・私たち物書き仲間が集まると、
誰いうとなく、出てくる話題に、
言葉の誤使用例の報告がある。
私もまちがうこともあろうから、
大きなことはいえないが。
ともかく、この節はやたらマチガイが多くて、
話していると皆々気が滅入り、
<キリないから、この話はやめとこ>
ということになる。
私の文壇デビューは昭和三十九年であった。
その頃は、新聞社も出版社も、その他も、
一糸乱れずピシッとなっていて、
(時々のあやしき流行語は生まれたものの)
ヘンな日本語はきちんと淘汰排除されていた。
それが昭和四十年代半ば以降から、
巷の印刷物に妙な言葉があふれ出したように思う。
お目付役の長老たちが世を去ったからだろう。
化粧品会社のパンフレットに、
「暑さの夏が近寄ります」
(「近付きます」だろう)、
週刊誌に、
「土器がうようよ出た」
(「ぞくぞく」が適切であろう)
アッという間に、ヘンな宛字、
言葉の誤使用が、もう歯止めがきかないという感じで、
世の中へ散っていった。
いま印刷物でよく目にする誤りは、
「馬子にも衣装」を「孫」と書くもの。
粗衣の馬方さんでも、
見事な衣装をまとえば立派に見える、
ということで、孫では話が通じない。
「いやしくも」と「いみじくも」も、
よく混同される。
<君はいみじくも部長ではないか>
と上司にけん責される小説のシーンがあった。
これは「いやしくも」のつもりだろう。
「いやしくも」は「仮にも」、という意味、
「いみじくも」は「立派」、などという場合。
「なおざり」「おざなり」を混同する例も多い。
「なおざり」(等閑)はおろそかにする、
きちんと対応せず、無責任、などという意味、
「おざなり」はその場しのぎのつくろいですます、
うわべだけ粉飾糊塗する、
よく似ているが、微妙にニュアンスが違う。
「針もの」という造語にも一驚。
これは古来からの針仕事という言葉と、
縫い物という言葉を拉し来たって合成したのであろうが、
こんな日本語はない。
言葉が貧しくなるとそれにつれて、
言葉でたのしむ、言葉遊びの面白さも忘れられていく。
私はあるところへ、
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中の地口を紹介した。
弥次・北が日永の道中の退屈しのぎになぞなぞを考え合う。
北八がいう、
<おいら二人の国所(出身地)とかけて、何と解く>
この答えは、豚が二匹、犬が十匹である。
そのこころは、
<ぶた二ながら、きゃん十(とお)もの>
(二人ながら関東者)
私はこの地口が好きだが、
どういう意味かと真剣に聞く若者あり。
ぶた二、きゃん十を噛んでふくめるように教えると、
それでわかったが、そのどこがおかしいのかと問う。
地口、駄洒落、語呂合わせ、
を楽しみ合う言葉文化は対面社会のもので、
機械や映像に囲まれた現代の若者から、
失われたのであろうか。
地口とは、
世間でよく使われることわざや成句などに
発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯。
「下戸 (げこ) に御飯」(猫に小判)などの類。
上方では口合いという。
(ネット検索より)
恥ずかしながら、私も知りませんでした。
(次回へ)