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・右近は思い切って、
内裏からのお使者をこちらの、
西廂の庭に呼びつけ、
口上をもう一度のべさせる。
「中務の宮も大夫(中宮職の長官)も、
たったいま参上いたします途中」
匂宮はそう聞かれてやっと、
現実に引き戻されたお気持ちに、
なられる。
なるほど、
母后の明石中宮は、
時々急にお苦しみになる折もある、
と思われ、
しぶしぶ浮舟のことは、
おあきらめになる。
「あなたは最後まで、
名を明かして下さらなかった。
しかし、私は決してあきらめない。
きっとまた会いにくる」
といって出ていかれた。
浮舟は恐ろしい夢から、
覚めたような気がして、
汗にぐっしょり濡れて、
臥していた。
乳母はいたわりつつ、
「こんなお住居は、
何ごとにつけ気づまりで、
具合悪うございます。
こうやって宮さまが、
いったんお越しになりましたら、
きっと二度三度と重なって、
この先、
きっとよいことは起こりますまい。
いくら貴いお方と申しても、
油断できないお振る舞いを、
なさるのですから。
何と申してもあの方は、
お姉さまの婿君でいらっしゃる。
無関係な殿方なら、
いいとも気に入らぬとも、
思って頂いてようございますが、
現在の姉婿さまでは、
人に聞かれても格好悪いことで、
ございます。
まあ、宮さまとしたことが、
下々の者の色めいたことを、
なさって・・・」
今日のところは、
どうやら危機を免れたけれど、
この先どうなるやら。
「母君さまのお戻りになった、
あちらのお邸では、
今日も烈しく言い争いを、
なさいましたそうな。
殿さまは、
『お前は上の娘の世話ばかりして、
わしの子供らのことを、
抛ったらかしにするのか。
新婚の婿殿がいるのに。
北の方が家を空けて、
それで済むのか』
とお叱りになったそうな。
すべてあの少将どのが、
もめ事の起りでございます」
と泣きながらいう。
浮舟は、
あれこれ考える余裕もなく、
ただ恥ずかしいばかり。
(このこと、
お姉さまがお知りになったら、
どう思われるかしら)
とただなすすべもなく、
しくしくと泣いていた。
乳母は、
浮舟の嘆きをいとおしく思い、
慰めてなだめていう。
「そうご心配なさいますな。
お姫さまはちゃんと実の母君が、
控えていらっしゃる。
世間から見れば、
父親のない人は見劣りしますが、
性悪な継母に憎まれるよりは、
実の母御の後押しがある方が、
ずっと幸せです」
中の君は異母妹の浮舟が、
可哀そうでたまらなかった。
そのことは聞かなかったふりをして、
浮舟に言い遣った。
「后の宮がお具合が悪い、
ということで宮さまは、
参内なさいましたから、
今夜はもうお帰りになりますまい。
私は髪洗いのせいか、
気分がすぐれずまだ起きています。
こちらにいらっしゃらない?」
浮舟は乳母を通して、
「気分が悪うございます」
と返事した。
中の君は髪の多いたちなので、
すぐにも乾かしきれず、
起きて坐っているのも辛かった。
その時、
「右近の君に申し上げたく」
と浮舟の乳母の声がした。
右近が立っていくと、
浮舟を乳母が連れてきていた。
浮舟は本当に気分が、
悪くなっていたが乳母が強いて、
連れて来たのだった。
「いけませんよ、
姉君さまはじめ皆さまも、
何とお思いになるでしょう。
わけがあったように、
お取りになるかもしれません。
ただ、おっとりかまえて、
お会いなさいませ。
右近の君には私から、
一部始終お話申し上げますから」
そんな風にすすめたのであった。
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(次回へ)