『職場と正面から向き合って』いた事とは。 #goo_goo37919 http://goo.gl/CCZlK
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寝れない。。。 酒呑んじゃダメだと分かってるけど・・俺みたいな人間が出ないよう願う。メンタルヘルスケア。今回の震災で、切望します。
by Sakurazaka_ on Twitter
明日で、約30年いた職場から完全に離れることになります。
完全に離れる前に、
『職場と正面から向き合って』いた事とは、何かを書きます。
このブログを前から、読んで下さっている方は、もうお分かりかと思います。
『職場と正面から向き合って』=国との戦いでした。
巨大な組織=国です。
職場(国)と正面から何を向き合っていたのか。
それは、
○ 人間は機械や物じゃないという事
○ 隙間の無い組織、制度や規則でがんじがらめになり、機械的にやるのが当たり前だと普通に考えるように
なってしまう人間は、人間じゃ無く「人」になってしまい。やがて「人」は、「組織」と同一化し、すべての物事が
正当化されてしまう。
○ 不当なことであっても、制度だ。規則だ。と言えば、すべてが正当化される。
○ その正当化が、やがて、人間を人へ、そして物へと変えていくのが嫌だった。
こんな、たわいも無い理由で、職場(国)と戦っていたのか。と思われる方もいるでしょう。
精神疾患という病気をきっかけとして、
『俺って何?』から始まり、『何のために生きているのか。』など色々、病気に考えさせられました。
そして、
実際、精神疾患になって体験したのは、
「こんな事では、組織も、そこにいる人間もダメになってしまう。」という想いです。
病気になって、このような病気になった人間が、どういう扱いを受けるかを実際、体験し、行動しました。
行動は、簡単に言えば、
『メンタルヘルスの完全実施と規則化』でした。
それまで、
スローガンで、メンタルヘルスという言葉は、存在してましたが、
精神疾患の人間がいて、その人に、どんな扱いをしようとも、規則などなく、やってもやらなくても同じという状態でした。
「人間として扱って欲しい。」
この1点において、
『メンタルヘルスの完全実施と規則化』に向けて、
職場(国)と正面から向き合い続けました。
こんな事をするのは馬鹿だ。と思われる方もいるでしょう。
3年ほど前に、俺なりに色々調べて、精神疾患になった方のための
「ケアチーム概念図」を職場に提示・説明し、実施してもらうように求めました。
それが、
下の図です。
この図で、外せないと考えたところは、
俺の職場は、『命をかけた職場』であったが故に、
【仲間の絆】は、外せませんでした。
感情的なのかもしれませんが、
『命を危険』があるとこで、「仲間」を見捨てていけないという気持ちがあったからです。
いくら命令とはいえ、そんなことをしたら、俺は人間じゃなくなってしまい、機械になってしまうと
感じたし、そういう俺は、嫌でした。
また、
そういう『命をかけた職場』であるからこそ、
【仲間】意識をもって、大切にしてほしいという、強い願いがありました。
確かに、
《こんな、たわいも無い理由で、職場(国)と戦っていたのか。》
《こんな事をするのは馬鹿だ。》
と思われる方がいても仕方ないし、それに対して、反論もありません。
それは、
書いた通り、俺の強い願い=病気をきっかけとして、人間として扱って欲しい。
そのために、
正面から向き合い続けました。
それも、明日で、終わるのかと思うと寂しい気がします。
今後、「人」ではなくて、「人間」として、
隙間がない社会の中で、どうやったら、「人間らしく」生きられるのかを考え、日々の生活で少しづつ、
実践していこうと思っています。
そして
人間のココロを、大切にしていきたいと思います。
誰に褒められたくて認められたくて、職場と正面から向き合っていた訳ではありません。
「俺という人間の強い願い」
それだけでした。
これを付け加えて、この記事は、終わりにします。
明日1800、辞令を堂々と受け取ります。
とりあえず、「生きて」ます。(生存してます。)
そして、
こんなつたないブログを見に来て頂き、ありがとうございます。
職場と正面から向き合って。④
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悩みに悩んで書いた依願退職願から約2カ月。
この間、
迷いがまったくなかったかと言えば、嘘になります。
本当に辞めていいのかという迷いは、ありました。
今でも、残影のようにあります。
そうは言っても、
6月30日(木)1800に退職の辞令を、俺自身、受け取ります。
今の姿で受け取るのが、俺自身であるし、俺です。
何よりも、節目として、俺自身、逃げずに受け取るのが、いいと思ったからです。
前の記事でも書きましたが、
○自分のため
○子供たちのため
○妻のために
退職を決意したのに、今でも変わりはありません。
「自分のため」は、ともかくとして、
なぜ、
「子供たちのため」
「妻のため」
なのかは、機会を見つけて書きたいと思います。