今日から「女の目くじら」
(角川文庫 昭和51年初版)
の古い文庫を読んでいきます。
・富満(とどま)高原といっても、知る人は少ないだろう。
いや、まだほとんど知られていないというべきだろうか。
地元の新聞社が、県民の投票から選んだ、
「兵庫県観光百選」の中に入っているのだが、
まだまだ秘境という感じで、
しかし私の気持ちからいえば、
車馬往来織るがごとくという観光地には、
なってほしくないのである。
秘境のままでそっとしておいて、
ふと思い出した時、あ、あそこがある、
あそこへ行けると思っただけでも心なぐさむような、
何かのよりどころになるような場所であってほしい。
兵庫県は瀬戸内海から日本海にまたがるという点では、
日本で唯一の県であるが、
南北の海沿いばかり発展して、
奥はあまり開発されていない。
しかし、播磨の国はもともと非常に古くからひらけたところで、
播磨の国造(くにのみやつこ)などというのも、
古代史の舞台にたびたび登場する。
さて、私が、人の知らない絶景として紹介されて、
出かけた富満高原は、兵庫県もすでに岡山に近い、
上郡(かみごおり)町から、さらに北へ入ってゆくところだった。
山陽線の上郡駅で降りて、
「金出地」(かなぢ)行きのバスに乗る。
上郡までは、神戸から二時間ほど。
(現在はもっと短い時間)
さらに駅前からバスに乗って「稗田」(ひえだ)
というところで下車すると、そこから山道を二、八キロばかり。
健脚の人は涼しい深い山道をゆっくりハイクするのもいいだろう。
じつは富満高原に、万勝院というお寺があり、
牡丹の名所で、山菜料理が食べられるというのである。
牡丹の季節にはまだ早いかと思われた五月の連休に、
私は上郡駅からタクシーをやとって、
万勝院まであがっていった。
二十分ばかりで、万勝院につく。
車が通れるくらいに山道を切り開いてあるのだが、
登るにつれて片方には、目のとどく限りの山脈と深い谷、
杉林、小さな集落などが見え、崖を幾曲がりもするうち、
次第にそれは低く低く、天がたかくなり、
朗々と視界がひろがって、四囲の山々が眼下に沈んでくる。
と、その辺からもう、富満高原で、
山路の暗さから一気に空が抜けたように明るくなる。
寺は、高原といっても広い地域ではなく、
険しい山地の頂きの村、という感じであるが、
その中でもさらに小高い場所にあり、
たたなわる北播地方の山脈が足元にうねっていた。
長々と土塀の続く寺は、
美しい初夏の夕空を背景に、
谷あいのほそ道や村を眼下にみて、
山地の冷気のなかにひっそりと沈もっている。
ところが山門を一歩くぐると、
あっと目を奪われる世界がひろげられていた。
境内に二百株ばかりの牡丹がおびただしく咲いているのだ。
薄紅あり、いわゆる牡丹色あり、えんじ、紅紫、
とりどりの大輪の花がただよっているのであった。
「まだ早いかと思いましたのに・・・」
私は牡丹の園の中にいた住職の新見龍童さんに、
茫然とした思いでいった。
「はい、ほんとうの見ごろは三日あとでしょうかな、
まだまだ、花がたくさん開きますが」
住職は六十歳をいくつか越した、
小柄だががんじょうな体格の人だった。
わが子のように牡丹を丹精にして育てあげ、
いまは裏山に二千株も植えている、ということだった。
牡丹の花期は、いくらかのお金を、
仏さまにお供えして山門に入り、
眼福にあずかることになる。
花びらと花びらが照り映えながら、
花芯にちかづくにつれピンクの陰が濃くなってゆく美しさ。
それに黒牡丹というのも、私ははじめて見た。
紅紫色の濃い、濃紺に近いような、べに色で、
妖しい美しさがある。
ゆきつもどりつ、私は牡丹の花園の中を、
花々に埋もれるように歩いた。
夕闇がおぼろに、足元から這いあがってくるにつれ、
花々は白く浮き上がり、夢うつつの心地に人を誘いこむ。
牡丹の花というのは物言わぬ美女のようで、
冥界から風に乗ってきたかのように妖しい。
花びらが惜しげもなく重なり合い、
重たげに傾ぎつつ、華麗であるが崩れぬままで、
凛と立っている。
古い建物(三百年からになるという)の庫裡へ荷を置いて、
私は裏の本堂へ下りてみた。
杉木立、竹藪を抜ける道に、
シャガのうす紫の花が咲き乱れていた。
野いちごの白い花びらがびっしりと窪地を埋め、
おち椿が道を赤く染める。
山腹の斜面にかけて建っているようなお寺なので、
本堂へいくのも坂を上り下りする。
杉木立が切れると、広大な地がひらけ、
調和のとれた見事な本堂を正面に望むことができた。
本堂の周囲は天を突く杉の木立。
それらが槍先をとがらせ、
夕映えの残光をさえぎるかのように腕を張って、
本堂を守っている。
ほの暗い。
そして森閑とした静けさ。
初夏だというのに、
身のひきしまる、すがすがしい冷気。
山霊の気かもしれない。
お花畑のように咲き続いていたシャガの花を見て、
山路をたどる。
あたりはいよいよ静かに、空気は軽く澄み、
鳥の声が多彩になってきた。
すると木立が切れ、道がついになくなってしまう。
小さな頂きへ立つ。
富満高原という標示があるので、
そこが一番の高所だと知れる。
まだ空は明るかった。
太陽が西の峰の肩にかかる時分で、
そのあたりだけ金色になっており、
ほかはもやでぼやけ、折りたたまれた山脈は、
肩のあたりから没していた。
晴れていれば氷ノ山も見えるという。
木の切り株に腰かけて、
しばらく私はじっとしていた。
夕陽が没してもしばらくまだ明るい空は、
ほんのりと牡丹の色を映して赤く、
梢をわたる風しか耳を打つものはなかった。
この寂々とした大自然のおごそかな残照の中で、
やがて自分も大自然のくずの一つとなり、
ついにはかき消えて土に還ってしまいそうな、
さびしい、不思議に満ち足りた思いで、
私はあたりを見廻した。
小さな人間の世界の、
なまぐさい愛憎は、この頂きに立つと、
くまなく吹き払われそうである。
それを求めて一人旅をしても、
やはり、空が暮れなずんでくると、
庫裡の灯が恋しくなるのはなぜであろう。
私は落葉や木の根に足をとられながら、
坂を下りはじめた。
(次回へ)