「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

44番、中納言朝忠

2023年05月15日 08時29分46秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし>


(あのひととの恋の機会が
全くなかったならば
かえってあのひとを恨んだり
自分を辛がったりすることも
なかったろうに・・・
なまじ一度の愛の時間を持ったばかりに
いや増し募る ぼくの苦しみ)






・『拾遺集』巻十一・恋の部に、
「天暦の御時歌合わせに」として出ている。

朝忠のこの歌に番えられたのは右方の藤原元真の、

<君恋ふと かつは消えつつ 経るものを
かくても生ける 身とやみるらむ>

(あなたが恋しくて
私はほとほと消え入りそうな状態なのに
これでもあなたは私を生きていると
ごらんになるのですか)

この判定は、朝忠の歌が勝ちとなり、
これは朝忠の代表作となった。

この歌は「恋」という字が一つもないのに、
恋歌となっているので、
その点からも古来、引用例にされて有名。

王朝の恋はそれぞれ型が決まっていて、
「忍恋」、「未だ逢わざる恋」、「逢うて逢わざる恋」の例。

「逢う」は「恋の時間を持つ」ということの婉曲表現だから、
ひとたびは機会を持てたのに、
あと、なかなかそのチャンスが来ない、という状況が、
「逢うて逢わざる恋」であろう。

元真の歌は、つねに言葉遊びに堕する点がある。
それに反して、朝忠の歌はしらべが流麗で、
言葉選びがすっきりしている。

朝忠は三十六歌仙の一人。

右大臣定方(25番の「さねかづら」の歌の作者)の子。
順調に出世して、中納言に至ったが、
康保三年(966)五十七歳で没した。

朝忠の歌でいえば、
朝忠が中将だったとき、ある人妻に恋をした。

女も浅からぬ気持ちで朝忠を愛し、
人目を忍びつつ二人の仲はずっとつづいた。

そうこうするうち、
女の夫が地方長官に任ぜられ、
その国へ下ることになった。

女も国守の北の方として、
夫に従って旅立たなければならない。

それは朝忠との別れを意味する。

朝忠も女も、その別れをしみじみ悲しく思った。
しかしどうすることもできない。

朝忠は女が一行と任地へ下るという日、
ひそかに女に贈った歌が、

<たぐへやる わがたましひを いかにして
はかなき空に もてはなるらむ>

(わが魂はいつもあなたのおそばにあった
それをふり捨て どうしてあなたは
心細い旅の空へ 離れていらっしゃるのですか)

この哀切なしらべは、
朝忠の恋が本物であったらしいと思わせる。

この朝忠の歌を知って紫式部は、
六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)に、
伊勢へ去られた源氏の君を設定したのではないだろうか。

源氏の愛がさめたことを知った御息所は、
斎宮の姫に従って伊勢へ下る。

源氏は見送りに行くのも、
世間体悪く、邸にこもって物思いに沈む。

御息所の一行は、内裏へおいとま乞いをしたあと、
源氏の邸の前を通ることになる。

去りゆく恋人に、源氏は歌をおくるのである。

<ふりすてて 今日はゆくとも 鈴鹿川
八十瀬の波に 袖はぬれじや>

(私をふり捨ててあなたは出立してゆく。
でも鈴鹿川を渡るとき、川波に袖をぬらさぬであろうか、
私のことを思って、泣かれるのではありませんか)

ちなみに朝忠が中将であったのは、
四十一、二歳のころ、「逢ふことの・・・」の歌を、
歌合わせでよんだのは、彼が五十一のときだった。

されば、一つの恋、一つの思い出をさすのではなく、
人間の生涯をほとんどをかえりみての、
彼の述懐だったのかもしれない。






          


(次回へ)

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