「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

43、こっそり遷都

2022年04月16日 09時37分05秒 | 田辺聖子・エッセー集










・このあいだ、
天皇さんの関西お引っ越しおすすめ論を書いたが、
そのあと京都の人いわく、

「天皇はん、
東京からどこぞへ移らはる、いうたかて、
そもそもあんた、京都の人間は、明治維新のとき、
東京へ移らはったんかて、
ちゃんと納得してまへんねんで」

とのことである。

その人は何百年も続いた古いお家柄の人である。
こういう人が京都にはごろごろいるので、
話はようく聞かないといけない。

笑い話ではなく、
「戦争で丸焼けになって」といわれて、
「京都も空襲ありましたか」なんていうと、
「いや、もっと前の戦争どんにゃ」

「蛤御門の変。
鳥羽伏見の戦い。
河原町三条は長州屋敷のどんどん焼け」

「そんな新しいのやおへん。応仁の乱どす」

小さい店でわりに古う続いとります、といわれて、
うんと古いつもりで私はお愛想に、
「二百年ぐらい前?」なんていうと大変だ。

「そない新しいもんやおへん。四百年と聞いとります」

縄文時代からの系図を持ってる家もある。

そういう古い都では、
なにさま、維新になったとき、
新政府のプランナーたちが、
(どっか、全く新しい町へ、
象徴に移って頂かなくてはやりにくい)
と思うのも当然。

それが、古き京都人には、納得できん、といわれる。

「あの遷都は京都の人間がまだ心から、
納得してへんのどす。得心がいきまへん。
京都に黙って東京へ行かはった。
みな、まだお恨みに思てます。
すっきりせえへんのどす」

とてものことに、
いまのお引っ越しの相談どころではない、
その前に、「だまって東京へ行かはった」ちゅうのが、
京都人にはそもそも、
「まだ腹に据えかねてまんにゃ」というのだ。

「前の戦争」が「応仁の乱」で、
「わりに古い」のが「四百年前」だから、
百年ちょっと前の事件は、昨日のことのようである。

マジに怒ってはるのである。

「あんた、維新で金要るいうて、
京都の人間に、お上は、
沢山(ようけ)お金を出さしはりましたがな」

「はあ、新政府は資金源がありませんからねえ」

錦の御旗の朝敵征伐やいうたかて、
そんな金はみな、京・浪花の人間が出したんどす。
調達費は十万両やったいいまっせ、
京都の人間は『しゃあない、天朝はんのためとあらば』
いうて出しました、今までお世話になってることやし、と。
十万両どこやおまへん、そういうのがなんべんもきましたんや、
一ぺん二へんやおへん」

「すみません」

私は、自分がもらったわけでもないのに、
うなだれてしまう。

それにしても京都の人はおかしい。
年齢からいえば、この人のひいおじいさんの、
まだその上の父上の頃であろうのに、
「納得せん」気持ちは、今も熾烈である。

「お上」と「天皇はん」に対して、
「すっきりせえへん」不平は、
脈々と子孫に伝えられておるらしい。

「そのくせ、何どすねや、
明治新政府がでけたら、
天皇はん急に東京へ行かはって。
そら、よろしで。
こういうわけで、東京に遷都する、あんばい頼む、
といわれたら、京都は淋しいけど、
それが天朝はんのおためならば、
と得心します。
得心ずくめで送り出します。
それが何にも、いわはれへん」

「は?」

「黙ってスッと行かはった。
ちょっとだけ、東京へ行てくる、
いうて出はったよってに、
また帰りはるやろ、思てたら、
そのまま、向こうに居付きはったんどす。
京都も沢山、お金調達してさしあげてんのに、
ご挨拶もなしに東京へ行てしまわはったんどす。
あんた、そもそも『東京遷都』の詔勅なんてあらしまへんのや。
何も出てまへんのやで」

「は?出てませんでしたっけ?」

私は自分の手落ちのように狼狽してしまう。
誰や?手抜かりをやらかしたのは。

ええかげんな手抜きをするから、
百二十年も経って私は京都人に糾弾されている。

「こっそり行かはりましたんや。
ほんで、いつのまにやら江戸城へ入りこまはって、
江戸が東京になってる」

「ハハア・・・」

「そやけど、まだ京都には皇后さんがいやはりました。
皇后さんいやはるよってに大丈夫、
いまに天皇さんも帰って来はるやろ、
と京都の人間は安心したんどす。
ほんなら、これまた知らん間に皇后さん、
中山道通ってこっそり東京へ行かはった。
京都は、どんな気した、思いはります?」

「申し訳ありません」

この際、私の責任違う、といえない雰囲気であった。

「抜け目のないお店は、
天皇さんについて東京へ行て、
東京、本店にしはりました。
けど、古い人間は、いつか京都へ還らはる、
と思いつつ、みな京都で待ってたんどす。
そやのに一向、その気もない。
裏切られた思いで、みな得心してへんのどす」

私は家へ帰って歴史年表をひもといてみる。
明治二年(1869年)三月二十八日東京奠都となっているから、
詔勅は出たのであろうが、
京都人サイドの維新史からは、
出ていないことになっているのであろう。

「しかしよろしいなあ、
そういう『納得せん』思いを脈々と子孫が持ち続ける、
という頑固さは、京都人のよさですなあ」

カモカのっちゃんは珍重に価すという。




本日で「浪花ままごと」終わります。
おつきあいありがとうございました。







          

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