「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、浮舟 ⑥

2024年07月02日 08時37分20秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・女房たちが起きだしてきたので、
右近はいった

「薫の君は、
ちょっとした事情がおありで、
人目を避けていらっしゃる
道中で怖い目にお会いなすった、
ということで、
お召し物など夜になって、
こちらへ持って来るようにと、
仰せられたのです」

「まあ、気味の悪いこと、
いつものように、
お前駆払いもおさせにならず、
お忍びでいらしたことでしょうに、
それは大変でした」

女房たちが驚いて、
声高になるのを右近は制して、

「下々の耳に入ったら、
うるさいことになってよ
ここだけの話よ」

といいつつ、
大きい秘密を抱えて、
右近は気が気でなく、
こんな時、あいにく、
薫の君のお使者でも来たら、
何といおうか

(初瀬の観音さま、
どうぞ今日一日、
無事に過ごさせて下さいまし)

大願をかけずにいられない

今日は浮舟を、
石山詣でをさせようとして、
母君が迎えの車を寄越すことに、
なっていた

浮舟の周りの女房たちもみな、
お詣りにそなえて精進していたのに、

「薫の君さまが、
おいでとあれば、
姫君もお出かけになれますまい
残念なことです」

などといっていた

日が高くなったので、
寝殿の格子など上げて、
右近一人がお側で世話をしていた

母屋の簾には、
「物忌」と書かせた紙を、
付けてある

もし母君が自身迎えに来た時は、
夢見が悪かったので、
という口実で母君にも会わせない算段

浮舟は薫に仕えるのと同じように、
宮が洗面なさるのを、
お介添えしようとした

「どうしてそんなことをする?
あなたは召使いではない
私の用をしなくていい
あなたは私の愛する人
あなたが先にお洗いなさい
私はそのあとで」

浮舟は涙ぐんだ

(なんておやさしい方
わたくしを対等に扱って下さって)

浮舟は昨夜からの、
気持ちが変っていった

無体な、
と昨夜は気も動転したけれど、
いつか知らず心も、
あけぼのに染まっていった

みるみる宮に傾斜する、
自分に気づく

薫の端正で一分の隙もない、
物静かな貴公子ぶりに慣れて、
男はこういうものと、
浮舟は思っていた

なのに、
物狂おしく自分を求める宮の一途さ、

(こんな男性もいらっしゃる
これこそ深い愛情というもの)

浮舟の心はあやしく乱れる

それにしても、
なんと不思議な身の上であろう

二人の男性に、
愛される身になろうとは

しかも宮は、
わが異母姉君の夫である人

薫の君も中の君も、
このことを聞かれたら、
どう思われるであろう、
浮舟は消え入るようであったが、
薫よりも中の君のことが、
まず思われる

宮は浮舟の、
そうした心の葛藤をご存じないので、

「あなたが素性を明かして、
下さらないのは情けない
ありのまま、おっしゃい
たとえあなたが、
どんな低い身分であっても、
あなたをいとおしく思うだろう」

しつこくお問いになるが、
浮舟は口をつぐんだまま

どうして中の君の異母妹と、
打ち明けられよう

日が高くなって、
京から浮舟を迎える人々が、
やってきた

牛車が二輌、
馬に乗った例の荒々しい男たち、
七、八人
それに供の者も多く、
がやがやとなまりの多い言葉で、
しゃべりちらしつつ、
邸内へ入ってくる

右近は迎えの人々を、
追い返す言い訳に苦慮していた

薫の君がおいでになるから、
というのはたやすいが、
薫大将が京にいられるか、
留守にしていられるかは、
自然に知れ渡っているだろうし、
嘘をついてもすぐばれる

と思って、
他の女房たちに相談もせず、
独断で母君に返事を書いた

「昨晩から月の障りになられて、
お詣りが出来なくなられたのを、
残念なこととお嘆きのご様子、
また昨夜の夢見が、
お悪かったので、
今日一日はお慎みなさいませ、
と申し上げまして物忌に、
籠っておられます」

そういう手紙をことづけ、
迎えの人たちに食事をさせて、
京へ帰した

廓に住む尼君にも、

「今日は物忌で、
姫君は京へいらっしゃいません」

といわせ、
尼君の訪れを封じる





          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 10、浮舟 ⑤ | トップ | 10、浮舟 ⑦ »
最新の画像もっと見る

「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳」カテゴリの最新記事