むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「16」 ⑥

2024年11月10日 08時24分47秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・私の元へ、
経房の君から、
忍びに忍んだ手紙がきた

使者は、

「お返事は要りません、
との仰せです」

と人目を恐れつつ帰ってしまう

手紙には署名はなく、
見覚えのある経房の君の筆跡で、
ただ一行、こうある

「里下りなさるべし」

中宮のおそばにいないほうがいい、
というのだろうか

いいえ、
どんな事態になっても私は、
中宮と運命を共にするのだ

だって中宮がいらっしゃらない所で、
身の安全を計ったとて、
何になろう

それにしても、
この意味はどういうことであろう

中宮のお身にまさか、
さし障りがあるというのでは、
あるまい

私は中宮のお供をして、
職の御曹司には参らず、
梅壺に残っていた

則光に相談するつもりだったが、
そこへ頭の中将、斉信の君の使いが、
来た

「殿がお話があります、
とおっしゃっています」

ということである

私は「御前でお待ちします」
と梅壺の東面にいた

斉信卿が来られた

私は蔀をあけて、

「こちらでございます」

というと、
斉信卿はすばらしいお姿で、
歩んでこられた

「ほかの方々は、
職へ行かれましたか」

「ええ、
みな宮の御前に
わたくしはちょっと局で、
休ませて頂いていたものですから」

斉信卿は声を低められて、

「女院のご病気はご存じですね」

東三条の詮子女院(帝の生母)の、
お具合が悪いことは、
前々から聞いていた

「それも呪詛によるものだ、
という専らの噂です
女院のおられる寝殿の床下から、
いまわしいまじないの、
人がたが掘り出されたとか」

斉信卿がおだやかな表情で、
いわれるので、
遠見の人々は、
私たちが世間話を、
のんびり交わしていると、
見えたであろう

「そんなことが・・・」

私は息を詰めて聞き入る

「まだあるのです
左大臣のお手元には、
密告の動かぬ証拠が、
握られています
伊周(これちか)卿が、
大元師法を行わせられた、
というものです
これは花山院に矢を射かけたより、
重大問題です」

その密教の修法は、
たいそうな秘法で、
国家と主上だけが行うべきもの、
ということは私も聞いている

それを臣下が行ったとすれば、
主上と国家を、
ないがしろにしたことで、
もし、その証拠を握られている、
とすれば、もはや、
伊周の君に弁解の余地も、
残されていない

私は明るい午後の陽光が、
かげってゆくように思われる

「いずれ早かれおそかれ、
罪状の宣命は発せられます」

斉信卿は冷静である
卿がどんなお気持ちを、
伊周ご兄弟に抱いていられるかは、
私には汲めなかった

「少納言
あなたはねえ、
里へ下っていなさい
その方が中宮のおんためでもある」

「どうして・・・」

「もめごとが起きたとき、
中宮さまを外から支える、
お役目の者もいたほうがいい
あまりにもみながみな、
中宮をお守りする空気が強くなると、
むしろあらぬ嫌疑や不幸を、
招きやすい
中宮のおんためには、
わざと距離をとった方が、
反対側の勢力との摩擦を、
やわらげ均衡がとれて、
いいのじゃないかと思う
少納言、
あなたはほかの女房たちより、
男たちとの付き合いが多いのだし、
顔も利くのだから、
あなたでないと、
この役目はできませんよ」

「中宮のおそばから、
距離をとって・・・
その方が中宮のおんため・・・」

私はつぶやいた

斉信卿の言葉は、
わかるようなわからぬような、
しかしそれにしても、
経房の君といい、
斉信卿といい、

「里下りしろ」

と口裏を合わせたように、
いわれるのは、
どういうことであろうか、
よっぽどなにか、
まがまがしいことでも、
起きるというのであろうか

「軽い罪でおさまるはずは、
ないと思いますからね、
それは・・・」

たぶん斉信卿は、
前もってくわしい情報を、
手に入れているに違いない

「あなたのことだから、
まちがいはないと思うが、
進退は慎重になさって下さい
あなたには中立の形を、
とって頂きたい
私は中宮に、
ご同情申し上げています
そのためあなたにあえて、
中立の立場でいて頂きたい
これは純粋に、
政治の次元です」

その夜、
暮れてから私は職の御曹司へ行き、
御前にうかがった

殿上人たちもたくさん詰めており、
女房たちもぎっしり、
御曹司の古い建物のあちこちに、
灯は明るくともされ、
まるで何ごともなく、
故殿ご在世のころそのままの、
花やかさである






          


(次回へ)

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