・きょうは特別に、山菜料理をご馳走になる。
普通は一人の旅ではむつかしく、
やはり三、四人以上の団体であってほしいということだし、
牡丹の花期は予約も必要であろう。
千二百五十年前の創建という富満(とどま)寺の、
万勝院はその一院で、
かつては六院三十三坊の堂塔伽藍を誇っていたが、
兵火に焼かれて跡形もないという。
ぜんまい、たけのこ、えんどう、干し大根、うど、
それにうなぎの蒲焼きに似せた、ごぼうの焼き物など、
山の幸が食膳に満ちていた。
折よく牡丹の花にゆきあわせた幸せに、
牡丹の花の酢の物、てんぷらを賞味することができた。
牡丹の花びらは紅紫色のもの。
肉厚でしゃっきりと、食べごたえがあって美味しく、
天ぷらにあげたものも、あっさりしてよい。
「笹の露、と名づけております」
私は住職さんに、
青竹をすっぱり一ふし切って、
端に口をあけた、竹徳利でお酒をついでもらった。
青竹の徳利は燗がむずかしく、
やや暖めた酒を入れて、湯沸かしでお燗をするのであるが、
竹の脂のせいか、酔い心地は早く、
まろやかな味になっていた。
高野豆腐、蓮根といった精進料理が、
素朴で淡白で、しかも味が深い。
住職さんの奥さんが、
村の婦人たちと一緒に作られているそうだ。
他家へ嫁いでいられるというお嬢さん、
といっても若奥さんが、天ぷらをあげるという、
家族ぐるみの態勢である。
牡丹の花びらの料理を、私は気に入った。
花びらを食べるという、夢のような話を、
人にしてもわかってもらえないのではないかしら、
と思いながら。
甘酢につけたのもよいが、
ふんわりと、そして軽くかりっと揚がった、
花びらの天ぷらの美味しさ。
口へ入れるともろく快い甘みとなって、消える。
白い透ける衣の中に紅色の花びらがある楽しさ。
暮れようとしている庭へ下りて、
また牡丹の花々を飽かず見入った。
山門の外は暗く、山の稜線も見えない。
はてなし山脈の果てへひとり来て、
夕暮れ、怪異なまでに美しい牡丹の花を見、
花びらを食べた。
はてなし山脈の山ふところには、
こんな、こわいような、ふしぎな、美しい、
なつかしい場所も、食べ物もあるのです。
牡丹の花は、あたりが暮れても、白色は消えず、
しんとしている。
なぜ、こんなにあでやかな美しい花が、
不気味に思えるのだろうと思ったら、
住職さんのお話でわかった。
牡丹の花には蝶や、
ほかの虫が寄ってきて、蜜を吸わないのだ。
そういえば、匂いも、
蜜ある花の持つ芳香ではなく、
抹香くさいにがい匂いだ。
牡丹の花がお寺と関係あるというのも、
はじめて聞いた。
真言宗の須弥壇(しゅみだん)には、
牡丹の花が描かれてあるということだ。
夜、牡丹のたき火を見せていただく。
もし、万勝院を訪れる人が運がよければ、
虫食いの枝など燃すときに見られるかもしれない。
私は幸運にも、牡丹の木のたき火にあたった。
事実、たき火にあたりたくなるほど、
山寺の夜は肌寒かった。
火はかなり勢いが強い。
「脂があるのでしょうか、よく燃えます」
炎の舌は長く、燃え盛った。
赤い火の中に鮮やかな紫色が走り、
かと思うとゆらめいて、えんじ色に崩れる。
火の色も、花の色に似るのだろうか。
しかし、紫色の火は牡丹の木の特徴のようで、
離れて遠くから見ると、美しかった。
豪奢なたき火に手をかざして見上げると、
びっくりするような、おびただしい星があって、
山はしいんとしている。
何と高い山だろう。
「若いころに病気をしまして、
そのとき、ふもとから医師(せんせい)に来てもらうのに、
難儀しました」
住職さんはいった。
十一戸ばかりのささやかな村で、
炭焼きの仕事も今は商いにならず、
険しい山で生きるには、
といろいろ住職さんは村のために考えたという。
そして村中が万勝院を中心に、
お寺をユースホステルに公開して、
観光で生きる道を探すことになった。
しかし、それは住職さんがあくまで牡丹を愛し、
山地の自然を愛するあまり、
人にもその幸せのおすそ分けを、
と願ってのことに違いない。
彼は、花札やマージャンを持ち込んで、
ご本尊さまの横でこっそり楽しんでいた、
不心得なグループを大喝叱咤したという。
牡丹の花を見、山頂に立ち、
暮れゆく谷あいをながめるために、
何時間も電車やバスを乗りついでゆく。
そういうために、
はてなし山脈の彼方の、
牡丹の寺はあってほしい。
夜はさらに音は絶えた。
牡丹も眠るのだろうか。
私はご本尊さまの横で眠った。
安らかな、満ち足りた旅の楽しさに包まれて。
(了 写真は家の庭の藤です 満開になりました)