「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

98、従二位家隆

2023年07月08日 08時21分16秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<風そよぐ ならの小川の 夕暮は
みそぎぞ夏の しるしなりける>


(風が楢の葉をそよがせる
ここ 上賀茂のみ社の
神々しい「ならの小川」よ
風のそよぎも
川のせせらぎも
夕暮の涼しさは
さながら はやい秋
けれどならの小川で
みそぎをするのを見れば
いまはまだ夏なのだ)






・この歌も情景を知らないときは、
全く意味のわからぬ歌であった。

子供の私は「ならの小川」を、
奈良に流れている川だと思っていた。

その川で人々が水浴びでもしているように思い、
涼しげな歌だと、
気に入っていたのであった。

「ならの小川」は、
上賀茂神社の境内の奥に流れる、
浅い清らかな川である。

京都へ行かれた人は、
上賀茂神社へお詣りし、
この清らかな流れの風情を楽しまれるがよい。

昔、境内に奈良社という社があって、
その前を流れるから「ならの小川」といった。

ふさふさした木々が陽光をさえぎって、
涼しい木陰を作る。

京に田舎ありというけれど、
ほんとうに深山のおもむきである。

この川で古い昔から、
「夏越しの祓」が行われた。

陰暦六月のみそかに、
人々の罪やけがれを祓う神事である。

その神事のために水をかぶるのを、
「夏越しのみそぎ」という。

私はまだ見ていないが、
現代でも六月の終りとなれば、
ここで夏越しの神事があるという。

ただ昔は陰暦であるから、
六月終りとなれば現代の八月十日過ぎ、
そろそろ夕風にひややかさが加わる。

夏越しの祓という夏の神事だけは、
夏のものだが、という歌のこころである。

この歌は「屏風歌」である。

『新勅撰集』巻三・夏に、
「女御入内の屏風に 正三位家隆」
として出ている。

藤原家隆(1158~1237)は、
「かりゅう」とよまれることが多い、
定家と並び称される歌人で、
定家より四歳年長、俊成に歌を学んだ。

後鳥羽院に愛され、
院の隠岐配流後も音信を絶やさなかった。

彼の歌はわかりやすく品がよく、
しらべが高い。

定家と家隆、
同時代のライバルであったが、
お互いに認めあい、尊敬していた。

寛喜元年(1229)、
藤原道家のむすめ、尊子が、
後堀河天皇の女御として入内した。

その時のご婚礼道具の一つに、
屏風をお持ちになる。

屏風に絵と歌が書かれる。

その三十六首の歌は、
当代の歌人が、
それぞれのテーマを受け持ってよむが、
晴れの屏風歌の作者に選ばれることは、
大変な名誉であった。

家隆このとき、すでに七十二歳。

彼は温厚な性質の人であった。
そしてこの時代に珍しく長生きであった。

晩年、難波に移り住んだ。
大阪にゆかり深い歌人である。

嘉禎二年(1236)、
病にかかって出家した。

七十九であったが、
阿弥陀如来を信仰していた。

浄土教の教えでは、日想観といって、
彼岸の落日を拝むと、西方浄土を、
目の当たり拝むことが出来るという。

難波の上町台地からながめると、
波の上に落ちる夕日が見事だったのだろう。

家隆は小さい庵をむすんで、
「夕陽庵(せきようあん)」と名づけた。

それからその辺りは落日の美景の名所となり、
夕陽丘(ゆうひがおか)とよばれた。

いまの大阪市天王寺区夕陽丘町、
伶人町、四天王寺のあたり。

家隆の塚がある。






          


(次回へ)

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