むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「16」 ⑧

2024年11月12日 08時00分00秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・中宮のお里、
二条北宮へお渡りが近づいたころ、
ふと中宮のお前に、
人のいない時があって、

「少納言は二条へ来るの?」

と仰せになる

「はい、むろん、
お供させて頂きます」

と申しあげると、
考え込む表情をなさって、

「賀茂祭りが過ぎれば、
あなたも里下りをして、
お休みをとればいいわ」

とおっしゃった

私は、
中宮がねぎらって下さったもの、
とばかり考え、
恐縮したが、
則光にいわせると、

「賀茂祭りが過ぎたら、
内大臣たちの罪科が、
決定するだろう」

という世間の噂だそうである

賀茂祭りは国家の大祭なので、
何はともあれ、
それを済ませてから、
右大臣(道長の君)側は、
動きはじめるつもりで、
あろう

それにしても、
中宮はどういうお気持ちで、
私を里下りさせようと、
なさるのだろう

私はその時、
中宮も斉信卿と同じお考えで、
(離れて守ってほしい)
というお心持ちなのかと、
考えた

勿体ないことだけれど、
中宮と私は反応力、感受性も、
相似しているので、
圏外にあって、
いわば留守居役といった、
うしろの守りをして欲しいと、
托されたのではなかろうか、
と思ったりした

二条北宮は、
来てみると、
狼藉の限り乱れていた

中納言の君が、

「去年とは違うのですよ」

といったはずである

邸内に仕える人々が、
あわてふためいて、
家財道具を運び、
逃げていくのだ

馬に乗せ、
牛にひかせ、
目の色変えて、
仕える主人や邸を見捨てていく

中には残りとどまる者と、
いさかう従者もあり、
女房たちも何かにおびえるごとく、
あたふたと去っていく

私たちは顔を見合せ、
黙ってしまった

あれはわずか去年のこと

去年の二月二十日、
積善寺で一切経の供養があるので、
中宮は二月一日にお移りになった

新築の御殿は、
檜の香もすがすがしく、
新しい御簾が青々と、
かけ渡してあった

一年たった今年は、
お邸のうちは荒れ、
ざわめいて、
人々は浮足立っている

庭は造りかけのまま、
うち捨てられ、
遣水も涸れていた

おやさしい父関白さまは、
いられないが、
いまはそのかわりに、
一家の中心で柱になられるのは、
中宮でいらっしゃるらしかった

中宮がお渡りになるというので、
尼になっていられる、
母君・貴子の上、
兄君の内大臣・伊周(これちか)どの、
弟君の隆家中納言、
さらには中宮より早く、
内裏を退出された妹君たちが、
お集りになっていられるらしい

ご一族のお内輪話は、
聞こえるはずもないが、
早耳の右衛門の君の、
もたらした噂では、

「仏神のおたすけを願うばかり」

というので、
夜ひる、誦経のお声は、
絶えることがない

夜、私と右衛門の君が、
割り当てられた部屋で臥していると、
あたりをはばかって、
若い女の声がする

「まことに失礼ですが、
前にこの部屋を頂いて、
お仕えしていた者ですが、
忘れ物がございます
ちょっとごめんなさい」

というではないか

私は右衛門の君と顔を見合せ、
ふき出しそうになる

私が妻戸を開けると、
まだほんの少女、
十二、三くらいの子がいて、
お辞儀をする

子供ではしょうがないので、
入れてやる

見苦しくない少女である

部屋の隅の二階厨子の、
まん中の棚に、
古ぼけた香炉があったのを取って、
さっさと、

「これでした
失礼しました」

と出ようとする

眠りを覚まされた右衛門の君は、

「そのお香炉、
ここのお邸のものじゃなく、
あんたのご主人さまのもの?」

「はい
まちがいありません」

少女は咎められたと思ったらしく、
急いで返事をして、
唇をとがらす

右衛門の君は、

「どうしてあんたのご主人さまは、
おいとまをとったの?
お邸の方々がまだいらっしゃるのに、
ひと足先に逃げ出すって、
どういうわけ?」

と意地悪くいう

「だって、
みんな逃げましたよ
いまにここへ検非違使のお侍が、
いっぱい来るって噂ですもの」

「へえ・・・」

「火が出るって、
ご主人さまは怖がっています
ご主人さまはご老女で、
怖がりなんです
検非違使が来た邸は、
あとできっと火が出て、
焼け落ちてしまう、
というのですよ
それで五条の娘さん宅へ、
逃げたんです」

少女が出ていくと、
さすがの右衛門の君も、

「なあに、あれ・・・」

と苦笑いをする

「御方(貴子の上)さまに、
仕えていた女房なのかしら、
あの子のご主人って」

「ご老女といえばそうじゃない?」

弁のおもとが生きていれば、
ご老女と呼ばれていたろうか

でも、弁のおもとは、
こんな目にあわなくてよかった

あの人ならば、
貴子の上や中宮ご一家とともに、
どこまでも踏みとどまったであろう

「ほんとに、
このお邸が、
そんなことになるのかしら?」

私はまだ信じられない

「里下りなさるべし」

という経房の君の警告は、
このことを指すのであろうか

「でもあたしは、
検非違使に囲まれて火が出る、
なんてことになっても、
決して出ていかないわ」

右衛門の君は、
淡々としていう

「あたしなら踏みとどまるわ」

私は思わず、
右衛門の君の顔を見る

皮肉屋で底意地の悪いこの女、
本心はやはり、
中宮への愛と忠実を抱いて、
それだけをみつめて、
複雑な世をさわやかに、
生きようというのだろう

中宮だけを信じて・・・

「じゃ、
少なくとも二人になったわ
いざというとき、
中宮をお守りする楯となるのは
実はあたしもそう思っているのよ
あたしも、
どんなことがあっても、
中宮をお守りし、
お慰めしようと思ってるの」

私は息が弾むのをおぼえる

中宮に対する、
純粋な気持ちの人間だけが、
残ったほうがいい

「あら、
あたしはあんたと違うわ」

右衛門の君は、
面倒くさそうにいう

「面白いからよ、
誤解しないでね」

「面白いって、何が」

「千載一遇の機会じゃありませんか
世の中がいっぺんに、
変ってしまう現場に立ち合う、
なんて
これは歴史的現場だわ」

「・・・」

「むろん、
あたしも中宮さまびいきだわ、
あんたほどじゃないけれど」

右衛門の君は笑うが、
口元の表情が美しいので、
嫌味ったらしさはずいぶん、
緩和されていた

そして私も、やはり、
この目で見たいという欲が、
ないとはいえない






          



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