むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

13、浮橋 ⑤

2024年08月19日 08時18分54秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・「泣いていらっしゃるばかりでは、
困ります
お返事はどうなさるの」

妹尼に責められて浮舟はいった

「今はとてもお返事など、
できそうもありません
気分がたいそう悪いので、
しばらくしてよくなりましてから、
お返事申しあげます
昔のことが何も思い出せません
少し気持ちが落ち着きましたら、
今日のお手紙にあることも、
思い当たることが出てくるかも
しれません
今日のところはこのまま、
お帰り下さいまし」

浮舟は手紙を妹尼に押しやる

妹尼は仕方なく、
小君に話した

「物の怪のせいでしょうか
普通のご様子でいらっしゃる時がなく、
ずっとわずらっていらっしゃいます
尼姿になっていらっしゃることでも、
あるし行方をお捜しの方が、
おいでなら、これは面倒な事と、
お世話しながら心配しておりました
案じた通りになりましたね
薫大将さまのことも、
私どもは初めて耳にいたしました
今になって思うと、
まことに恐れ多くて・・・
お返事はないそうでございます
常からお具合悪くて、
お便りを頂かれていっそう、
お心が乱れたのでしょう
いつもに増して、
人心地もないご様子です
そうおっしゃって下さいまし」

妹尼は山里に似つかわしい、
食事など用意していたが、
少年はそれどころではなく
子供ごころに落ち着かず、

「どうかひと言だけでも、
お返事頂けませんか」

妹尼はそのまま浮舟に伝えたが、
浮舟は返事をしない

小君にひと言でも洩らせば、
それはたちまち、
せっかく得た心の平安が、
崩壊することになるだろう

やがては薫との縁が復活し、
俗世に引き戻され、
愛や嫉妬や呵責の果てしない、
煩悩の闇に落ちてしまう

浮舟にとって薫の手紙は、
なつかしくはあるものの、
反面、怖ろしかった

「私を世間の嗤い者に、
して下さるな」

という、
ひややかな怒りの手紙

もとよりその状況を、
作り出したのは浮舟であるが・・・
そしてその責任はすべて、
匂宮が負うべき性質のものであるが、
浮舟にも全く責めはないとは、
いえない

少なくとも浮舟は、
匂宮といる時に、
「青春」を知り、
「陶酔」を知ったのだから

浮舟は薫に責められ、
それに応じようとして、
死で償うことを思い立った

それは成功せず、
再び生き返ったけれど、
浮舟は生きながら俗世と、
縁を絶ったのだった

(どうか阿弥陀仏さま、
わたくしに力をお与え下さい
小君とひと言話して、
お母さまのことを聞きたい
薫さまにもう一度お目にかかりたい
ともすれば崩れ落ちてしまう、
弱いわたくしの心を取り直す、
勇気と力をお与え下さいまし」

浮舟はそう思い続け、
黙って涙を流していた

妹尼は仕方なく、
小君のところへ行って、

「これでは、
ただもうありのままに、
はっきりせぬご様子を、
お伝え下さるしか、
ございません
ここは都から遠いと申せ、
またきっとお立ち寄りくださいませ」

といって取りなした

小君は長居するのもへんだし、
帰ることにした

人知れず姉を恋い慕い、
一目でも見たいと思っていたのに、
ついに会えなかったのが、
残念で心を残しながら帰った

薫は待ちかねていた

しかし小君の持ち帰った情報は、
薫を失望させた

会いもせず、
人づての言葉もなく、
手紙の返事さえないとは

薫は不可解で、
雲をつかむような気持である

期待していただけに、
落胆はひどかった

(その昔、
宇治に浮舟を隠し据えて、
おいたように誰かほかの男が、
ひそかにかくまっているのでは?)

という疑いが萌した

そのころ浮舟は、
ようやく身を起こし、
端近ににじり出ていた

山の端に月が出ていたから

薫は、

「法の師と
たづぬる道を
しるべにて
おもはぬ山に
踏みまどふかな」

という感懐を洩らした

法の道から恋の山に踏みまどうた、
というが、浮舟はあべこべに、
恋の山に踏みまどうて、
法の道に入ったのである

(やっと心が決まった
いいえ、これからもまだまだ、
悩みや迷いが多いかもしれない
でもやがてはみんな、
なつかしくいとおしいものに、
思える日が来るかもしれない)

浮舟が月を仰いで、
清らかな微笑みを浮かべたことを、
京の薫はどうして知ろうか・・・






          


(了)

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