子らが、今年(2012年)、お盆に帰って来た時の写真を添付しながら、
【自信の『命』を掛け『人生』を掛けられる事。】について、記事を書きます
《俺自身についての話から始めたいと思います。》
俺自身が、生まれ育った環境は、俺にとって良い環境とは、言えないと俺自身、思っています。
1960年代の高度成長期に生まれ、商売をしていたところに、生まれ、物には恵まれていたと
物心付いたときは、そう思っていました。
物心付いたときから、同級生と俺自身が何かが違う。他の家族と我が家は、何かが、違うと漠然と感じていました。
今でこそ、笑い話にしかならないけれども、好きでもない塾に行かせられたり、好きでもない剣道を習わせられたりと
俺自身の考えなどは、取り入れられ無かった感じでした。そのストレスの、はけ口に下に妹がいて、妹を良く泣かせて
いた記憶があります。
また、両親は、夜に、毎晩のように、家に誰かを呼んで、
お酒を飲んでドンチャン騒ぎし、俺と妹は、同じ家の中で、その騒ぎを聴きながら、毎晩、寝ていました。
この頃、良く考えていたのは、俺と結婚する人は、どこにいるんだろうと、考えていました。
小学校、中学校と実家のところで通い、高校は、この頃から、親が不仲になり、親から離れたところに行きたい。
と思い、仙台の私立高校に下宿をしながら入学し通学しました。
親からは、大学に行けよとか言われてて、俺自身、大学に行けるんだと思い、必死に勉強しました。
しかし、高校2年から高校3年になるとき、両親は離婚し、大学には行かせられないと母から告げられた時は、
裏切られたという気持ちになりました。これ以降、勉強はしなくなりました。
(ここまでを負の環境と俺自身呼んでおり、同じ環境を創らない事を負の連鎖を断ち切ると呼んでいます。)
卒業間近になり、母側にいる俺は妹もまだ、高校1年くらいで、どうしたらいいのか。と必死に考え、今は、自らが働くしかないと考え、
当時、風当たりも強かった仙台の自衛隊地方連絡部の門を叩きました。筆記試験を受け、終わった後に、すぐに
採点があり、地方連絡部の方から、なんで、大学とかに行かないんですか?と聞かれました。
なんで、聞かれるのか、聞いたところ、筆記試験は、ほぼ満点で、こんな人間が地方連絡部の門を自ら叩くて
入隊して来る人が、ほとんど、いなかったという話でした。大抵は、地方連絡部(地連)の人が、勧誘して入隊
するのが一般的でした。晴れて、昭和56年3月に18歳で、2等陸士として多賀城第1教育連隊に入隊しました。
この頃の俺は、下っ端の2等陸士として、地面を匍匐前進しながら、普通と呼べる俺自身の[家庭]を創りたい。
と毎日、思いながら、地を這いながら思っていました。
多賀城での新隊員前期を終えてから、新隊員の後期は、親から離れたくて、縁もゆかりもない
現在住んでいる北海道を希望しました。幹部になって自宅を何年か開けた事がありましたが、
この頃から、北海道に30数年住んでおり、生まれ育ったところより長くなりました。
妻と結婚したのは、俺が24歳のときで、今は亡くなった妻の実家の父親との約束で、まだ陸士(自衛隊の中では
アルバイト)だった俺は、陸曹(自衛隊の中では、正社員)になる事を決意し、亡き妻の父親と約束しました。
その約束を果たし、妻と新たな家庭を北海道で持つことになりました。娘が生まれたのは、俺が演習中で山に
籠もっているとき連絡を受け、演習が終わって、そのまま病院に直行し、初めて俺の子どもを見ました。
ず~と見ていても、飽きない、目に入れても痛くない状態で、見ていました。その後、妻に会い、良くやったなと
話しました。息子が生まれたときも、災害派遣のときで、俺の息子が生まれたあと喜びました。
子らが出来たあとは4人家族となりました。
病気が発症するまで、平凡な家庭でしたが、病気が発症してから、病気の苦しさのあまり、自殺未遂をした事も
あり、強制入院や任意入院など繰り返しました。そのときどきで出会った医師や家族を含め俺を支えてくれた
方々がいたからこそ、今の俺があります。感謝しています。
退官ー依願退職
この記事で書いています。→ 『職場と正面から向き合って』最後の日。
このとき、今まで、居させて頂き、ありがとうございます。と言いました。
辞令を受け取ってから、号泣しました。その場に、妻と息子がいました。
30数年勤務した自衛隊生活に終止符のときでした。
病気になってから、健康なとき考えもしなかった事
〇俺は何の為に生きているのだろうか。
〇俺の生きている意味はなんだろう。
〇俺ってどんな人間なんだろう。
という事でした。
細かい事は、このブログの中でも書いてますが、一つの結論として、
[俺のような人間を創らない事]
俺と同じような環境で、育てるのではなく、普通の家庭環境(前に書いた負の環境とは真反対の環境)で子らを育て、
俺のような同じ人間を創らない事だと強く思いました。
これが、[俺が生きている意味]なのです。
病気で、ほぼ毎日、どんなに苦しくても、これがある限り、生き続けられるのです。
そして、
子らが家庭を持ち、孫が出来た時、孫の中に俺が居ないことを確認できたら、俺の役割は終わります。
新たな役割が無い限り、その時点で、自らの身を処すのです。その時点が65歳です。
《妻への想い》
妻を俺から、一日も早く自由にしたいと考えています。妻には、俺が自らの身を処したとき、子らを最後まで見守って
欲しいと話しています。そして、子らには、妻を兄弟力を合わせて、好きな事をさせて欲しいと話し、約束しています。
《娘への想い》
自分が信じた道をこつこつと、進め。と話してあります。俺とは違う人生を送って欲しい。
と話しています。おまえならきっと出来る。自信をもって進みなさい。困った事があれば、
いつでも相談して来いよ。と話してます。
《息子》
いつも話しているけど、男は孤独で、自らの腕1本で勝負しなければいけない。家庭を持ち、おまえが倒れようとも、
妻と子を、這いつくばってでも食べさせるのが男だと何度も、話ました。俺のような、つまらない人生じゃなく、おまえ自身
が自らの力で切り拓いて、楽しい人生を送れ。また、自らの可能性を試してみろ。家がなくなろうとも、俺が納得すれば、
お金は出してやる。節節で、ここは、俺を超えたなと話した。俺を完全に超えたというのは、何度も話したけど、
おまえが、家庭を創ったとき、俺と妻が創った家庭の質以上のものを創ったとき、完全に超えたとき。俺は、その時を楽しみに
して生きる。俺が自らの身を処したとき、兄弟力を合わせて、妻の好きなことをさせてくれ。これも前に話した通り。
どんな事があろうとも、何度も話したけど、兄弟は力を合わせなさい。
子らが今年(2012年)のお盆に帰ってきたとき、家族で買い物に出かけ、
パフォーマーに出会いました。
まだ若く、ず~と見てみました。
終わった後、カンパをし、娘に撮ってもらいました。
この様な、考えで、このブログは、書いています。
俺自身の『命』を掛け『人生』を掛けられる事は、
子らです。
どんな事があろうとも、俺と同じ人間を二度と創らない(負の連鎖を断ち切る。)ため、
今は、生きてます。
これ以外、今の俺に、何が出来るのか分かりませんが、俺の出来る範囲で、若い、これからの方を
応援するのは、出来ると思っています。
日々の拙い、ブログですが、家族の記録ですし、生暖かい目で、見守って頂ければと思っています。
備考
今のHNにした理由については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→今更ですが、使っているHNにした訳
自立については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→『自己完結できる人間』に。
発達障害については、この記事で書いてます(クリックすると飛びます。)→俺の脳は『凹凸』
俺が生まれてきた意味については、この記事で書いています(クリックすると飛びます。)→『座標とコンパス』
生きる事について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→『死』を考える事は『生きる』ことに繋がる
精神障害を持っている俺について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきもりの精神障害者は、本当に弱者か?
引きこもりの精神障害者が生き残る道について書いた記事です(クリックすると飛びます。)→ひきこもりの精神障害者が生き残るには
自分の事や子らや妻の事など家族の事が出来て初めて他の方の事を考えられる記事です→人間は自分が『一番大切』なんだと言う事
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