本件の特殊性は、このファミリーに有る<<`16~7歳で第一子出産しているので教育レベルが低かった。更に夫が喘息持ちで思うように仕事ができず生活苦で女性が20代で鬱になり自殺を図って、以後、3回も自殺未遂している。
ティーンエイジャーで第1子を出産、その後も病身の夫を支え、生活苦のなかで20代半ばにノイローゼの診断との報道もあります。患者自身がどの程度、医学的に正確に自分の病状を理解することができたのか?
非常に不安定なファミリーだった。
それに加えて、女性が腎臓病になり5年透析をしている。透析に対して、元々鬱気質を持っているので透析に関しても悲観的だった。因みに私は、フィリピンで透析してるが、フィリピンで透析できるのは恵まれた家庭で、海外出稼ぎファミリーなどに限定で透析受けれることに感謝と喜びがある。日本人のように透析に悲観的な患者は少ない。フィリピンでは、貧しい人は透析できずに死んでいる。私の妻の遠い親戚では交通事故で腎臓打撃受けたが透析手遅れで死亡している。又、私が通う透析室で見たが<<シャントがだめになったがオペする費用がなく我慢していた女性が緊急入院したが、透析受けたが手遅れで死亡した。現場を見たが顔カラダが異常に膨らんで意識不明状態だった>>
この女性の場合、そもそも外科医がガイドライン違反で<<終末期以外の患者に透析中止のオプションを提示した>>事実について責任を問われるべきで、更に<<透析再開の医師を患者が複数回、外科医に示したが外科医が無視して再開しないで患者を死亡させたということは、殺人罪に問われる可能性がある>>
本件で、以上の様な患者とファミリーの歴史の特殊性と、福生病院の外科医らの思想の特殊性が複合的に関係した事例と言える。
福生病院の院長や外科医は、過去にも透析中止や不導入を患者に提示して20人も死亡させている。要するに<<ガイドライン違反で透析すれば普通に生きられる患者に透析しないオプションを提示して死に誘導する=自殺教唆>>する病院、外科医であるという事だ。
厳しく言えば、本件外科医は、女性に対する殺人罪と複数人に対する自殺教唆の犯罪に問われると解する。院長らも共同正犯に問われる可能性がある。
「再開要請」聞き入れず、都が認定 病院を指導へ 透析中止女性死亡
3/20(水) 7:00配信
毎日新聞
「再開要請」聞き入れず、都が認定 病院を指導へ 透析中止女性死亡
東京都福生市の公立福生病院=本社ヘリから
公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、透析治療をやめる選択肢を外科医(50)から提示されて亡くなった女性(当時44歳)について、都が実施した立ち入り検査の結果が判明した。都は、女性が何度も治療中止を撤回したいと訴えたにもかかわらず、外科医は治療再開の要請を聞き入れなかったと認定。「女性の意思確認が不十分だった」と判断した。適切な医療の実施を定めた医療法に抵触していた可能性もあるとして、病院を今後、文書で指導するとみられる。
【昨年8月に亡くなった女性が夫に送った最後のメール】
外科医は「透析治療を受けている患者は『終末期』」と独自に定義し、「(女性に対する)治療義務はなかった」と主張している。しかし、都は終末期について「死期が迫っている状態」と厳密に定義。「透析治療をすれば、患者(女性)の病状からあと3~4年生存できた」と外科医の主張を否定したうえで、治療義務はあったと結論づけた。
女性は昨年8月9日、「死に直結する」という説明とともに透析治療をやめる選択肢を外科医から示され、いったんは治療中止を選択して帰宅。その後、14日に入院し、16日に亡くなった。
関係者によると、都は病院からカルテなど関連資料の提出を受けて分析し、外科医らから事情を聴いた。その結果、女性が治療中止の選択肢を示されて意思確認書に署名した8月9日、決定を撤回できる点を外科医が説明していなかったことが判明。女性は入院後、苦痛のために従来の決定を変更し、「何度も治療中止を撤回したいと訴えた」と認定した。しかし、外科医は治療を実施せず、最終的に女性との意思疎通が難しくなった際、夫(51)も治療再開を外科医に要請したが、聞き入れなかった。都は、病院が倫理委員会など外部の助言を受ける機会を設けず、日本透析医学会のガイドラインから逸脱していたことも確認した。
夫によると、女性は過去、自殺願望のある抑うつ性神経症と診断され、自殺未遂が3回あった。都は、情報を分析すれば精神科通院歴を容易に把握できたはずなのに、外科医らは治療中止の意思を女性に確認した際、病歴を見落としたと認定。女性が治療中止を選んだことに病気が影響を与えた可能性もあるとみている。
医療法は医療従事者に対して適切な医療を行うよう規定。特に、医療の選択を患者が適切に行うことができるよう正確な情報を提供し、患者や家族の相談に応じることを求めている。女性以外に治療中止を選んで死亡した他の3人や、最初から治療しない「非導入」を選んで死亡した17人についても、都は事実関係の確認を急いでいる。【斎藤義彦、矢澤秀範】
◇女性(当時44歳)を巡る都の検査結果のポイント
・外科医らは女性の意思確認が不十分だった
・女性は透析治療をすれば3~4年生存でき、外科医が主張する「終末期」ではなかった
・外科医らは抑うつ性神経症という女性の病歴を見落とした
透析中止「死へ誘導、容認できない」 市民団体が抗議
3/13(水) 19:42配信
毎日新聞
透析中止「死へ誘導、容認できない」 市民団体が抗議
公立福生病院=東京都福生市で2019年3月6日、宮武祐希撮影
公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、市民団体「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」(川見公子事務局長)は13日、「透析患者を死に追いやる運営と医療に強く抗議する」とする文書を、病院を運営する福生病院組合管理者の加藤育男・福生市長と松山健院長宛てに送った。
【昨年8月に亡くなった女性が夫に送った最後のメール】
ネットワークは日本消費者連盟や患者・家族など約300の団体・個人で構成。抗議文では、重篤でない患者の透析治療の中止や非導入は「患者を死へ誘導する行為で絶対に容認できない」と批判。病院運営や医療を直ちに改めるよう求めた。
一度は治療中止を選んだ女性(当時44歳)が最後に再開の意思を示して亡くなった問題については「(再開意思を)『正気でない』と無視する行為は、苦しむ患者の人権を認めず、法的にも人道的にも絶対に許されない」としている。【斎藤義彦】
医師の判断で透析患者を殺してもいいのか
3/16(土) 11:15配信
プレジデントオンライン
医師の判断で透析患者を殺してもいいのか
東京都による立ち入り検査が行われた公立福生病院。問題発覚以後、病院は詳しい説明をしていない。(写真=時事通信フォト)
■「透析中止」の女性は精神的に不安定な面があった
これは医療行為というよりも、むしろ殺人ではないか。
東京都福生市の「公立福生病院」で昨年8月、腎臓病を患っていた44歳の女性患者の人工透析治療が中止され、この女性が1週間後に死亡した。病院側は「医師が女性の話を聞いたうえで中止を決めた」と説明しているというが、東京都は病院を医療法に基づいて立ち入り検査するなど本格的な調査に乗り出した。日本透析医学会も調査委員会を立ち上げ、事実関係の調査を始めた。
これまでの報道を総合すると、女性は病院で「末期の腎不全」と診断され、医師や家族と何度か回話し合って透析治療を受けないことを決め、同意書にも署名していた。しかし女性は透析を中止して容体が悪化した直後、中止の考えを改め、病院に透析の再開を求めていた。しかも女性は精神的に不安定な面があったという。
日本透析医学会のガイドライン(指針)によれば、透析治療を中止できるのは、回復の見込みのない終末期の患者が事前に中止の意思を示したうえで、その患者の状態が極めて悪化した場合としている。患者の体の状態が改善したり、患者や家族が透析治療の再開を希望したりしたときには再開するよう求めている。
■1回3~4時間を週3~4回行うという大きな負担
公立福生病院の行為は明らかに学会のガイドラインに違反しているが、複数の報道によれば、病院は院内の倫理委員会にこの女性患者の透析中止の問題をかけていなかったという。杜撰である。少数の医師らの独断で決めることではない。
人工透析治療とは、腎臓の機能を失った患者を人工腎臓(透析装置)にかけて患者の血液から尿素やクレアチニンなどの老廃物を取り除く療法である。患者の体に老廃物が溜まると、患者は痙攣や意識障害を引き起こして死んでしまう。本来、人体に2つある腎臓が血液を濾過して老廃物を取り除くとともに尿を作るのだが、この腎臓の代わりに人工腎臓を使う。
通常、1回の人工透析には3~4時間かかり、これを週3~4回行う必要がある。肉体的にも精神的にも負担は大きい。だが、この治療を止めれば死んでしまう。透析患者は右肩上がりで増えており、現在全国で約33万人にも上る。その多くが糖尿病を悪化させて慢性の腎不全になった糖尿病性腎症の患者である。
■医師の価値観に沿った判断へ誘導する恐れ
一連の報道によれば、この病院の腎臓病総合医療センターを受診した患者は2018年3月までの5年間に約150人おり、そのうち約20人が人工透析を行わない「非導入」を選択していたという。さらに人工透析を中止する「離脱」の患者も数人いたようだ。
公立福生病院の透析中止問題は、毎日新聞のスクープだった。初報は3月7日で、3月9日には社説のテーマにもしている。
その社説は「苦しい闘病を続ける患者には治療をやめたくなるときがある。それを医師や家族はどう受け止めるのか。難問が突きつけられている」と書き出している。見出しは「患者の意思は尊ばれたか」である。
「医師側は複数の選択肢を示し、治療をやめると死につながることも説明したと主張する。女性は治療中止の意思確認書に署名している。表面的にはインフォームドコンセント(十分な説明に基づく同意)を得ているように見える」
「ただ、精神的に追い詰められる患者の気持ちが二転三転することは珍しくない。正常な判断ができない状態の患者に医師の言葉が影響を及ぼし、結果として患者の本意より医師の価値観に沿った判断へ誘導してしまうことは十分にある」
■終末期だが腎臓移植という道も残されている
公立福生病院の行為は、毎日社説が指摘するように「表面的なインフォームドコンセント」でしかなく、しかも一方的に「医師の価値観に沿った判断」へと誘導している。これはもはや患者中心の医療などではなく、医師や病院の押し付け以外の何ものでもない。
さらに毎日社説はこう指摘する。
「厚生労働省が昨年改定した終末期医療のガイドラインは患者と家族、医師らが継続的に何度も治療方針を話し合うことを求めた。医師だけでなく、介護職員も患者の意思を確認するチームに加えることを定めた」
いかなる治療を行おうと、死が避けられないというのであれば、透析治療を中止して亡くなった女性患者は終末期にあったことになる。しかし治療方法は残されていた。人工透析の再開である。再開していれば、命を落とすことはなかったはずだ。
しかも透析患者には腎臓移植という道も残されている。そのことを病院側はきちんと説明していたのだろうか。
■医学界の考え方と大きくかけ離れている
公立福生病院は終末期医療を誤解しているようだが、いまの社会では終末期医療の在り方が大きく問われている。
日本社会は世界でもまれな高齢化に直面し、「人生100年時代」とまでいわれる。長寿社会では老いや病気の問題、命の在り方など深い考察が求められる。延命治療を受けるのか、それとも拒否するのか。だれもが最後にたどり着く終末期と死について正しく認識し、終末期の過ごし方を決めておくことが求められる。
死が迫る終末期において、延命治療を中止し、自然な死を迎える方法もある。「尊厳死」と呼ばれる死である。
尊厳死は医学界で常識である。日本老齢医学会は2012年に「胃ろう」を止めるための指針をまとめ、日本救急医学会も2007年に一定の条件下でのレスピレーター(人工呼吸器)などの生命維持装置の取り外しを提言している。
今回の公立福生病院の事件は、こうした医学界の考え方と大きくかけ離れている。病院が終末期医療や尊厳死の在り方を自分勝手に、都合よく判断した結果、透析患者の命を奪ってしまったのではないだろうか。沙鴎一歩はそう考える。
■1995年の安楽死事件では医師の殺人罪が確定
尊厳死と混同されがちなものとして、「安楽死」という言葉がある。
1995年3月、横浜地裁が東海大安楽死事件の判決で安楽死の3つのタイプ(積極的安楽死、間接的安楽死、消極的安楽死)を示している。東海大安楽死事件とは、東海大付属病院で末期がんの患者に医師が塩化カリウムを注射して死亡させた事件で、安楽死の問題が初めて司法の場で大きく問われた。判決後、医師の殺人罪(執行猶予付き)が確定している。
判決によると、積極的安楽死は苦痛から患者を解放するために意図的かつ積極的に死を招く医療的措置を行うことだ。これに対し、消極的安楽死は患者の苦しみを長引かせないために延命治療を中止して死期を早めることで、間接的安楽死は苦痛の除去を目的とする適正な治療行為ではあるが、結果的に生命の短縮が生じるとしている。
現在、積極的安楽死を安楽死とみなし、消極的安楽死と間接的安楽死を尊厳死とするのが一般的である。
■安楽死大国のオランダを支える「家庭医制度」
安楽死と言えば、オランダだ。オランダでは2001年に世界で初めて安楽死法が成立し、翌年から施行されている。オランダでは医師に薬物を注射してもらうなどして命を断つことが合法的にできる。さらにオランダでは患者の苦痛を取り除くような消極的安楽死(尊厳死)は、通常の医療行為になっている。
専門家によると、安楽死が合法的になった背景にはオランダ独自の家庭医制度が強く影響している。
国民全員が普段の健康状態を診る家庭医を持っている。家庭医は自分の患者がどう自分らしく生きるのか、どうやって死に臨もうとしているのかまでを詳細に把握している。オランダではこの家庭医が了承しない限り、安楽死はできない。安楽死法が施行されたオランダでも、安楽死はまれで、死亡総数に占める割合はわずか数%にすぎないのである。
患者と医師、病医院の濃密な関係があって初めて安楽死が成り立つ。「透析を再開したい」という女性患者の気持ちをくみ上げることができなかった公立福生病院の行為は、「殺人」に相当するのではないだろうか。
ジャーナリスト 沙鴎 一歩 写真=時事通信フォト
透析停止」と病状の死角
3/15(金) 6:10配信
JBpress
東京都福生市の公立病院で、腎臓病の透析治療を受けていた患者(女性、享年44)が、人工透析治療の「停止」を医師に提案されこれを了承、数日後に死亡していたことが毎日新聞の取材によって明らかになり、多くの論議を呼んでいます。
当該の病院には東京都福祉保健局の立入検査が行われ、別に日本透析医学会の調査も入りました。
委員会メンバーで医師の秋野公造参議院議員は「医師が延命治療を中止し、患者が死亡した場合、殺人や自殺に関与した罪に問われる可能性がある」と指摘し、法的な整理が必要との考えを示してもいます。
日本では透析治療の停止は、病状の終末期のみ認められるガイドラインが透析医学会により採用されています。
しかし、この女性患者の場合、もし透析治療を継続していたなら、余命が4年程度あったと報道されており、正しいとすれば、およそ「終末期」には当たらないことになります。
そうであるなら、これは一種の「尊厳死」の問題にもなり得ます。医療現場の個別判断だけでは済まない、倫理的な問題を含む可能性があります。
一連の行為について帝京大学准教授で生命倫理を専門とする冲永隆子さんの
「死の選択肢を示し、結果的に(死へと)誘導」
「患者は、よく理解しないまま不利益を被る選択をすることがある」
「医師の独善」
といったコメントが報道されました。沖永さんは医師ではありませんが、医療従事者からも 「JCHO千葉病院」の室谷典義院長が、公立福生病院の件について「医師による身勝手な考えの押しつけで、医療ではない」と手厳しい批判がなされました。
これらに対して、福生病院側からは
「当院で悪意や手抜きや医療過誤があった事実はない」とするコメントが発表されました。
一般に「倫理」の問題は、善悪を判断する価値観そのものの選択が関係しますので、万人の納得する結論は得られにくいものです。
私たちの研究室では「低線量被曝のモラル」「自動運転車技術の倫理」「視聴覚メディア表現の倫理」など、この21年来、様々な倫理の問題を考えてきました。
今回の事態も明らかに厳しく倫理を問う必要があります。しかしそこで決着がつきにくいこともあらかじめ想定されるところです。
シロクロのつけにくい問題であればあるほどケジメ(しばしば、制度設計)が求められることになります。
早い話がルール、法律ないしはそれに代わるガイドラインを適切に定めることが再発防止を含め、最も重要、かつ有効になります。
■ 地震と非常時電源
私が長年、近しくご指導をいただいている黒川清先生は腎臓内科のご専門で、日本に今日の透析治療を輸入する際、頭脳流出していた米国から「逆輸入」された経緯があります。
黒川先生が、こんな話をされたことがあります。
すでに20年以上前のことになりますが、ある地方で大地震があり、多くの人が避難所の生活を余儀なくされてしまいました。
被災者はひとまず安全な学校の体育館などに場所に集まります。ライフラインが寸断されてしまい、水や火力なども配給に頼らざるを得ません。
そんな被災者の中に、透析治療を受けていた患者さんも含まれていました。
透析設備は安定した電源が必要で、物流網も適切に回っていなければ稼働させることができません。
結果的に透析を受けられなくなった患者さんは、尿毒症の症状に苦しみ、命を落とされた方もあったけれど、そうした数字はあまり表に出ることはなかった。
しかし、非常時電源の重要性、必要性を関係する誰もが認識するところとなった・・・。
透析先進国だった米国には、こうした「地震に備えての透析電源設備」といった考え方はなかったので・・・ざっと、こんなアウトラインだったと思います。
黒川先生は、日本学術会議会長などを歴任されたあと、2011年の東日本大震災後は、国会の事故調査委員会の委員長として重責を担われました。
その人選の背後に実は、大規模災害時「透析治療のための電源確保」という課題に取り組まれていたことがありました。
一度、透析治療を開始すると、それをやめることはできません。最も切実な一断面としてご紹介し、福生の問題を改めて考えてみたいと思います。
■ インフォームド・コンセントの落とし穴
当該の患者さんは腎臓病を罹患後、約5年にわたって続けてきた透析治療で、血液浄化のために腕に作った血管の分路「シャント」が使えなくなってしまい、通院していた透析診療所が直ちに紹介状を準備、それを持ってカテーテルの挿入口を作ってもらうべく福生病院を訪れました。
腎臓病の治療そのものは内科の領分ですが、透析ができるように通路を作る、患者さんの体にメスを入れるのは外科の領分です。
つまり、透析治療という20世紀後半のテクノロジーの産物は、19世紀以来の縦割り診療科目の区分を超えたものであることに注意しましょう。
そこで外科医から提示されたのが
(1)首周辺に管=カテーテルを挿入して透析治療を続ける
(2)挿管などの手術は行わず、透析治療を中止する
という2つの選択肢でした。
別の病院を紹介され、そこでこのような選択肢を提示されなければ、全く違う状況であったことが考えられます。
また、本当にこれ以外の選択肢がなかったのか、という点も大いに問われるところでしょう。
今日の医療では「インフォームド・コンセント」が徹底されているので、治療法の変更や停止には本人の同意、また「同意書」などが非常に重要な意味を持ちます。
福生の病院のケースでも、複数の治療法が提示され、その中から本人が選択した中に「透析の停止」という選択肢があった。
実際、そのような選択肢を示した外科医(50)や腎臓内科医(55)は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」と述べています。
新たな挿管で透析を行うためには、外科の施術が必要不可欠である。だが、昨年8月9日、外科医からは「それをしない」という選択肢も提示され、「おそらく2週間ぐらいで死を迎えます」という説明があったとされます。
実はこの部分は後でいろいろな意味で重要になります。というのも8月9日の、このインフォームド・コンセントと「同意書」が、その後の事態を著しく非人間的なものにしていると思われるからです。
■ 「変化する主体性」に応じた 人間の尊厳を重視する制度の確立を!
主として3月12日までの各種報道から得られる情報を元に、この間の経緯を確認してみましょう。
女性患者さんの夫(51)によると、女性は1999年、自殺の恐れがある「抑うつ性神経症」と診断されていたとのことです。
今から20年前、まだ24~25歳頃のことで、自殺未遂が3回、いわゆる希死念慮があったようです。
女性患者さんは、透析に使う通路である「シャント」が「使えなくなったら透析はやめようと思っていた」とのことで、8月9日、いったんは透析中止を決めて意思確認書に署名、外科医は看護師と夫を呼んで再度意思確認。夫は迷いながらも中止を承諾。
この時点で女性は「今は症状がなく、家に帰りたい」と希望し、診療所に戻ったというのですが、ここは大いに注意すべき点と思います。
治療を継続するものとばかり思っていた透析診療所側では「在宅で、おみとりです」という福生病院からの、あり得ない連絡に仰天します。
だって、そのまま治療を続ければ、4年程度の余命は少なくとも見込まれる、およそ終末期ではない患者さんのことで、直前の透析治療は2日前の7日のことでした。
いつもどおりに透析を開始しようとしたところ、シャントが使えなくなっていることが判明。
これはいけない、と直ちにカテーテルを繋いでもらいに専門病院の外科に紹介状を書いた。透析診療所ではカテーテル挿入術の外科手術は実施できないからです。
ところが、専門病院に来てみると、透析を停止するという「選択」で「在宅でおみとり」だという。そんな・・・としか言いようがありません。
実際、患者さんの体からは尿が出ないため、毒素が溜っているはずで、尿毒症を発症すればことは命に関わります。猶予される時間はありません。
何としてもカテーテルを病院で入れてもらうようにと診療所は女性患者さんを説得しますが、患者さんは事態をどう認識してのことか「病院で相談する」と言って、9日は帰宅してしまったそうです。
明けて10日、女性患者さんは福生病院を訪れ、腎臓病総合医療センターの腎臓内科医(55)と面会しますが、「透析しない意思は固い」「最後は福生病院でお願いしたい」と話したとも報じられました。
これも本当はどのようなニュアンスだったのか、活字からだけでは全く推し量れません。
しかし4日後の14日になると、「息が苦しくて不安だ」と、パニック状態のようになって、結局、福生病院に入院することになります。
それはそうでしょう。前回の人工透析は8月7日だったはずです。まる1週間が経過していますから、尿毒症の症状が出ていて当然です。
何もしなければ、尿毒症は、全身身もだえするような苦しみに襲われるとのこと。
福生病院が「透析停止」ののち、どういう薬を処方していたのか資料がありませんが、透析だけ停止したうえ自宅に帰してまる1週間という状況自体が、まともな医療判断と言えるのか、問われる問題だと思います。
そして翌8月15日には女性患者さん本人が「透析中止を撤回する」と話し出し、夫は直ちに外科医に「透析できるようにしてください」と依頼。
人工透析の患者団体は、こうした反応は当然のこと、とコメントしています。
透析を停止し、それに伴う尿毒症の苦しみが始まれば、誰だって拷問のような状況から抜け出したいと思います。当然のことで、患者本人に選択させること自体が酷で、非人間的であると患者団体は指摘します。
ところが帰宅しようとした夫が腹部に激痛を覚え、同じ病院に緊急入院。
ストレスで胃に穴が開いており、胃潰瘍の手術を受けたものの麻酔から覚めたときには妻は亡くなっていた、という経緯は広く報道される通りです。
女性患者は8月15日「(透析中止を)撤回したいな」と生きる意欲を見せ、夫も「私からも外科医に頼んでみよう」と、それを請け負いながら、自身が胃潰瘍のため緊急手術を受けることになってしまった。
その間、外科医は女性患者から「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」という発言を複数回聞いているといいます。
しかし、それには応じず、苦痛を和らげる治療だけを実施しました。結果的に女性は8月16日、午後5時過ぎに死亡しています。
この、透析を停止した外科医は「(女性患者が)正気な時の(治療中止という)固い意思に重きを置いた」と説明します。
またそれを証拠づけるように、幾度も念押ししたうえで署名された同意書も残っています。
これらがある限り、現在の法の枠組みで考えれば、外科医に責任が問われる可能性は少ないようにも思います。
逆に、これらの同意書があるのにカテーテルの挿管手術を実施すれば、むしろ医師は「同意書違反」を問われる可能性も考えられるでしょう。
しかし、これだけで説明がつくことなのでしょうか?
■ 患者は病態を理解していたのか?
3月12日の毎日新聞は、別の角度からの見方を報道しています。
亡くなった女性患者(44)の長男(28)の談話で、初孫を抱かせてやりたかったというコメントなどが報じられました。
今日の少子高齢化の趨勢のなか、44歳で孫というのは珍しいケースではないでしょうか?
ご長男の年齢から、この女性患者さんが16、17歳で第1子を設けられた経緯が察せられます。
高等学校の教程に相当する生物学や化学、尿毒症のリスクや「死に直結する」といった医師の言葉を、どのように理解したのか。
少なくとも、医療のプロである医師たちの理解とは、相当に隔たっていたと裁判官が考えても、全く不自然ではないと考えることができるでしょう。
亡くなる3日前、入院の前日に当たる8月13日、女性患者は結婚して独立した長男を突然訪ね、「(透析治療が)できないって言われたから、とりあえずやめる」と話したそうです。
治療をやめる選択肢を外科医から示され、意思確認書に署名したのは9日、それから4日、最後の透析からすでに6日も経過しています。
長男は絶句したとのことですが女性患者さんは堅い表情で「もしかしたら死ぬかもしれない」と語ったそうです。
「とりあえずやめる」「もしかしたら」「かもしれない」
もし、字義通りに取るなら、患者さん本人は「透析の中止」が「死に直結する」という医師の言葉の意味を、もっと曖昧に捉えていた可能性が考えられるでしょう。
透析を続けても苦しいばかりだ。やめられるのならやめたい。それでも大丈夫「かもしれない」・・・そんな本音が透けて見えるようにも思われます。
さらに、翌14日、女性患者さんはパニック状態になって入院しますが、心配する息子の「どうだった?」という電話に対して、父親は「平気そうだよ」と返事し、息子もひとまず安心します。
しかし、父親はその間にストレスのため胃を自己消化してしまい、翌日には穴が開いて、胃潰瘍の手術で緊急入院することになってしまいます。
果たして、翌15日、女性患者さん本人が、痛みや苦しみから「透析を再開したい」と言い出しますが、医師とのやり取りの末、結局再開しないことに。それは明確にある結末の方向を示すことになります。
長男は8月16日の朝、最期の面会をしています。父すなわち夫は胃潰瘍で緊急入院して手術というアクシデントがあっての面会と思われますが、まともに会話ができなかったとのことです。
「何で? まずいな」
長男は嫌な予感がした、と毎日新聞は報じます。以下報道(https://headlines.yahoo.co.jp/hl? a=20190312-00000002-mai-soci)を引用すると
「外科医は『お母さんの意思を尊重する。容体が今後急変することがあるが、何もできない』と長男に告げたうえ、強い鎮静剤を女性に打った」
「30分間だけ、話ができた。10日前に生まれた初孫の男の子の写真を、長男は女性に見せた。『お前に似てるよ』。女性は薄く笑い、つぶやいた」
「家の中の片付けをしなかったのが『心残り』と言った。『もう死ぬから、後のことをよろしくね』。それが最後だった」
このやりとりは、いったいどういう「治療行為」の結果、かわされたものなのか?
ほんの1週間前までは、透析を受けながら自宅で普通に暮らしていた人が病床でかわす会話として、尋常なものでないことは間違いありません。
■ 人間の尊厳と主体性
刑法の故・團藤重光教授は、このような状況を「人間の主体性」という言葉を併用して議論されました。
法の条文や書類、判例などは動かず、変わりません。しかし、人間は時々刻々、内心が変化する生き物です。
そういう個人の「動く主体性」を、きちんと掬い取ってこそ、人間の尊厳を守ることができる。それができない硬直した法や司法は、非人間的な訓詁の学、いわば朱子学のようなものだ。
そうではなく、ゆれ動く人間と社会の実相に応じた知行合一の学、陽明学的な法と法文化を目指さなければならない・・・。
90代の團藤先生が重視された、このような主張を「時代錯誤」「駿馬も老いては駄馬に劣る」などと、明確に否定する法律家の意見も、私は直接耳にしました。
しかし今回のような事態を直視し、さらに、情報化の進展など「私文書」の在り方が変化している時代状況を考えるに、外科医が「重きを置いた」「正気なときの堅い意志」の評価と、それを跡づける「同意書」は、意味や価値を相対化される可能性があるように思います。
女性患者さんの夫は「意思確認書に一度サインしても、本人が『撤回したい』と言ったのだから、認めてほしかった」と述べています。
しかし冷たい司法や過去の判例は、同意書(たぶん有印私文書でしょう)を重く見る可能性があるでしょう。
女性患者が夫に最後に送った電子メールは亡くなった16日の朝7時50分のタイムスタンプで「とうたすかかか」という7文字を記録しています(ご長男との面会との前後関係は報道からは分かりませんでした)。
スマートホンやSNSがこれだけ普及した現在、以前なら口頭で意志が変わったといっても、正気なときの堅い意志とは全く違う、死に隣接して痛み、苦しみに直面する人間の生の肉声が、時刻の裏づけとともにデジタルデータとして保存され、裁判所にも提出可能な状況になっています。
同意書の在り方に本質的な見直しを迫られる可能性があるのではないでしょうか。
今回の出来事それ自身は、もう取り返しがつきません。
医師が治療法を説明する際、透析をやめればその後に必ずやってくる、尿毒症の症状による痛みや苦しみ、そして避けがたい死をどのように説明したのか?
実際、8月9日に女性患者さんは帰宅しているわけで、14日の入院までは自宅で過ごし、連絡していなかった長男宅を訪ねて「もしかしたら」「死ぬかもしれない」と語っています。
文字通りの意識であれば、インフォームド・コンセントといいつつ、患者は自分の病状について、ほとんど何も正確には理解していなかった可能性が考えられるでしょう。
「痛みを和らげるケア」は、終末医療そのものと言うべきですが、そのようなケアが必要になる終末状況が100%やって来ることを、患者本人が精神的に健康な状況で客観的に理解したうえでの合意だったのか?
医師は「手続き的に瑕疵がない」と主張する、ここでなされた「合意」や「治療」は、本当に人間的、主体的なものであったと言えるのか?
ティーンエイジャーで第1子を出産、その後も病身の夫を支え、生活苦のなかで20代半ばにノイローゼの診断との報道もあります。患者自身がどの程度、医学的に正確に自分の病状を理解することができたのか?
よしや、それが難しいとき、ヒトの命を守るのが、かつての「仁術」としての医術だったのではないか?
やはり透析を再開したい、という苦しみの中にある本人の意思に対して、それ以前に本人が書いたから、と紙に記された合意・同意を「重視」して「強い鎮静剤」(一般には入眠する場合が多いように思います)を処方するというのは、どういう医療か?
福生は、私の地元、都下「国立」と10キロほどの距離なので、週末秩父に用事があったのですが、行きがけに公立福生病院の横を通ってみました。
病院そのものは新しいきれいな建物でしたが、直近にある米軍横田基地と周辺の街区が新築の高層病院と対照的な風景を創り出していたのが印象に残りました。
明らかに、正解のない問題です。
しかし、現在の制度や法だけでカタがつくことは絶対にあり得ない、1つに定まらない答えを幾重にも問い続ける必要がある、非常に重要な問題がここに存在していると思われます。
新年度に入ってからになると思いますが、「東京大学哲学熟議17」として、この問題を考える市民大学講座の開催を準備したいと思っています。
伊東 乾
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