<わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波>
(大海原に舟を漕ぎ出し
海と空をひろびろとながめれば
沖に立つ白波は
雲かとまがうばかり
なんとまあ
はるけくも晴朗なながめよ)
・雲居は雲のかかるあたり、
そのような意味から雲そのものを指している。
これは『詞花集』巻十・雑に、
「新院、位におはしましし時、
海上遠望といふことを、
詠ませ給ひけるに詠める」
として出ている。
「海上遠望」という題にふさわしい、
大らかな歌、王朝には珍しい、
茫洋とした風格の歌で、
むしろ万葉調に近い。
この新院は崇徳院(77番の作者)である。
この歌は、
保延元年(1135)四月二十九日の歌合わせの歌である。
作者は藤原忠通(ただみち)(1097~1164)。
ずいぶん長い名前となっている。
忠通は晩年、
法性寺に隠退して出家したので、
法性寺入道と呼ばれる。
この忠通の生きた十二世紀はじめは、
動乱時代の幕開けであった。
皇室では、
鳥羽上皇と崇徳院がご親子の仲でいながら、
仲がお悪かった。
崇徳院は父君にうとまれ、
異母弟の近衛帝のために、
皇位を譲らねばならなかった。
関白家では忠通が父と弟に対立していた。
父の忠実(ただざね)は、
次子の頼長(よりなが)を愛して、
嫡男の忠通を排斥しようとする。
武士たちは源氏も平家も、
それぞれの思惑から、
立場を異にして同族間で角逐を演ずる。
近衛帝が崩じられると、
後白河帝が立たれた。
心ならずも皇位を下ろされた崇徳院の恨みは、
深まるばかりである。
そこへ頼長と忠通の争いに武士たちがからみ、
鳥羽院崩御をきっかけに持ちあがったのが、
保元の乱(1156)。
崇徳院側について賭けたのが頼長、
後白河天皇側に与したのが忠通であった。
崇徳院側はあえなく敗れ、
頼長は戦死し、崇徳院は讃岐へ流される。
憤怒に燃える崇徳院は、
生きながら鬼のようになって、
都の君臣を呪いつつ、
生涯をその地で終えられた。
忠通は勝者の立場に立った。
弟は敗死し、父は隠遁した。
もとのように関白に復し、
氏の長者として一族を統べる身となった。
忠通の生涯の大方は政争にあけくれたが、
彼はもともと、鳥羽・崇徳の間にあるような、
肉親憎悪を父や弟に抱いていたとは思えない。
忠通一家は、
皇室関係者の軋轢に巻き込まれたのである。
専制君主たちが、
自分たちの都合のままに、
関白や太政大臣の職を、
任意にはく奪したり与えたりして、
一家をひっかきまわしたのである。
それをいえば、そもそもすべては、
鳥羽・崇徳両院の宿命的な反目と憎悪から、
出ているのであろう。
実の親子でも運命としかいいようのないほど、
仲の悪い人々もあるが、
まして鳥羽院は、崇徳院をご自分の子ではない、
と排斥していられた。
この「わたの原」の歌のとき、
忠通は三十八歳、関白の位にあり、
崇徳院はまだ十七歳のうら若き帝であった。
二十年のちに二人が敵味方の立場に立とうとは、
お互い思いもせぬことだったであろう。
(次回へ)