったからです。
驚いている私にこう続けました。
「私、日本に帰ることにした」
すべての憂いは去ったという安堵の気持ちと、自信に溢れて見えました。そしてあなたは翌日から帰国の準備を始めました。ある朝、ピラミッドに行くといって出ていったことも。
そして、明日は帰国するという別れの晩がやってきました。あなたは私の部屋に来て、手のひらに小さなケースを握らせて言いました。
「これ、プレゼント。絶対に人にあげたりしないでね」
模造真珠のブローチで、ケースの表には「JAPAN AIRLINES」。それに続く言葉を、私は今も、忘れることができません。あなたは言いました。
「私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに北原さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」
それでいい? と、あなたに念押しをされるように言われ、私は頷くよりほかはありませんでした。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています( カイロで共に暮らした友への手紙 )。
北原 百代/文藝春秋 2024年5月号
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