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養育費目当てで殺された子どもたち……スラムが「殺人鬼村」と化してしまったのはなぜか

2020年04月19日 | 事件



ある村で子ども30人以上が無残な死……恐ろしすぎる「岩の坂もらい子殺し」事件とは

4/19(日) 17:00配信

文春オンライン
ある村で子ども30人以上が無残な死……恐ろしすぎる「岩の坂もらい子殺し」事件とは

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「ワーキングプア」「子どもの貧困」……。格差や貧困が社会に広がっている。今回の新型コロナウイルス感染拡大による広範な自粛と経済活動の落ち込みで、貧富の差が一段と広がるのは間違いない。

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 いまからちょうど90年前の東京は現在以上に貧しい人が多かったが、違うのは「貧民窟」あるいはスラムと呼ばれる地域がいくつも存在したことだ。その一つ、板橋区の「岩の坂」で発覚した事件は世間の度肝を抜いた。もらった子どもを殺す犯罪が地域ぐるみで行われ、当時の報道では被害者は40人以上ともいわれた。しかし、そのほとんどはうやむやになり、地域の存在もいつか忘れられた。そこにはメディアの責任を筆頭に、さまざまな理由があった。

 今回一つお断りしておかなければならないのは、文中にいわゆる「差別語」や「使用禁止語」が登場する。聞き慣れない職業名もある。言い換えはできるが、それでは当時の社会の雰囲気や報道の問題点が分かりづらくなる。そのため、あえて当時の用語をそのまま使おうと考えた。ご了解いただきたい。

◆ ◆ ◆
「聞くも身の毛よだつ 府下板橋の殺人鬼村 」

「貧民窟」という言葉を聞かなくなって久しい。「貧民(貧しい人々)の多く集まり住む所。大都会の恥部」と「新明解国語辞典」にはある。幕末、幕府軍と官軍との戦争を避けて江戸を逃げ出した町民が明治維新で首都となった東京に逆流。住み着いて集まった街などが貧民窟になったといわれる。その中でも「4大スラム」と呼ばれたのが(1)四谷鮫ケ橋(2)芝新網町(3)下谷万年町(4)新宿南町(ただ「日本残酷物語5近代の暗黒」中の「東京の奈落」では新宿南町の代わりに「神田橋本町」が入っている)――。塩見鮮一郎「貧民の帝都」に基づけば、(1)は現在のJR信濃町駅の東側に広がる一帯。(2)は現JR浜松町駅から南西の一角。(3)は現JR上野駅の東側。(4)は現JR新宿駅南口から甲州街道を隔てた地区。「神田橋本町」は現在のJR馬喰町駅の北西の一角とされる。

 しかし、それらは1923年の関東大震災でほぼ消滅。「その代わり、三河島、日暮里、南千住、西新井、吾嬬、板橋などに貧しい者が集まった」(「東京の奈落」)。

 その板橋の岩の坂と呼ばれた貧民窟で事件が起きたのは1930年4月。「聞くも身の毛よだつ 府下板橋の殺人鬼村 こじきや人夫等共謀して もらひ子殺し常習」「一年間に三十名の変死 全村民の検挙を断行」。こんなおどろおどろしい見出しで報じたのは4月14日付東京朝日朝刊。


もらい子周旋人が世話した11人のうち生きている者はわずか2人

「13日午後6時ごろ、市外板橋町下板橋にある細民村、俗称岩ノ坂2番地、人夫小倉幸次郎の内縁の妻、念仏行者の尼小川きく(34)が、もらい子である菊次郎(生後1カ月)を乳房で誤って窒息死させたとて、付近の永井医院に手当を受けにきたが、死因に疑いがあるので、医師は板橋署に届け出たので、原田署長、岡村司法主任及び東京地方裁判所から柴田予審判事、戸沢検事らが出張して検視のすえ、同夫婦を引致、取り調べの結果、同細民村の恐るべきもらい子殺しの事件が判明するに至った」。これが記事のリード(前書き)だ。

「きくはさる3月12日にも同じくもらい子勇蔵(1歳)を風呂場で取り落としたとて殺害したほか、一昨年以来、女1人、男4人のもらい子を同様過失致死の形で殺していることが分かった」。記事は以下、多摩川村の無職男性の妻村井こう(32)が板橋町の産院で菊次郎を出産したが、同じく妊娠して入院していた煉瓦商の内妻出谷こよの(37)が「大家に世話するから」と言い、夫も失職していることから渡りに船と、養育費など18円にたくさんの着物を付けて子どもをやった。ところが、こよのは細民村のもらい子周旋人の「よいとまけ人夫」福田はつ(40)に子どもを渡し、はつからきくに10円をつけて渡し、残りの金で女ばかり数人集まって酒を飲んで騒いでしまった、という。

「はつは付近でも有名なもらい子周旋人で、大正15年以来11人の子どもを世話しているが、そのうち現在生きている者はわずか2人で、それも乞食の手引きをしているが、あとはいずれも無残な手にかかったらしいことが分かった」。記事は「嫌疑濃厚な数名を召喚、取調べ中であるが」としたうえでさらにセンセーショナルに。「同村には子どもを連れて街頭に立つ乞食は70名いるが、いずれもこの種のもらい子ばかりで、1年に30人くらいが悲惨な死に方をしており、全村ほとんどがもらい子を殺していたらしく」「これを機会に同村全部の総検挙を行うことになった」と続く。記事で描かれた通り、これが「殺人鬼村」という見出しの“根拠”だろう。

 ちなみに、当時の18円、10円は2017年の貨幣価値でそれぞれ約3万5000円と約1万9000円。「よいとまけ」とは、美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」で知られる、建設工事の地固めのために重い槌を上げ下ろしする作業員のことだ。


裏付けのない報道が目立つ

 それにしても、すさまじい“飛ばし記事”だ。同紙は続報の4月15日付(発行は14日)夕刊でも「ますます怪奇的な 殺人鬼村の暗黒面」「もらひ子が手に入ると 成金気分で浮れる 自暴自棄の世を送る二千名 上流婦人の私生児も犠牲に」と見出しも書きたい放題。本文では「岩ノ坂にある太郎吉長屋、お化けの清さん長屋、北海道長屋、トンネル長屋、木賃宿などの主人や関係者7、8人を取り調べている」とある。

 対して同じ夕刊で東京日日は「貰ひ子の死は 布団で圧殺 ほかの三名の死にも疑ひ 板橋の恐ろしい夫婦」とややおとなしい。しかし、取調べと遺体解剖の結果、「幸次郎、きく両人が共謀し、前夜ふとんで菊次郎の鼻を圧し、窒息死亡させたことを自白した」と本筋の捜査情報を載せている。
「自分の出自が岩の坂にあることを口外したがらない」

「東京の奈落」によれば、岩の坂は中山道の宿駅として栄え、人馬が引きも切らず往来。明治初年ごろまでは江戸に上下する旅籠屋(馬宿と言った)や雲助小屋があり、遊女屋も軒を並べて板橋宿繁華街の中心だった。しかし、上野―高崎間に開通した鉄道がここを外れて赤羽に出たので、にわかに火の消えたようにさびれた。いままで景気のよかった馬力、雲助などは職を失い、その日の糧にも困るようになって、遂に乞食に転落した。「これが岩の坂の貧民窟の始まりであるが、特に関東大震災以後、都心近くの貧民がここに移動して地区を広げた」という。

 西井一夫「新編『昭和二十年』東京地図」には「エンツキエノキから志村清水町へ下って行く坂を岩の坂といい、『縁が尽きるいやな坂』としゃれたものだったという」と書かれている。そこで生まれ育ったフリージャーナリスト小板橋二郎氏は著書「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」の中で「私には異父兄弟を含めて5人の兄姉がある。そのうちの誰もが、いまだに自分の出自が岩の坂にあることを口外したがらない」と書いている。

 東京朝日夕刊の記事は「岩の坂」の現状と事件の背景を詳しく書いている。「岩の坂には木賃宿が、小川きくが泊まっている原田旅館ほか11軒、長屋は福田はつの太郎吉長屋を筆頭に奇怪な名なのが十数軒ある。ここに住む人はチンドン屋、遊芸人を上層階級として、よいとまけ人夫、くず屋、念仏修行者(押し掛け乞食)、たわし行商、おなさけ屋(街頭乞食)など70世帯2000余人」「養育費付きのもらい子があると、たちまち男女が寄ってたかり、成金気分になり、酒、たばこ、食物に数日間もドンチャン騒ぎを続けるという怪奇な光景を呈するありさま」。


愛児を手放すのは「身の不始末によるものが実に8割の多数」

 もらい子についてはこう書いている。「最も多いのは八王子市、桐生など機業地の女工の私生児で、その次は悪産院や周旋人の手を経たり、よいとまけがもらってくる東京市内外の上流社会未亡人や令嬢の子、中には八王子方面から女教員の子が今年中に3人も来ているが、女給、芸者の子は一人もない。これらのもらい子は大正13年ごろ17、8名だったのが、近年では年々3、40人に増え、そのうち、生活難から愛児を手放すのは約1割の少数で、家庭の事情や義理に絡むのも約1割。身の不始末によるものが実に8割の多数に上っている」。養育費周旋料はたいてい50円以上100円ぐらいまでで「周旋人が大部分を取り、民には10円ほどしか渡らない」という。

 紙面には、生母村井こうの談話も載っている。「世話してくれた人がまじめとばかり信じきって、いまごろは大家の子として幸福に暮らしていると思いましたのに、死んだ子どもと、鬼のような尼さんの顔を見比べたときには自分が殺されたような思いで、涙も引っ込むほどの驚きでした」。

 これまでも遺体を持ち込まれていた永井医院の医師の発言も。「いつもいよいよ死に際になってから連れてきますが、もらい子とは言わず実子だと頑張って、もし私がそれを看破すると、この死児をここへ置いていきますと脅迫するありさまです」。だが、状況からみて、どちらの言葉もそのまま信じるわけにはいかないようだ。
同情を引くために「子を借りて収入を得る」

 記事にはもらい子の「運命」も書かれている。「数日間、形式的に育てたうえ、結局栄養不良、乳房の窒息死、過失などの形式で、巧みに法網をかいくぐって片付けてしまう。5歳から10歳で死んだものは私立医大の解剖研究用に売り、育て上げたものは乞食の手引きにして、15、6歳を過ぎると、男なら北海道の監獄部屋に、女なら娼妓に売り飛ばすという、食人種そこのけの言語道断な処分だ」。

「乞食の手引き」といっても分からないかもしれない。「東京の奈落」には子どもについての恐るべき実態が載っている。「宮寺の境内や門前、あるいは橋の上で縁日などに大地に座り込んで同情者を待つのを、彼らの仲間では張り店といっている」。

「ことに小さい子どものあるのが一層おもらいが多い。ところが、この子どもというのが自分の子ではない。たいてい借りっ子である。彼らの仲間には子どもを貸すのを営業にしているものがある。『きょうは上を貸しておくれ』『きょうは中でよい』『きょうは銭がないから、下にしておこう』と言って借銭を払って子どもを連れて行く。上というのはめくらの子どもである。これが一番同情を引いてもらいが多いので上物という。1日の借銭は80銭(2017年換算で約1500円)である。中というのはピイピイとよく泣く子、よくお辞儀をする子である。下というのは何も芸のない普通の子である。中は30銭(同約580円)、下は20銭(同約390円)。この子どもを借りて1日3、4円(同約5800~7700円)の収入を得て、乞食を唯一の得意として朝から飲み暮らす者があるなどは何人も想像し得ないことであろう」

 もらい子の“需要”はここにもあったということだ。岩の坂の捜査が進んでいたさなか、東京市社会局嘱託だった「浮浪人研究の権威」(東京朝日の記述)草間八十雄は岩の坂を現地調査。結果などをまとめて1936年に「どん底の人達」を出版した。その中で「明治初年には、隅田川畔で乞食の使う子どもの市が立ったという話です」「数十人の乞食たちが集まり、『1銭』とか『2銭』とかと言ったように、だんだんとせっていったものだそうです」と書いている。さらに「子どもを借り出した乞食は、それだけの効果があるかと言いますに、実は驚くほどの効果があるのです。わけても子どもを失った親御たちにぶつかろうものなら、一人で意外なる収入があるそうです」とも。


「留置場が家よりずっと美しい」

 4月16日付東京朝日朝刊は、板橋署で関係者の検挙と取り調べが続いていると報じたが、記事にはこんな記述も。「同署で一番困っているのは、留置中の被疑者連で、留置場の方が自分らの住居よりもずっと美しく、差し入れ弁当もうまいので、お客気分に満足しきって一向平気なことに係官も苦笑している」。4月17日付東京朝日朝刊にも「子殺し嫌疑者で 板橋署満員」の見出しが。記事は検挙者が11名に上ったことと併せて、「社会問題化するとともに部落改善の気運が濃厚になってきた」と書いている。

 そして4月19日付朝刊には「板橋町岩ノ坂に 更にまた怪事件 もらひ子無残の死」(東京朝日)、「恐しい噂の板橋に また貰ひ子の怪死 女労働者検挙さる」(東京日日)という記事が載った。

「もらい子周旋人の親玉」とされて検挙された福田はつは、家に子どもが5人おり、素直に自供したこともあって4月14日に釈放されていた。

 ところが17日、5人目の女児が「突然栄養不良で死亡した」として地元の診療所に死亡診断書を依頼に来た。女医が詰問すると「居丈高に居直り、猛烈なタンカを切るありさまに」診断書を出したのち通報。「板橋署はこの大胆な行為に大いに驚き、同日午後4時前、前原警部はじめ警察官、刑事ら岩ノ坂に急行すると、ちょうど酒を飲んで葬式を出そうとしているところで、ただちに葬式を中止させ、はつを検挙するとともに死児を検視すると」「直接手段の他殺ではないが、いつもの手で間接的に死に至らしめていることが明らかになった」という。

「数多くの子どもを世話するうち、自分も養育費が欲しくなり」「合計6人の子どもをもらっては同様死亡せしめていたことが判明した」。はつは別にいる4人の実子だけは無事に成長させている、と記事は述べている。
「何が彼らをしてそうさせたか」

 4月20日付東京日日夕刊では「死んだ貰ひ子が 数年間に五十人」の見出しで報じている。「取り調べた結果だけみても、最近数カ年に死亡したもらい子は52名に上っており、死因にも深いナゾが秘められている」。

 前日19日には東京刑事地方裁判所検事局の戸沢検事が現地を視察。「想像以上にひどいのに驚いた。事件は単純であるが、社会問題として観察するとき、何が彼らをしてそうさせたか、大いに研究する必要があると思う」と語っている。世界恐慌で不景気の風が吹き荒れたこの年、プロレタリア作家・藤森成吉の戯曲「何が彼女をさう(そう)させたか」が映画化され、2月に公開されて話題を呼んでいた。検事はそれにひっかけたのか、記者の機転か。

【 #2 に続く】

養育費目当てで殺された子どもたち……スラムが「殺人鬼村」と化してしまったのはなぜか へ続く

小池 新


「子殺し常習の村」で罪を問われたのは一人だった

 4月22日付東京朝日朝刊は、前日の21日、「犯行の一切が明らかになったので」小川きくの身柄を検事局に送ることになったとの記事を掲載。「夫幸次郎は犯罪に関係がないことが分かり、釈放された。また、小川きくの検挙が動機となって挙げられた同のもらい子殺し常習の女6名、男5名は引き続き留置、取り調べている」と書いた。こうして進んだ岩の坂の“地区ぐるみの犯罪捜査”だったが、その後パタッと報道が途絶える。

「もらひ子殺しに 懲役七年求刑」の記事が東京朝日に載ったのは翌1931年1月22日付朝刊。「被告(小川)きくは昨年4月、同所(岩の坂)のもらい子周旋業福田はつから15円の養育料付きの男の子をもらい、菊次郎と名付けて次男の届け出をしたが、同月13日朝、菊次郎があまり泣くのでこれを手で絞殺したという1件のみしか自白せず、検事もこの1件を公訴事実として起訴したが、公判で証人調べを行ったところ、もらい子殺し常習の同の実情などがさらけ出され、傍聴者を驚かせた」とある。しかし、結局罪を問われたのはこの小川きく一人。公判できくは「このほか3人の子どもをもらったが、皆体が弱く育たなかった」と述べたと記事にある。約1週間後の1月28日、東京地裁は小川きくに殺人で求刑通り懲役7年の刑を言い渡し、この1件は幕を閉じた。
事件は1人実刑で幕(東京朝日)
事件は1人実刑で幕(東京朝日)
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犯人の処罰が驚くほど軽かったのはなぜか

 なぜ捜査はそれ以上広がらなかったのだろう。「殺人鬼村」などのセンセーショナルな新聞報道と実際に処理された事件の落差が大きすぎる。周旋人の福田はつなどは重刑を科せられても仕方がないように思えるが……。事件を取り上げた紀田順一郎「東京の下層社会」中の「暗渠からの泣き声」も、「岩の坂事件の最も奇怪な部分は、実は別のところにある。それは、犯人の処罰が驚くほど軽かったという一事である」と指摘する。

 同書によれば、6人の住民が計33人の子をもらい、うち1名を除いて「変死」している。当時の雑誌記事では、留置場の関係から検挙を見合わせた者41人、もらい子数見込み127人、「悪周旋人」として助産婦、作業員、レンガ商とその内妻ら4人、参考人として医師3人、寺院住職4人、目撃者の尺八吹きら4人、家主7人のほか、子どもを手放した「女教員、女中、女工、令嬢、人妻」ら73人ほどが召喚されたとある。「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」には「36人の乳幼児を犠牲にした疑いで8組の夫婦を検挙した」と書かれている。
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「暗渠からの泣き声」は理由をいくつか挙げている。(1)犯罪の法的立証の困難性(2)被害者の問題(3)政治的な動き――。立証の困難性はその通りだろう。「直接手を下したという証拠でもあれば別だが、栄養失調という間接的な方法では『体が弱くて育たなかった』『殺す気はなかった』と言われればそれまでである」「要するに、最初から殺害する気でもらい子をしたということを明確に立証することは難しい」(同書)。殺人はもちろん、傷害致死も立証は困難だっただろう。乳幼児の死亡率が現代から見て信じられないほど高かったことも関係している。


実母は「上流階級の人妻」や「令嬢」が多かった

 被害者の問題というのは、もらい子殺しの法的被害者である子どもの実親だが、「肝心の親の所在は不明であるか、その事実を隠したいと思っているのが普通ではあるまいか」(「暗渠からの泣き声」)という点。同書が「当時の新聞や雑誌によると」として紹介している例は次のようなものだ。

「都下府中町の女教師が父親の不明の子を小川きくに託し、召喚と知るや行方不明となった」「埼玉県の小学校の校長と女教師の間に生まれた不義の子」「政治家と女高師(女子高等師範)の教師の間に生まれ、200円(2017年換算約38万6000円)をつけて出されたケース(6人の周旋人の手を経るうちに17円になってしまった)」。ほかに「資産家令嬢と53歳の書生」という組み合わせも。「概して未婚女性や夫を亡くした女性が多く、『上流階級の人妻』や『令嬢』はざらだったという」。
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 背景として同書は「大正後期ごろからの個我の解放、震災後のエロ・グロ・ナンセンスの風潮が明治の旧道徳を一挙に破壊し、この種の現象を助長した」と指摘する。子どもをめぐって“需要と供給”が生まれ、死への“バトンタッチ”が行われた。
事件がここまでセンセーショナルに描かれた特別な理由がある?

 そして、政治的な動きというのは、同書が「最も大きな原因と思われる」とした独自の主張だが、興味深い。そこに登場するのは救護法との関係だ。

 明治から昭和初期までの都市の貧困対策事業は、ほとんど寄付とその他の厚意で細々と行われていた。帝国議会開設直後には、政府が窮民救助法を提出したが、否決。その後、大正中期の慢性不況から関東大震災で労働争議と小作争議が頻発した。加えて金融恐慌で企業倒産が相次ぎ、失業者が大量に生まれた。これに対して、民生委員の前身である「方面委員」らが全国的な救護法制定促進運動を展開。ようやく1929年3月、「廃疾・老衰・疾病・幼弱者をもって救貧の客体とし……」などを内容に、日本初の本格的救貧立法として救護法が成立した。しかし、緊縮財政で施行の見通しが立たないまま、岩の坂事件当時の緊急政治課題になっていた。
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「暗渠からの泣き声」は「事件当時、議会において全く行方の分からなかった救護法が、その直後に時期を早めて実施されるよう議決されたということに、事件との深い関連性を感じずにはいられないのである」とする。そして「事件全体に一種の意図――はっきり言ってフレームアップ性を感じるということである」と言い切っている。つまり、停滞していた救護法施行を促すために、事件を実態以上に膨らませたという仮説だろう。確かに、同書が指摘するように、乳児1人の変死に警察署長から検事まで飛んでくるのはいささか尋常ではない気がする。報道の仕方もいくらなんでもヘンだ。「ここには何らかの『取り引き』があったのではないか」と同書が疑うのも不思議ではない。



 しかし、救護法が施行されるのは事件から2年近くたった1932年1月。時間が空きすぎている。警察や検察が組織として救護法を求める理由はない。日本社会事業大学救貧制度研究会編「日本の救貧制度」によれば、岩の坂の事件が騒がれていた時期に「武藤山治は議会において救護法の早期施行と予算の計上を内容とする決議案を提出した(昭和5年4月24日)が、軽く葬られてしまった。実施促進運動は一頓挫した」と書いている。彼や周辺が動いたとも考えづらい。救護法施行を求める動きと結びつけるのは少々“無理筋”ではないだろうか。

 ちなみに、救護法施行に力があったのが、最近1万円札の肖像画に決まった「日本資本主義の父」渋沢栄一。元々救護事業に熱心だったが、1930年11月に方面委員らから依頼を受け、病苦を押して政府への陳情を受け負った。渋沢が死んだのは翌1931年11月。島田昌和編「原典でよむ 渋沢栄一のメッセージ」は「まさに生涯のライフワークともいえる、命を懸けての社会事業への献身といえよう」と評している。
すべては警察署長の計画通りだった?

 ここで警察側の資料を見よう。「警視庁史[第3](昭和前編)」は、最初に届け出があったとき、「死因に疑いありとして、死体は(東京)帝大で解剖に付された。執刀した宮永博士は『掌で鼻口をふさいだための窒息死』と判定した」と記述。その後に「かねてから岩の坂の幼児多死に疑いを抱き、これが糾明の機会を狙っていた原田誠治・板橋警察署長は、徹底的解明を命じて厳重な追及を行わせた」という興味深いことを書いている。署長の意欲が原因だったわけだ。

 同書は、捜査の結果、分かった事実として、もらい子を死なせて養育料と衣類などを横領する岩の坂の住民の犯行をまとめている。(1)小川きくと内縁の夫が菊次郎を含め4人(2)土工の内妻と土工が6人(3)便器洗い人と内妻が4人(4)福田はつと内縁の夫が8人。さらに、はつはきくらに7人を世話し、養育料をピンハネ(5)クズ屋と妻が3人(6)葬儀屋人夫と内妻が2人(7)土工人夫と内妻が5人(8)クズ屋と妻が4人――。これだと、「夫婦」8組計16人が合計36人の子どもを死なせた計算だ。「警視庁史[第3](昭和前編)」は「板橋警察署の調査によると、このにはなお百余名のもらい子がおって、これらのもらい子は養育料を横領されたうえに、人間とは思われない悲惨な状態で育てられるのである」とした。この通りならやはりすさまじい実態だ。
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「彼らの自供だけで両親さえも分からず、確実な証拠もなかったため、確証のある小川きくとその内夫小倉幸次郎の2人が菊次郎殺しとその共犯で起訴されただけで、他はいずれも不起訴となってしまった」(同書)。立件できなかった犯行を実名で「正史」に載せるのも相当なものだが、同書は最後にこう“負け惜しみ”を書いている。「長年よどみきった暗黒の泥沼に新風を吹き込んだというだけでも大きな意義があったといえよう」。

 総合的に判断すると、当時もらい子殺しが横行しており、岩の坂でも行われたのは確かだ。だが、実際にどれだけあったのか、犯意はどうかと考えて個々のケースを見れば、解明不能な点が多い。ましてや、立件できるかどうかも。署長にはそのあたりのことはお見通しだったのではないか。検挙して新聞に派手に書かせれば、見せしめになるし、自分の手柄にもなる。それで張り切って乗り出したというのが真実に近いような気がする。


「人々の人情の機微は、スラムならではの優しさに満ちている」

 岩の坂について書かれたものに異議を唱える人もいる。「ふるさとは貧民窟なりき」の著者・小板橋氏だ。

 同書は岩の坂についての厳しい指摘に違和感を示し、こう反論している。「スラムが汚かったのも事実である。長屋や木賃宿の照明が明治のころまでは極めて乏しかったのも事実だろう。家屋の構造がお粗末だったのは無論のことである」「きちんと市民秩序の中に納まった一般市民に比べれば、道徳的な規範がかなり緩かったのも事実だと思う。しかし、スラムといえども、そこに住んでいるのは、五感とごくごく一般的頭脳を持った連中なのである」「『岩の坂の住人は、この養育費目当てにもらい子を商売とした』という叙述同様、既成のルポや新聞記事を根拠にした偏見によって、無意識にスラムが『鬼が島』でもあるかのようにフレームアップしてしまったケースというしかない」。
当時の「婦人サロン」に載った岩の坂の住宅内(「東京の下層社会」より)
当時の「婦人サロン」に載った岩の坂の住宅内(「東京の下層社会」より)

 そして、彼にとっての岩の坂をこう表現する。「私がここで記したかったのは、都会のスラムというものが、一人の人間の幼年から少年期にかけて、どれほど自由でエクサイティングで素晴らしい社会だったかということだ」「ここは一般社会に比べてそれほど居心地の悪い所ではない。人々の人情の機微は、スラムならではの優しさに満ちているのである」。同書には、岩の坂で会った人々とのかけがえのない触れ合いのエピソードがつづられていて魅力的だ。

 岩の坂を含めた東京の貧民窟は1945年の東京空襲によってほぼ消滅する。戦後の焼け跡・闇市に貧民は群がったし、工場跡やバラックやガード下などをねぐらにした人は何年かたった後もいたが、それも高度成長によって姿を消した。以後、貧民窟が復活することはない。衛生思想が広がったことに加えて、地方自治の在り方が変わったのだろう。
戦後の犯罪史で知られる「寿産院事件」

 もらい子殺しは岩の坂以前も以後も存在した。「暗渠からの泣き声」によれば、1905年、佐賀県で49歳の櫛職人が妻と共謀。周旋人から私生児らをもらい受け、親から養育費を受け取ったうえ、全て殺害していたことが分かった。最初は餓死だったが、そのうち絞殺や生き埋めにしたという。「60人ぐらい殺したと思うが、実際はもう少し多いかもしれない」と供述。妻ともども死刑に処された。

 さらに、岩の坂から3年後、東京で無職の男が嬰児殺しの容疑で逮捕された。「子どもやりたし」という新聞広告(当時はそうした広告が堂々と新聞に載っていたという)を見て犯行を思いつき、生後10日から8カ月ぐらいの子を助産婦からもらい受けては殺し、埋めていた。25人の遺体が発見され、こちらも死刑になった

戦後の犯罪史で知られるのは「寿産院事件」。1948年1月、東京・新宿区の寿産院の院長と夫が逮捕された。112人(204人、211人とする資料もある)の嬰児を1人につき5000~9000円の養育費でもらい受け、器量のいい子は1人300円で売り、ほかの子は配給のミルクや食べ物を全く与えず、餓死させていた(103人とする資料が多いが、85人とするものも)。ミルクは横流しし、子どもらの葬祭用の酒は夫が飲んでしまった。公判で2人は「殺すつもりはなかった」と主張し続け、結局院長は懲役8年、夫は懲役4年の判決を受けた。
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長い底辺の生活と世間の偏見によって

 もらい子殺しはいまではとても考えられない犯罪だが、その特徴は、直接の被害者である子どもにまだ自意識が芽生えておらず、加害者に罪の意識が生まれづらいことと、法的被害者であるはずの子どもの母親にも加害者的な側面があることだろう。その狭間に金が絡み、犯行の歯止めが弱い犯罪だといえる。かつての女性が現在よりはるかに多産だった半面、乳幼児の死亡が多かったことも関係する。中でも岩の坂の事件は、貧民窟という要素も加わって特異。貧困が生んだ犯罪というと、レッテル張りとして「ふるさとは貧民窟なりき」の著者に批判されるだろうか。

 ただ、長い底辺の生活と世間の偏見の中で、そこに住む人々の心情が刹那的、即物的になっていったことは疑いようがない。その意味でやはり貧困と無縁ではないと思える。

【参考文献】
▽「新明解国語辞典第六版」 三省堂 2005年
▽「日本残酷物語 5 近代の暗黒」中の「東京の奈落」 平凡社 1960年
▽塩見鮮一郎「貧民の帝都」 文春新書 2008年
▽西井一夫「新編『昭和二十年』東京地図」 ちくま文庫 1992年
▽小板橋二郎「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」 風媒社 1993年
▽草間八十雄「どん底の人達」 玄林社 1936年
▽紀田順一郎「東京の下層社会」 ちくま学芸文庫 2000年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽日本社会事業大学救貧制度研究会編「日本の救貧制度」 勁草書房 1960年
▽島田昌和編「原典でよむ 渋沢栄一のメッセージ」 岩波現代全書 2014年
▽「警視庁史[第3](昭和前編)」 警視庁史編さん委員会編 1962年





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