第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

見えないものと共に生きるということ

2022-11-18 22:53:30 | 精神障害・脳梗塞との共存

精神障害にあり12年、発症してから5年は、入退院を15回繰り返しました。

その間、苦しくて自殺未遂3回しました。

どうしてこんな病気になったのかと何度も繰り返し考えていました。

この時のことは、今まで記事で書いてますので、詳しくは割愛します。

こんな中、子供たちや妻には迷惑を掛けてしまいました。

そして、
僕の元から去らなかった妻や子供たちに感謝しています。

この言葉は、今になったから言える事で、当時の私には言えませんでした。

 

薄皮を剥がすように、徐々に精神障害と共存できるようになって来ました。

今は、脳梗塞の副作用が、まだ共存できなくて四苦八苦してる状態です。

また

精神障害と脳梗塞の服作用が同時に、身体に出たときには、苦しい。

共存ができるようになるためには、しばらく時間がかかるかと思います。

 

苦しさだけではなく、子供たちの結婚・出産(孫)など、嬉しいこともあります。
妻にも、メンタル面で支えられています。

 

 

生きていれば、いいことあると思いますし、死んでしまえば、そこで終わりだと思います。

 

 


2つの障害を持って

2022-11-17 19:00:36 | 精神障害・脳梗塞との共存

精神障害(うつ病・躁鬱病・パニック障害など)を持って、約12年

脳梗塞(今年6月13日発症)になり、5ヶ月そして、副作用

高校を卒業してから社会人になり、私には妻と共通の目標がありました。
① 父親みたく家庭を壊さない。
② 子供には経済的自由を与える。
③ 子供を一人前の社会人にする。

この3点は、私が受けられなかった事です。
そして、
途中、精神障害になりながらも、目標は達成できました。
妻の協力が大きく、感謝しています。

 

目標を達成した訳ですが、還暦の私には、これ以降の目標がありません。

しいて言えば、
妻と2人で仲良く暮らす?
孫を見て喜ぶ?
静かに暮らす?

どれも違うような気がします。

だからと言って、バリバリ働ける訳ではなく、なにが出来る訳でもありません。

 

焦ってなにかをしようとすると失敗ばかりしてたので、焦らないように気を付けています。

 

今の私に何か出来るとすれば
『他人に迷惑をかけない』ことかなと思います。

簡単なようで難しい気がします。

焦らず今後の目標を見いだしていこうと思っています。

やれやれ 人生って徳川家康じゃないですけれども
重き荷を背負うが如しですね。

 

 


一般病棟に移動してリハビリとの闘い

2022-11-16 19:27:50 | 精神障害・脳梗塞との共存

ICUから一般病棟に移されてから

日常訓練動作(OT)・運動療法(PT)・嚥下訓練(ST)が始まりました。

身体がまともに動かない状態での早期の訓練です。

流動食のための管が鼻から胃まで通っており、それで栄養を補給していました。

 

 

 

 

OT・PT・STの訓練は。厳しいものでしたが、私の中で
何故か、復活するんだという想いが強くなり、夜8時か9時の就寝前に寝て
朝3時に起きて、朝焼けに復活させて欲しいと祈りしました。

 

 

 

3週間ほどで歩行のふらつきはあるものの、日常生活動作が出来るようになり
嚥下も、管が外れてからムース食から、形がある食事になっていきました。

 

 

1ヶ月ちょいで退院となり、妻が私の歩行時のふらつきで転倒防止のため、
介護保険で、自宅に手すりを付けてくれてました。

 

 

脳梗塞を発症してから、5ヶ月ですが、普通の食事がまだ食べれていません。
歩行時のふらつきもあります。
私は精神障害と脳梗塞の副作用である嚥下障害・右半身麻痺・歩行障害と
大きく2つの障害を抱えながら、生活してます。

これらの障害と共存しながら、今後も生きて孫 孫 したいです。
苦しいですが頑張って生きていきます!


急に襲ってきて天と地がひっくり返った 脳梗塞

2022-11-15 18:18:03 | 精神障害・脳梗塞との共存

2022年5月30日(月)に、息子の結婚式から帰って来て

14日目の6月13日(月)朝7時ごろ

急にコーヒーが飲めなくなり、次第に目が回り、感覚がなくなり、意識が遠のいていきました。

二階が私の部屋なので、妻から、いつもの精神症状と言われましたが、
これは違うと思い、二階から尻を付いて1階に下がり、自宅の固定電話で
119を声を振り絞ってしました。

 

119した後、意識がなくなり、一瞬救急車の中で意識を戻りましたが
そのとき、子供も一人前にしたし、『もう十分なのかな』と
思いました。
そして、意識がまたなくなりました。

次ぎに意識が戻ったのは、病院のICUです。
身体に管が通されて、脳梗塞の眼振もあり身動きできませんでした。

 

病院のICUに10日間ほどいて、一般病室の個室に移されました。
その頃は、嚥下障害、身体の右半分に麻痺、歩行のふらつきが
ありました。

それから25日間、リハビリなどでの戦いが始まりました。

 


『年を取っていく』ということ

2018-03-30 20:59:40 | 精神障害・脳梗塞との共存

こんにちは


2年ぶりの投稿になります

2年という月日は早く感じます

あっという間な時、そんな感じです

 

年を取る(重ねる)ということは、どういう事なのか考えていました。

人間である限り、誰しも年を取っていきます

不老長寿の薬かクローン(クローンと言えど、やはり本人じゃないのです。)技術でもなければ、

毎日の暮らしの中で年を取る(重ねる)のです。

 

何のために年を取るのか?

言わずもなが、日々生きているからです。

これ以上の答えはあるでしょうか。

 

じゃあ

年を取れば人間的に年下よりも成長しているかと言えば、そうとも限りません。

年下の方が人間的に成長している人たちは沢山います。

 

ただ単に、年を取っている(重ねている)人間は、どうでしょうか

〇 人間的成長も年下よりも下
〇 精神的なものも年下よりも下
〇 こういう人間に限って、なぜか悪知恵だけは働くようです

 

そういうような人間が増えていけば、勤勉と言われた日本人の魂さえも失われていくように思えてなりません。

 

うちの子らも例外なく必ず、年を取る(重ねる)のです。

良き年の取り方(重ね方)をして欲しいものだと思っています。

最低でも
他人を騙したり
約束を簡単に破ったりするような人間にだけはなって欲しくないと願っています。

 

 


やりたい事=できる事ではなく、それを見つけたい。

2016-07-24 15:04:03 | 精神障害・脳梗塞との共存

こんにちは^^

 

日々、単調ではあるけれども生活していると、それがあたかも当たり前になってきます。
何も考えずに、ただ生活しているだけという気持ちにもなります。

しかし
単調な生活の中にこそ、何か大切なものが秘めれている気がしてなりません。

妻から何をしたいの?と聞かれても明確に答えることは出来ません。
所謂、『自分』がないのである。


ここまで書くと、何て無意味な人生を送っているんだと思われることでしょう。

 

本当に無意味かと言われると、こんな自分でも、妻がおり、子らがいます。
生活も、どちらかと言えば、あんまり不自由させた記憶がありません。

 

自由な時間がいっぱいあっていいと思われがちですが、人間は我が儘な動物で
自由な時間があればあるほど、不満が蓄積されていきます。

何かやればいいんじゃないと考えられる方もいるかも知れませんが
その何かが見つけられないのです。

その何かは、家族や他人が見つけるものではなく、自分自身でしか見つけられないんだと思います。

 

やりたい事=出来る事 ではない以上、
どちらを優先させるか?という壁にあたります。

自分の場合は、収入うんぬんよりも、『やりたい事』を優先的に考えていきたい。

その為、単純な日常生活の中に隠されたものがあると考えています。
ただ、『やりたい事』の為に、家庭崩壊などを招くのは本望ではありません。

 

社会において、やりたい事=できる事をしている方は、ごく少数だと思います。
どちらかと言えば、『出来る事』をしているのではないでしょうか。
自分も現役時代は、同じでした。
生活をしていくために、『出来る事』で生計を立てていました。

 

生計を立てていくことは大切なことです。
生活できなければ生きてはいけません。

今の自分の考えは、『やりたい事』を見つけ、それをやり続けれたときに収入は付いてくるものだと思っています。
これは、家庭崩壊などを招かないために、収入という糧を得るのも大切だと考えているからです。

ただ、現在の自分の欠けているのは、その『やりたい事』が見つからないことです。

一心不乱になれる『やりたい事』を見つかったとき、自分の人生は幸せだと感じると思います。

簡単なことではありませんが日常生活をしていく中で、それを見つけていきたいと思っています。


「優しさは大きな力になる」と信じたい

2014-07-01 10:41:55 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

 

こんにちは。

今の社会に感じることは、
『正直者は馬鹿をみる』
『優しさは損をする』
『優勝劣敗』
『騙すより騙された方が悪い』
という風潮が、益々、右傾化と共に強まってきたように思えます。

 

 

つい最近のでも徘徊する高齢者が行方不明になったり、亡くなられたりと
家族での扶養能力は、確実に落ちているように見えます。

 

 

この様な、風潮の中で
《優しさ》は、どこにあるのだろうと思えてなりません。
実際、自分も社会に対して《優しい》だろううか?と問われれば、無いのかも知れません。
そんな自分が《優しさ》を語るとは!と怒られるかも知れないし、怒る人もいるでしょう。

 

 

 

自分を含めて
《優しさ》を見つめるときではないかと考え、記事を書いています。
自分には、家族がいて、妻や子らが自分にとっては、<生きている意味>そのものと言っても過言ではありません。
妻や子らがいなかったら、今の社会では生きてはいないだろうと思っているくらいです。
ですから、
妻や子らに対しては、子供の頃から
[好きなことは何か?]
[みんながしているから、やると言うのではダメ]
[失敗してもいいから、考えて行動してみなさい]
と言い続けてきましたし、妻や子らが、それに沿って、やりたいと言えば、自分なりにやってきたつもりです。
それだけではなく、社会規範に照らして、やっては行けないことについては、正面から真剣に怒りました。

 

 

妻や子らに、以前、聞いたことがあります。
こんな病気の俺は家族に必要なのか?と
妻や子らは、
必要だと言いました
そして、どうして必要なのかと聞きました。
だって、父さんだもん。と返ってきました。
自分は、泣きました。
このとき、《優しさ》を感じずにはいられませんでした。

 

この自分が受けた《優しさ》を妻や子らに返したい。との想いで生きてきました。
また
社会にも、何か出来ることはないだろうかと思いながら生きてます。
こんな、ちょっぽけな俺でも何か出来ることはないのか?と
考え行動する《優しさ》は、大きな力になると今でも信じているし、死ぬまで返る気はないです。

 

 

 

30年以上前の家族とは、
家父長制であり、男尊女卑の家族形態であり、自由に生きることさえも制約され、
家父長に逆らえば、生きていけなくなる、そんな家族であったと思います。
自分も、それに漏れず、子供時代は、家父長制の家族で育ち、
家父長制の家族形態が機能不全を起こした中で、高校まで過ごしました。
そんな家族は、嫌だ!と子供の頃から強く思っていて、
もし、自分が家族をもったら、そんな家族にはしたくない!と強い思いをもってました。
高校卒業まで大学に行けると思い込んでいた自分は、
機能不全家族になってる事もしらずに、進路を決めるとき、親から大学へは行かせられないと告げられたとき
ひどく、落ち込み、絶望しました。
好きではないけれども【生きる】ため、やむなく自衛隊に入隊しました。
2等兵から幹部まで、約30年間、在籍
その間、妻と結婚し、子も2人授かり、家族と呼べるものも出来ました。
その時、子供時代から強く思っていた
家父長制にはしない。
機能不全家族にはしない。
そう決意し、本日まで、何とか【生きて】これました。

 

 

 

社会の中での最小単位は、家族であるし、
社会の中の家族は国家であると思っています。
その国家が、今や家父長制になり、家父長の言う事を聞かなければ、生きていけないものになっていると感じていますし、
家父長が、集団的自衛権の行使容認を限定的とは言え、決めてしまう今日
国家という大きな家族の子らたちを、あえて危険に晒す行為を《優しさ》と言うと、
それは
《優しさ》ではなく、[勝手な押しつけ]であると考えています。
30数年前の、家父長、そのままである。

 

 

現代社会は、
家父長性の家族ではなく、多様な家族形態があり、一つでは収まらないのが現実であると思っています。
その中で苦しく辛くとも決して、忘れてならないのは、家族はもとより、他人に対して、ほんの少しだけ電車で座れない高齢者や障害を持った人がいれば、
譲ってあげると言った優しさをもってほしいと思っていいます。
それが小さなものでも大きな力になります。
家父長性の《集団的自衛権行使》のような[押しつけ]には、優しさの欠片も感じません。
もし、そこに優しさがあるのならば、憲法改正を、国家の家族である国民に聞くべきであるのが正当だと考えます。
メ・メントモリでは、機能不全家族になったも同様であり、戦場に行きたければ、決めた人間が市ヶ谷の地下の指揮所にこもって安全な位置にいるのはなく、
まっさきに戦場に行って現実をみるべき。

 

 

国家の家族である子の自分が、私見として書きました。





遂に今日、【集団的自衛権の行使】の閣議決定がされます。
国という家族の形態が
家父長性になり、優しさが失われた国(家族)に変貌を遂げる哀しい日です。
いくら、きれいな言葉を並べ立てても、変貌を遂げることに変わりはありません。

 

 




これからの日本を背負う若い方達が希望の持てる社会であるように願い、引き続き行動していきたいと思っています。
生きづらい世の中でも、希望を捨てずに生きていって欲しいと願っています!

ニコ動(子らへ贈る)

最後のピアノを弾いているのは、小学生の頃の、娘です。
そんな写真を、未だに持っているバカ親父です。

 

 


『環境』について

2012-09-23 16:24:16 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

自らの環境について、書きます。

娘や息子にも、話をし、自分自身にも言い聞かせていますが、
〇 環境を自分で創るか
〇 誰かが創った環境で楽しむか
〇 誰かが創った環境の中で不満をいうか

これらは、自分自身で選択する事が出来るし、やろうと思えば、誰にでも出来る事だと考えてます。
これをやるんだ。と考えたら、若いときは、遮二無二、やるだろうし、
いいやこれでと考えたら、現在の環境で、嫌でも満足するしかない。

娘や息子に、この話を何度もしました。
その想いは、自らに居心地の良い環境を創りだすことで、不安な気持ちは払拭され、
細かい事に左右されなくなるし、今、自らが何をすべきかが、自然とわかるようになる筈だと。

これは、俺自身にも、言い聞かせています。
今の俺に出来る事を、少しづつでも、やろうと。
日々の生活の中で、言い聞かせてます。

 

 

ニコ生で活動しているクリエーターさんと歌い手さんを世に出すため頑張ってます。
FULL音源とインスト曲がありますので、興味がある方はDLして聴いてみて下さい。
【その窓からみえるもの】作詞:Miku (@No01Miku)作曲:K.Rin P【歌と歌い手さんを世に出そう!】←クリックすると飛べます。

 

 

備考

今のHNにした理由については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→今更ですが、使っているHNにした訳

自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。

発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』

俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』

生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる

精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?

引きこもりの精神障害者が生き残る道について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきこもりの精神障害者が生き残るには

自分の事や子らや妻の事など家族の事が出来て初めて他の方の事を考えられる記事です人間は自分が『一番大切』なんだと言う事

俺の根本的な考えと行動について書いた記事です→自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。

NHKで放送されていた復興予算の番組について書いた記事です。→NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円』を見て。

病気か病気じゃないに関わらず、やり遂げなければならなかった事を書いた記事です。→『病気になっても、何がなんでも成し遂げなければ、ならなかった』こと。

息子が送ってきた写真を貼った記事です。→息子の交換留学

 

息子が送ってきた写真その2です →息子の交換留学 ②

 

下記ブログに移動しました。

別館
Sakurazaka's 3D Room(←クリックすると飛びます。)

 

 

俺の信条倒れても、妻や子らに食べさせるのが男(息子に、いつも話しをしています。)

 

 

 

 


『病気になっても、何がなんでも成し遂げなければ、ならなかった』こと。

2012-09-12 11:43:06 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

 

 

病気になって、俺が何が何でも成し遂げなければ、ならなかったことは、

〇 自衛隊生命を賭けて、メンタルヘルスケアの態勢を創ること。
   反自衛官と罵られても、何を言われても、今後必要となると精神疾患になって強く思ったからです。
   この記事で詳しく書いてます→『職場と正面から向き合って』いた事とは。
   そして
   メンタルヘルスケアの態勢を見届け、自衛隊生命を賭けた最後の日
   『職場と正面から向き合って』最後の日。


〇 俺が倒れても、妻や子らに食べさせていけること。
   41歳で病気を発症し、這ってでも、職場にいきました。這って行けないときは、妻に肩を借りて行きました。
   その間、
   様々な職場の人たちと、メンタルヘルスケアについて、ぶつかりました。
   ぶつかった方には、俺の想いであったとは言え、申し分けなく思います。
   また、色々な方面で、お世話になった方には、感謝しています。
   自身の病気の苦しさとともに、やり遂げなければという思いが、俺を前に進めました。
   自衛隊生命を賭けた最後の日から、今日で、1年3ヶ月が経ちました。早いものです。
   病気は依然として、俺に取り付いたまま苦しい日々です。
   現在、
   子らは、希望する大学に行き、妻は、俺が言う通り、自由にして欲しいという言葉どおり好きな職に就き活き活きしてます。

〇 『負の連鎖を断ち切る事』
   この記事で詳しく書いてます→自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。

この3つをやり遂げられれば、俺は満足して、役割がなくなったとき、自身の身を処すことができます。
息子にも、娘にも、妻にも、同じことを話してます。
これが今の俺が《生きている意味》です。
それ以上でもなければ、それ以下でもありません。

 

 

 

備考

今のHNにした理由については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→今更ですが、使っているHNにした訳

自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。

発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』

俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』

生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる

精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?

引きこもりの精神障害者が生き残る道について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきこもりの精神障害者が生き残るには

自分の事や子らや妻の事など家族の事が出来て初めて他の方の事を考えられる記事です人間は自分が『一番大切』なんだと言う事

俺の根本的な考えと行動について書いた記事です→自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。

親から俺がもらったものについて書いた記事です。→親から、もらったもの

息子が送ってきた写真を貼った記事です。→息子の交換留学

息子が送ってきた写真その2です →息子の交換留学 ②

NHKで放送されていた復興予算の番組について書いた記事です。→NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円』を見て。

 

 

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俺の信条:倒れても、妻や子らに食べさせるのが男(息子に、いつも話しをしています。)


親から、もらったもの

2012-09-11 15:16:26 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

俺の親から、もっらったものは、二つあります。

一つは、生を受けた事(この世に生まれた事)

二つ目は、傷です。

この傷は、俺の土台にあるもので、寝る前に、疼きます。
疼く傷は、俺自身でしか向き合う事ができないものです。
苦しいけれども、向き合っていきます。


俺の土台にある疼く傷(下手な絵で、すみません。)

 

俺は、親から、もらったものを怨んではいません。
ただ、
俺の子らには、このような傷を残さないようにします。(負の連鎖を断ち切るため)

 

 

 

備考

今のHNにした理由については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→今更ですが、使っているHNにした訳

自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。

発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』

俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』

生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる

精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?

引きこもりの精神障害者が生き残る道について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきこもりの精神障害者が生き残るには

自分の事や子らや妻の事など家族の事が出来て初めて他の方の事を考えられる記事です人間は自分が『一番大切』なんだと言う事

俺の根本的な考えと行動について書いた記事です→自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。

息子が送ってきた写真を貼った記事です。→息子の交換留学

息子が送ってきた写真その2です →息子の交換留学 ②

NHKで放送されていた復興予算の番組について書いた記事です。→NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円』を見て。

 

 

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俺の信条:倒れても、妻や子らに食べさせるのが男


自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。

2012-09-03 20:36:51 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

子らが、今年(2012年)、お盆に帰って来た時の写真を添付しながら、
【自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。】について、記事を書きます

 

《俺自身についての話から始めたいと思います。》
俺自身が、生まれ育った環境は、俺にとって良い環境とは、言えないと俺自身、思っています。
1960年代の高度成長期に生まれ、商売をしていたところに、生まれ、物には恵まれていたと
物心付いたときは、そう思っていました。
物心付いたときから、同級生と俺自身が何かが違う。他の家族と我が家は、何かが、違うと漠然と感じていました。

今でこそ、笑い話にしかならないけれども、好きでもない塾に行かせられたり、好きでもない剣道を習わせられたりと
俺自身の考えなどは、取り入れられ無かった感じでした。そのストレスの、はけ口に下に妹がいて、妹を良く泣かせて
いた記憶があります。
また、両親は、夜に、毎晩のように、家に誰かを呼んで、
お酒を飲んでドンチャン騒ぎし、俺と妹は、同じ家の中で、その騒ぎを聴きながら、毎晩、寝ていました。
この頃、良く考えていたのは、俺と結婚する人は、どこにいるんだろうと、考えていました。

小学校、中学校と実家のところで通い、高校は、この頃から、親が不仲になり、親から離れたところに行きたい。
と思い、仙台の私立高校に下宿をしながら入学し通学しました。
親からは、大学に行けよとか言われてて、俺自身、大学に行けるんだと思い、必死に勉強しました。
しかし、高校2年から高校3年になるとき、両親は離婚し、大学には行かせられないと母から告げられた時は、
裏切られたという気持ちになりました。これ以降、勉強はしなくなりました。
ここまでを負の環境と俺自身呼んでおり、同じ環境を創らない事を負の連鎖を断ち切ると呼んでいます。)

卒業間近になり、母側にいる俺は妹もまだ、高校1年くらいで、どうしたらいいのか。と必死に考え、今は、自らが働くしかないと考え、
当時、風当たりも強かった仙台の自衛隊地方連絡部の門を叩きました。筆記試験を受け、終わった後に、すぐに
採点があり、地方連絡部の方から、なんで、大学とかに行かないんですか?と聞かれました。
なんで、聞かれるのか、聞いたところ、筆記試験は、ほぼ満点で、こんな人間が地方連絡部の門を自ら叩くて
入隊して来る人が、ほとんど、いなかったという話でした。大抵は、地方連絡部(地連)の人が、勧誘して入隊
するのが一般的でした。晴れて、昭和56年3月に18歳で、2等陸士として多賀城第1教育連隊に入隊しました。
この頃の俺は、下っ端の2等陸士として、地面を匍匐前進しながら、普通と呼べる俺自身の[家庭]を創りたい。
と毎日、思いながら、地を這いながら思っていました。

多賀城での新隊員前期を終えてから、新隊員の後期は、親から離れたくて、縁もゆかりもない
現在住んでいる北海道を希望しました。幹部になって自宅を何年か開けた事がありましたが、
この頃から、北海道に30数年住んでおり、生まれ育ったところより長くなりました。

妻と結婚したのは、俺が24歳のときで、今は亡くなった妻の実家の父親との約束で、まだ陸士(自衛隊の中では
アルバイト)だった俺は、陸曹(自衛隊の中では、正社員)になる事を決意し、亡き妻の父親と約束しました。
その約束を果たし、妻と新たな家庭を北海道で持つことになりました。娘が生まれたのは、俺が演習中で山に
籠もっているとき連絡を受け、演習が終わって、そのまま病院に直行し、初めて俺の子どもを見ました。
ず~と見ていても、飽きない、目に入れても痛くない状態で、見ていました。その後、妻に会い、良くやったなと
話しました。息子が生まれたときも、災害派遣のときで、俺の息子が生まれたあと喜びました。
子らが出来たあとは4人家族となりました。

病気が発症するまで、平凡な家庭でしたが、病気が発症してから、病気の苦しさのあまり、自殺未遂をした事も
あり、強制入院や任意入院など繰り返しました。そのときどきで出会った医師や家族を含め俺を支えてくれた
方々がいたからこそ、今の俺があります。感謝しています。

退官ー依願退職
この記事で書いています。→ 『職場と正面から向き合って』最後の日。
このとき、今まで、居させて頂き、ありがとうございます。と言いました。
辞令を受け取ってから、号泣しました。その場に、妻と息子がいました。
30数年勤務した自衛隊生活に終止符のときでした。

病気になってから、健康なとき考えもしなかった事
〇俺は何の為に生きているのだろうか。
〇俺の生きている意味はなんだろう。
〇俺ってどんな人間なんだろう。
という事でした。
細かい事は、このブログの中でも書いてますが、一つの結論として、
[俺のような人間を創らない事]
俺と同じような環境で、育てるのではなく、普通の家庭環境(前に書いた負の環境とは真反対の環境)で子らを育て、
俺のような同じ人間を創らない事だと強く思いました。
これが、[俺が生きている意味]なのです。
病気で、ほぼ毎日、どんなに苦しくても、これがある限り、生き続けられるのです。
そして、
子らが家庭を持ち、孫が出来た時、孫の中に俺が居ないことを確認できたら、俺の役割は終わります。
新たな役割が無い限り、その時点で、自らの身を処すのです。その時点が65歳です。



《妻への想い》
妻を俺から、一日も早く自由にしたいと考えています。妻には、俺が自らの身を処したとき、子らを最後まで見守って
欲しいと話しています。そして、子らには、妻を兄弟力を合わせて、好きな事をさせて欲しいと話し、約束しています。

 

 
《娘への想い》
自分が信じた道をこつこつと、進め。と話してあります。俺とは違う人生を送って欲しい。
と話しています。おまえならきっと出来る。自信をもって進みなさい。困った事があれば、
いつでも相談して来いよ。と話してます。

 

 

 《息子》
いつも話しているけど、男は孤独で、自らの腕1本で勝負しなければいけない。家庭を持ち、おまえが倒れようとも、
妻と子を、這いつくばってでも食べさせるのが男だと何度も、話ました。俺のような、つまらない人生じゃなく、おまえ自身
が自らの力で切り拓いて、楽しい人生を送れ。また、自らの可能性を試してみろ。家がなくなろうとも、俺が納得すれば、
お金は出してやる。節節で、ここは、俺を超えたなと話した。俺を完全に超えたというのは、何度も話したけど、
おまえが、家庭を創ったとき、俺と妻が創った家庭の質以上のものを創ったとき、完全に超えたとき。俺は、その時を楽しみに
して生きる。俺が自らの身を処したとき、兄弟力を合わせて、妻の好きなことをさせてくれ。これも前に話した通り。

 

 

どんな事があろうとも、何度も話したけど、兄弟は力を合わせなさい。

 

 

 

 

子らが今年(2012年)のお盆に帰ってきたとき、家族で買い物に出かけ、
パフォーマーに出会いました。
まだ若く、ず~と見てみました。 

 

 終わった後、カンパをし、娘に撮ってもらいました。

 

 

この様な、考えで、このブログは、書いています。
俺自身の『命』を掛け『人生』を掛けられる事は
子らです。
どんな事があろうとも、俺と同じ人間を二度と創らない(負の連鎖を断ち切る。)ため、
今は、生きてます。
これ以外、今の俺に、何が出来るのか分かりませんが、俺の出来る範囲で、若い、これからの方を
応援するのは、出来ると思っています。

日々の拙い、ブログですが、家族の記録ですし、生暖かい目で、見守って頂ければと思っています。

 

 

 

 

備考

今のHNにした理由については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→今更ですが、使っているHNにした訳

自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。

発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』

俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』

生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる

精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?

引きこもりの精神障害者が生き残る道について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきこもりの精神障害者が生き残るには

自分の事や子らや妻の事など家族の事が出来て初めて他の方の事を考えられる記事です人間は自分が『一番大切』なんだと言う事

 

 

 

別館
Sakurazaka's 3D Room(←クリックすると飛びます。)


今更ですが、使っているHNにした訳

2012-07-06 15:17:04 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

『Sakurazaka』というHNを付けた訳は、
妻が、福山雅治さんが好きで、
福山雅治の曲である桜坂が好きだったので、
このHNを約8年ほど使っています。

たぶん、このHNは、この先も使い続けると思います。

口では言えないけど、妻への感謝の気持ちです。

以上です・・・
短くて。。。すみません

 

 

 

備考

自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。

発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』

俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』

生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる

精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?

 

 


今後の『ビルト』について

2012-07-01 22:50:40 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

 

今後の『ビルト』について書いていきます。

依願退職してから、もう1年。早いものです。
ついこの間のように感じます。
また
病気を発症してから、9年目?だったかな。早いなと感じます。
あっという間に10年って、過ぎますね。

このブログの説明にもありますが、
スクラップ&ビルト
スクラップは、カテゴリーの【俺とは】で終わり、
今回、【自己完結(ビルト)に向かう俺】というカテゴリーで、ビルトが始まりました。
この記事で『自己完結できる人間』に。(←クリックすると飛びます。)カテゴリーの【俺とは】で終わりました。

スクラップには、病気を発症してから考えると、約9年かかりました。
妻や子ら、主治医、臨床心理士、そして俺に勇気を与えてくれた方々のお陰だと感じています。
本当に、感謝!感謝!です。

ビルト=自己完結出来る人間になる為に、あとどのくらいかかるのか分かりませんが、
ブログの題名の下に説明に書いた通り、
【病気をオープンにし、妻や子らの協力を得ながら、社会に挑んで(社会適応)いきたい】為に、
諦めずに日々を過ごしていきます。


今後の【ビルト その1】の図を作ってみました。
その1があるという事は、2もある?
俺自身の成長が妻や子ら、主治医、臨床心理士さんなどから話されたら、
そのときの、状況で《自ら考え行動》し、図を作りたいと思います。

 

ビルト その1 

 

 

今読んでいる本

ひきこもりと家族トラウマ (生活人新書)
クリエーター情報なし

日本放送出版協会


『負の連鎖』とは。

2011-07-14 03:10:09 | 精神障害・脳梗塞との共存

 

『負の連鎖』についての初の投稿になります。

これは、俺自身が体験した事を基に書いてます。
俺自身が体験した事でしか書けません。


『負の連鎖』を簡単に言うと、
俺の病気同様、気がつかないうちに
「悪循環」→『負の連鎖』に繋がっていくものだと感じてます。

『負の連鎖』に気づき、もしこれを「断ち切ろう」とした場合、自分自身の人生を賭けて「断ち切る」覚悟が必要だと思います。
これが、
俺自身、今まで65歳で死ぬという考えにも繋がっている根底です。


俺が、この『負の連鎖』になっていったのを伝えるために、
子供時代まで遡る事が必要です。


ここから、子供時代の話になります。

 俺の生家は、木材業を営み、1960年代の高度経済成長で東京万国博覧会で賑わっていた頃でした。
父や母は、毎日、真っ黒になって一生懸命に働いていました。

小学生であった俺と3歳下で幼稚園に行っていた妹は、家に帰ると、2人で母が用意してくれたおやつを食べ、
小遣いを持って近くの店屋で好きなものを買ったり、近所の子供たちと外で日が暮れるまで遊んでいました。

母は、俺や妹が、学校や幼稚園から帰ってきても、親がいないことに不敏を感じたのか母方の祖母を、たまに
呼んでてくれてました。
家に帰ってから祖母がいると、何か安心感があった事を憶えています。

祖母は家にいて、父や母が仕事から帰ってくる夜までいてくれて、服の綻びを直してくれたり、俺と妹のために
おやつとかを作ってくれて、それを食べながら、うちの家にくる途中で本屋に寄って買ってた絵本を読んで聞くのが
好きでした。
その当時、家には何十冊という絵本がありました。

その絵本の中で、今でも印象があるものとしてグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」があります。

ブレーメンの音楽隊
バーナデット ワッツ,Bernadette Watts,ささき たづこ
西村書店

この絵本は、ご存知の通り、年を取って主人に家を追い出されたロバ、ネコ、オンドリたちが、それぞれの
特長を活かして、協力しながら、泥棒を退治するという話です。
この話を聞き終わってから、
祖母に動物たちは使い物にならなくなると、家を追い出されるの?と聞いたことがあります。
祖母は、そんなことはない。これは、お話だから追い出されたのと言いました。

程なく、父と母は離婚し、俺と妹も離ればなれになりました。家から追い出されたという感じでした。


妹と再会するのは、約25年ほど経ってからという事になります。
再会したときには、約25年という月日は、長いようで短く感じました。
そのとき、お互い、家族を持っていました。

妹とは、いろいろな話をして、
ブレーメンの音楽隊に話が及ぶと、俺は、あの動物たちは、結局ブレーメンには行けなかったんだ。と言うと、
妹から、あの話がなんで、あんちゃんの中に残っているのかわかるよわかるよと言いました。
俺が、なんで?と言うと、
妹は、あの当時は、家族みんなで、何かをする事ってなくて、あんちゃんは、家族で遊びに行ったりする事に
憧れて寂しかったんだよ。と言いました。
おまえは、どうなんだと聞くと、あたしも同じだったよ。と言いました。


ここまでが、子供の頃の、おおまかな話と、妹と再会の話でした。

この中で、
父と母が離婚する前には、
「悪循環」があって、
その「悪循環」が
父と母の離婚によって、「負の連鎖」となっていったと思います。

「悪循環」と「負の連鎖」は気がつかないうちに、そうなっているというのが俺が体感したことです。

どんな家庭にあっても、
「悪循環」→「負の連鎖」となるわけではありませんし、あくまでもこれは、俺が体感したことです。