<花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり>
(花をさそって吹きしきる嵐
庭には 雪のような落花
降りゆくものは
雪ではない
そうだ この身なのだ
古(ふ)りゆくものは・・・)
・『新勅撰集』は、
定家が若き後堀河帝の仰せで、
撰進した歌集である。
天福二年(1234)の成立。
この歌は、その巻十六の雑に、
「落花を詠み侍りける 入道前太政大臣」
として出ている。
藤原公経(きんつね)のことである。
(1171~1244)
庭の落花を浴び、
立ち尽くして老いを感じている、
老人の姿が浮かぶ。
そういう図柄は平凡であるが、
私は落花の雪というイメージが好きで、
この歌、わるくないと思っている。
公経の経歴は、
鎌倉期の動乱時代に生きながら、
最後の王朝の栄華を一身に具現して、
七十四歳の長寿を保ったという幸運児である。
この時代、
京都の貴族が時めくというのは、
鎌倉側の庇護と支援があるからである。
公経は鎌倉側と閨閥関係から親しかった。
彼の妻は、
頼朝の妹婿、一条能保(よしやす)の娘である。
反鎌倉派の後鳥羽院には疎まれたが、
承久の乱では鎌倉方に通じたので、
乱ののちは大いに権勢をふるうことになった。
西園寺を北山に建て、
自身、その寝殿に住んだ。
西園寺家というのは彼からはじまる。
善美をつくした寺で、
安置された仏像も見事で、
僧たちの法衣もかがやくばかり。
道長の建てた法成寺も立派だったが、
それよりこの西園寺の方が、
「都はなれて眺望そひたれば、
いはんかたなくめでたし」
とある。
太政大臣に登り、
むすめの婿の道家は関白、
孫娘は後堀河帝の中宮、
鎌倉の将軍に据えられた頼経も彼の孫。
公経は婿の九条道家と並んで、
政界の大立者となった。
承久の乱後の京都政界は、
公経によって再編成、統一された。
ただしそれは、
昔の道長のように、
全天下の富と権力を一身にあつめた、
というものではなかった。
公経の権威は、
背後の鎌倉幕府あってこそのものだった。
この時代を境に、
京の天皇と貴族は、
シンボルとしての存在になってゆく。
軍事力なき、
権威の象徴である。
だからこそ、
その後も、何百年も生き残れた。
日本の皇室のユニークなありかたは、
日本が国際的緊張の中で生き残ってゆく際の、
一つの示唆である。
さて、この西園寺だが、
いま京都の上京区高徳寺町にあるのは、
公経の建てたそれではない。
公経の創立した寺は、
衣笠山のふもとであった。
そう、いまの金閣の地である。
この寺は、
のち西園寺家の衰微とともにおとろえ、
市中へ移転した。
その跡地を、
足利義満が譲り受け、
鹿苑寺を建てたのであって、
金閣の地は由緒ある地なのである。
定家は、
妻が公経の姉だったため、
大いに西園寺家の庇護を受けた。
後鳥羽院の勘気にふれて、
逼塞窮乏していた定家が、
承久の乱後、
めきめきと家運を盛り返して、
羽振りがよくなるのも、
西園寺家や九条家という彼のパトロンが、
威勢よくなったためである。
その縁で鎌倉方とも交渉があり、
将軍実朝の歌の先生ともなったのであった。
(次回へ)