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<あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな>
(ぼくのことを
しみじみ思ってくれる人は
もう いやしない
君に捨てられたいまは
ぼくはこのまま なすすべもなく
ああ ただむなしく
こがれ死にに
消えてゆくのか)
・『拾遺集』巻十五恋に、
「物いひ侍りける女の後につれなくはべりて
さらにあはず侍りければ 一条摂政」
として出ている。
愛し合っていた女が、
心変わりして冷たくなり、
しまいには会ってもくれなくなった。
これはその男の傷心の歌である。
この歌の「思ほえで」、
これは思われないで、思い当たらないで、
という意味。
「身のいたづらに」の「いたづら」は、
悪ふざけやわるさではなく、
期待しただけのこともない、という状態。
むだなこと。
「なりぬべきかな」は、
なりそうです、なってしまいそうです、という意味。
女に捨てられて、
会ってももらえなくなって、
としょげ返って女の同情を引くという、
たいそう女々しい、やさ男の歌である。
男のプライドも面目もかなぐり捨てた、
純情一途の恋である。
それは、のちに威勢をふるった、
一条摂政・藤原伊尹(これただ)の若い日の姿である。
謙徳公というのは死後のおくり名である。
伊尹は短命であったが幸運の人であった。
大臣の師輔(もろすけ)を父に持ち、
大貴族の家の御曹司として順調に出世していく。
父や一門の長老亡きあと、
伊尹はついに大臣・摂政となる。
円融帝の伯父、東宮(花山)の祖父で、
天下の後見役である。
摂政となって三年、
これからというとき、天禄三年(972)四十九歳で没。
伊尹は若いときから美男でならした男で、
学才もすぐれていた。
何もかもあまりに多くの幸運を与えられたので、
寿命だけが不足したのだろうと、
当時の世間の人にいわれている。
豪宕な性格で、派手好きだった。
ぜいたくで華美なものが大好きで、
それも成金趣味ではなく、
彼一流の美意識による嗜好を主張した。
父の師輔は、息子のぜいたく好みを案じた。
その心配はすぐ事実となった。
師輔は遺書の中で薄葬を命じたが、
伊尹は<そんなことできるもんか>とばかり、
世間並みに仰々しい葬儀を行ったのである。
世間の人は、
親の遺言にそむいたから短命だったのだ、
と噂したが、伊尹の美意識が強かったせいであろう。
邸でパーティを催すとき、
寝殿のひさしの裏板や壁が黒ずんでいるのを見つけ、
急に思いついて、陸奥紙を一面に貼らせた。
予想以上の効果をあげ、
白く清げに見えたと『大鏡』にある。
この人の孫にあたる花山天皇も、
なでしこを築地に咲かせたり、
桜を門の外に植えさせたり、
優美なセンスの持ち主だった。
また孫の一人の行成は、
史上に残る書道家である。
伊尹には芸術家の素質があったのであろう。
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(次回へ)