・夜が明けると、
常陸介の邸から迎えの車が来た。
介からの伝言では、
大層立腹しているらしいので、
北の方はとりあえず帰ることに。
中の君に浮舟のことを、
くれぐれも頼んで出る。
浮舟も母と別れ住むのは、
はじめてのことで、
心細く不安であったが、
現代的で楽し気なこの邸の空気に、
若い娘らしく胸が躍るのであった。
北の方が車を引き出すころ、
空は少し明るんでいた。
そこへ匂宮が内裏から、
ご退出なさってきた。
お車など目立たぬように、
帰って来られた。
ばったりと出合わせたので、
北の方は車を控えて、
止っていると、
宮は中門の廓にお車を寄せられて、
お下りになる。
「誰の車だ。
暗いうちに急いで帰るのは」
とお見咎めになる。
北の方の供人が、
「常陸殿が退出されます」
といったので、
宮のご家来衆が吹き出した。
遠慮もない軽侮の笑い声を、
北の方は悲しい気持ちで聞いた。
身分の違いを今さらのように、
思い知らされて、
それもただ、
娘のためなのだった。
北の方は自分も、
人並みの身分になりたかった。
まして浮舟を、
平凡な低い身分の男と、
結婚させるなんて、
(とんでもない、
惜しいこと、絶対に・・・)
北の方は気高い薫や匂宮、
いつしかその横に、
添い立つ浮舟を想像する。
宮は部屋へ入るなり、
「常陸殿という人を、
ここに通わせているのか?
いかにもわけありげに見えた」
もしや薫ではないか、
という嫉妬の妄想を、
お捨てになりきれぬ。
「あのひとは、
大輔などが若かったころの友達。
濡れ衣を着せるようなことは、
おっしゃらないで」
夕方、宮が中の君の西の対へ、
戻っていらっしゃると、
中の君は洗髪中だった。
女房たちもめいめい休息をとって、
局に下ったりして、
お居間には誰もいない。
若君もおやすみになっていて、
宮は所在なさにあちこち歩いて、
西の方の部屋に見なれない女童が、
見えたのを、
新参の者かと思われて、
ふとお覗きになる。
中ほどにある襖が、
細めに開いたすき間から、
ご覧になると、
襖のの向こうに屏風を立ててある。
その端に几帳を簾に添えて、
立ててあった。
几帳の帷子が一枚、
横木にうち掛けてある。
花やかな織物が重なって、
その袖口が出ていた。
女がいるのか?
(新参の女房か。
卑しからぬ身分のようだな)
宮は襖をそっと押し開けられて、
歩み寄られたが、
向こうにいる女は知らない。
それは浮舟であった。
宮は中ほどの襖も、
更に押し開けられて、
屏風の端から覗かれる。
その気配に浮舟は、
中の君付きの女房かしら、
と身を起こした。
その姿はまことに美しい。
いつもの好色心から、
宮はお見過ごしになれない。
衣の裾をとらえ、
一方の手で入って来られた、
襖を閉められて、
屏風との間にお坐りになる。
(あら?)
扇で顔をかくしたまま、
ふり向いた女の姿は美しかった。
「あなたは誰だ?
名が知りたい」
浮舟はおびえてしまった。
宮は屏風に身を寄せられ、
お顔を隠していられるので、
浮舟こそ、
(どなたかしら?
熱心にわたくしを望まれる、
薫さまなのかしら)
と思うと、
動転してしまって、
どうしていいかわからない。
浮舟の乳母が、
常ならぬ人の気配がするので、
あちら側の屏風を押し開けて、
やってきた。
そうして、
この場の状況を見るなり、
叫びたてた。
「これは一体、
どうしたことでございます」
乳母の制止などで、
引き下がる宮ではない。
お邸のあるじであり、
誰に遠慮なさるはずもなかった。
ふとした出来心の、
おたわむれなのに、
お口上手なご本性とて、
巧みにお言葉を連ねられる。
その大胆放恣な、
くつろいだお姿に乳母は、
(宮さまなのだ)
と思い当たり、
言葉もなく呆然としてしまった。
「そろそろ、
お戻りになります」
女房の声がするのは、
洗髪を終わった中の君のこと。
中の君の部屋以外の、
格子を下ろす音がする。
普段は使われていない、
高い棚厨子一対を立て、
屏風を所々に立てかけてある、
物置風に雑然としたところ。
それがこの頃、
浮舟一行が逗留している、
というので通り道の襖を、
一間開けてある。
そこから女房がやってきた。
右近といって、
大輔の娘でやはり、
中の君に仕えている。
格子を下ろしてこちらへ来る。
「まあ、暗いこと。
あかりをお持ちしていませんでした」
とまた、
格子を上げようとするので、
宮は(わるい所へ来た)
と困ったと思われる。
それより困り果てているのは乳母、
これは遠慮もなく、
せっかちで気の強い女なので、
右近が来たのを幸いと、
救いを求めた。
右近は手探りで寄ってきて、
浮舟の側に添い臥しているのを見た。
(あ)
右近はすぐ察しがついた。
(例の宮さまの、
悪いお癖が出たわ。
とてものことに浮舟さまが、
同意の上とは思えない)
と推量されたので、
乳母にささやく。
「ほんとにみっともないことで、
ございますが、私が宮さまに、
どう申し上げようもございません。
すぐあちらへ参上して、
御方さまのお耳に入れます」
といって立った。
何とも体裁の悪いことになった、
と誰も思っているが、
宮お一人はびくともなさらない。
名も知れぬ、
謎の美女に夢中になっていられる。
右近は中の君のもとへ行き、
見たことを告げた。
「まあ・・・
何ということ。
いつものよからぬお癖ね」
中の君はつくづく情けなく、
浮舟がどんなに錯乱しているで、
あろうかと思う。
といってどうしていいものやら、
荒らかに踏み込むのも、
はしたなく、
面と向かって宮をなじるのも、
むくつけき仕打ちであろう。
二人して、
事のなりゆきに胸を痛めていると、
折しも内裏からお使者が参上し、
后の宮が夕方から、
お胸の痛みで苦しんでいられる、
ただ今、
大層ひどくお苦しみになっている、
とのこと。
右近はこれ幸いと、
宮のもとへ参って、
お使いのいうより、
もう少しだけご病状が、
進んでいるように誇張して、
申し上げる。
宮はそれぐらいでは、
お動きになりそうもないご様子。
(次回へ)