
<契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり>
(あなたは約束下さった
よし 任せておけ と
そのお言葉を命とたのんで
望みをつないできましたのに
させも草の露のようにはかなく
今年もむなしく
秋は去っていくのですね)
・これは詞書を読まないと、
どういう背景なのかわからない。
『千載集』巻十六・雑にある。
藤原基俊(もととし)の子に、
光覚僧都という法師がいた。
興福寺の僧だったが、
維摩会(ゆいまえ)の講師になりたいと、
かねて願っていた。
これは毎年、十月十日から十六日まで、
興福寺で行われる維摩経の講義の法会である。
この講師をつとめた僧は、
やがて宮中の最勝会の講師に、
なることが決まっていたから、
僧としてのエリートコースである。
されば僧たちはみな、
維摩会の講師になることを望むが、
この任命は藤原氏の長者の手に委ねられている。
基俊は、子息たる光覚に、
その講師をつとめさせて下さいと、
かねて法性寺入道前太政大臣・藤原忠通に、
願い出ていた。
しかし今度こそは、
と期待するのに、
その度に洩れるので恨み言を述べたところ、
忠通は、
「心配するな。しめぢが原だよ」
と答えた。
これは『新古今集』にある、
清水の観音のお歌、
<ただ頼め しめぢが原の させも草
われ世の中に あらん限りは>
を示唆している。
(ただただ私を信じなさい。
私がそなたたち衆生を救おうとして、
大願を立てている限りは)
という意味で、
忠通もそれを響かせて、
「任せておきなさい」と言ったのであろう。
それにもかかわらず、
この秋もまた選に洩れたようである。
そこでこの歌を忠通に、
「よみてつかはしける」という次第。
縁語を使って流麗に仕立ててあるが、
(置くは露の縁語、
露は命にもかかり、
させも草にもかかる)
どことなく恨みっぽく、
ひがみっぽく、
評判の悪い歌である。
定家はこの歌を気に入っていたらしいが、
手のこんだ技巧の完成度を愛したのかもしれない。
基俊は康平三年(1060)生まれ、
康治元年(1142)八十三歳で没している。
右大臣俊家の息子で、
有名な歌人であったが、
才をたのんで人柄が驕慢であったため、
人望がなく、栄達できず微官で終わった。
俊成の先生である。
同時代の歌人、
74番の作者、源俊頼と張り合った。
基俊は漢詩文も和歌もよくする宏才の人だけに、
人を批判するときは容赦ない。
口を開けばライバルの俊頼の悪口ばかり言い、
俊頼の歌をけなすのにかかっていた。
一方の俊頼はあまり他をそしらぬ、
温和な人なので、みんなに敬愛された。
基俊はそれが癪にさわってたまらない。
「俊頼は漢詩文の才なくして、
和歌をよくするが、
あれはたとえれば、
馬がよく歩くようなもので、
自慢にはならない。
漢詩文が出来て歌がよめる、
というのでなければうそだな」
俊頼はこれを聞いて言った。
「文時(菅原)、朝綱(大江)のように、
漢詩文、経史にすぐれた学者でも、
名歌をよんだというのは聞かない。
躬恒、貫之は漢詩文を操ったとは聞かないが、
だからといって和歌をよむのに、
不都合なことはない」
基俊はぐうの音も出ないわけでる。
八十過ぎた老後のある日、
<昔見し 人は夢路に 入り果てて
月と我れとに なりにけるかな>
齢を重ねて、
やっと素直になっている。



(次回へ)