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<あひみての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思はざりけり>
(やっと きみがぼくのものになった
ところがどうだ
よけい苦しみが増し
物思いが多くなった
不安 嫉妬 独占欲・・・
ぼくは新しい苦しみをさまざま知った
この苦しさにくらべれば
きみを得たいとひたすら望んでいた
昔のぼくの物思いなんて
実に単純で底が浅かった)
・この作者は以前に紹介した、
38番の右近の恋人である。
右近は敦忠の心変わりを怨じて、
「わすらるる~~」という歌を彼に贈っている。
しかし敦忠のこの歌は右近にやったものかどうかは、不明。
『拾遺集』巻十二・恋に「題知らず」として出ている。
作者の敦忠は歌人としても音楽家としても有名だったが、
三十八で死んだ。
この一族はみな若死にである。
父の左大臣時平は三十九で死に、
兄・保忠、それに敦忠の姉、その夫の保明親王もみな、
若くして死ぬ。
三歳で東宮に立たれた保明親王の御子も五歳で亡くなられる。
これらはみな、時平が菅原道真を失脚させたせいだ、
と世間には思われていた。
道真は配所の筑紫で恨みをのんで死んだが、
その恨みがこの一族にたたるのだと、
信じられていたようである。
敦忠の妻はさきの東宮、
亡き保明親王の夫人の一人だった。
若い敦忠は親王とこの夫人の恋の文使いをしていた。
親王が二十一のお若さで亡くなられたのち、
夫人は敦忠と再婚した。
二人の仲はむつまじく、
妻を「限りなく」思いながら、
あるとき妻にこういった。
<ぼくの一族はみな短命だから、
ぼくもきっと若死にすると思う。
あなたはぼくの死後文範(ふみのり)と結婚するんだろうな>
文範は邸の家令を勤め、そのころ播磨守であった。
妻はあらがって、
<考えられませんわ、私が文範となんて>
<いや、まあ、まちがいないね>
自信ありげに敦忠はいった。
彼の死後、その予言は真実になったと、
『大鏡』には書いてある。
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(次回へ)