むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

9、東屋 ⑧

2024年06月19日 08時45分06秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・夜が明けると、
常陸介の邸から迎えの車が来た。

介からの伝言では、
大層立腹しているらしいので、
北の方はとりあえず帰ることに。

中の君に浮舟のことを、
くれぐれも頼んで出る。

浮舟も母と別れ住むのは、
はじめてのことで、
心細く不安であったが、
現代的で楽し気なこの邸の空気に、
若い娘らしく胸が躍るのであった。

北の方が車を引き出すころ、
空は少し明るんでいた。

そこへ匂宮が内裏から、
ご退出なさってきた。

お車など目立たぬように、
帰って来られた。

ばったりと出合わせたので、
北の方は車を控えて、
止っていると、
宮は中門の廓にお車を寄せられて、
お下りになる。

「誰の車だ。
暗いうちに急いで帰るのは」

とお見咎めになる。

北の方の供人が、

「常陸殿が退出されます」

といったので、
宮のご家来衆が吹き出した。

遠慮もない軽侮の笑い声を、
北の方は悲しい気持ちで聞いた。

身分の違いを今さらのように、
思い知らされて、
それもただ、
娘のためなのだった。

北の方は自分も、
人並みの身分になりたかった。

まして浮舟を、
平凡な低い身分の男と、
結婚させるなんて、

(とんでもない、
惜しいこと、絶対に・・・)

北の方は気高い薫や匂宮、
いつしかその横に、
添い立つ浮舟を想像する。

宮は部屋へ入るなり、

「常陸殿という人を、
ここに通わせているのか?
いかにもわけありげに見えた」

もしや薫ではないか、
という嫉妬の妄想を、
お捨てになりきれぬ。

「あのひとは、
大輔などが若かったころの友達。
濡れ衣を着せるようなことは、
おっしゃらないで」

夕方、宮が中の君の西の対へ、
戻っていらっしゃると、
中の君は洗髪中だった。

女房たちもめいめい休息をとって、
局に下ったりして、
お居間には誰もいない。

若君もおやすみになっていて、
宮は所在なさにあちこち歩いて、
西の方の部屋に見なれない女童が、
見えたのを、
新参の者かと思われて、
ふとお覗きになる。

中ほどにある襖が、
細めに開いたすき間から、
ご覧になると、
襖のの向こうに屏風を立ててある。

その端に几帳を簾に添えて、
立ててあった。

几帳の帷子が一枚、
横木にうち掛けてある。

花やかな織物が重なって、
その袖口が出ていた。

女がいるのか?

(新参の女房か。
卑しからぬ身分のようだな)

宮は襖をそっと押し開けられて、
歩み寄られたが、
向こうにいる女は知らない。

それは浮舟であった。

宮は中ほどの襖も、
更に押し開けられて、
屏風の端から覗かれる。

その気配に浮舟は、
中の君付きの女房かしら、
と身を起こした。

その姿はまことに美しい。

いつもの好色心から、
宮はお見過ごしになれない。

衣の裾をとらえ、
一方の手で入って来られた、
襖を閉められて、
屏風との間にお坐りになる。

(あら?)

扇で顔をかくしたまま、
ふり向いた女の姿は美しかった。

「あなたは誰だ?
名が知りたい」

浮舟はおびえてしまった。

宮は屏風に身を寄せられ、
お顔を隠していられるので、
浮舟こそ、

(どなたかしら?
熱心にわたくしを望まれる、
薫さまなのかしら)

と思うと、
動転してしまって、
どうしていいかわからない。

浮舟の乳母が、
常ならぬ人の気配がするので、
あちら側の屏風を押し開けて、
やってきた。

そうして、
この場の状況を見るなり、
叫びたてた。

「これは一体、
どうしたことでございます」

乳母の制止などで、
引き下がる宮ではない。

お邸のあるじであり、
誰に遠慮なさるはずもなかった。

ふとした出来心の、
おたわむれなのに、
お口上手なご本性とて、
巧みにお言葉を連ねられる。

その大胆放恣な、
くつろいだお姿に乳母は、

(宮さまなのだ)

と思い当たり、
言葉もなく呆然としてしまった。

「そろそろ、
お戻りになります」

女房の声がするのは、
洗髪を終わった中の君のこと。

中の君の部屋以外の、
格子を下ろす音がする。

普段は使われていない、
高い棚厨子一対を立て、
屏風を所々に立てかけてある、
物置風に雑然としたところ。

それがこの頃、
浮舟一行が逗留している、
というので通り道の襖を、
一間開けてある。

そこから女房がやってきた。

右近といって、
大輔の娘でやはり、
中の君に仕えている。

格子を下ろしてこちらへ来る。

「まあ、暗いこと。
あかりをお持ちしていませんでした」

とまた、
格子を上げようとするので、
宮は(わるい所へ来た)
と困ったと思われる。

それより困り果てているのは乳母、
これは遠慮もなく、
せっかちで気の強い女なので、
右近が来たのを幸いと、
救いを求めた。

右近は手探りで寄ってきて、
浮舟の側に添い臥しているのを見た。

(あ)

右近はすぐ察しがついた。

(例の宮さまの、
悪いお癖が出たわ。
とてものことに浮舟さまが、
同意の上とは思えない)

と推量されたので、
乳母にささやく。

「ほんとにみっともないことで、
ございますが、私が宮さまに、
どう申し上げようもございません。
すぐあちらへ参上して、
御方さまのお耳に入れます」

といって立った。

何とも体裁の悪いことになった、
と誰も思っているが、
宮お一人はびくともなさらない。

名も知れぬ、
謎の美女に夢中になっていられる。

右近は中の君のもとへ行き、
見たことを告げた。

「まあ・・・
何ということ。
いつものよからぬお癖ね」

中の君はつくづく情けなく、
浮舟がどんなに錯乱しているで、
あろうかと思う。

といってどうしていいものやら、
荒らかに踏み込むのも、
はしたなく、
面と向かって宮をなじるのも、
むくつけき仕打ちであろう。

二人して、
事のなりゆきに胸を痛めていると、
折しも内裏からお使者が参上し、
后の宮が夕方から、
お胸の痛みで苦しんでいられる、
ただ今、
大層ひどくお苦しみになっている、
とのこと。

右近はこれ幸いと、
宮のもとへ参って、
お使いのいうより、
もう少しだけご病状が、
進んでいるように誇張して、
申し上げる。

宮はそれぐらいでは、
お動きになりそうもないご様子。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9、東屋 ⑦ | トップ | 9、東屋 ⑨ »
最新の画像もっと見る

「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳」カテゴリの最新記事