「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

76番、法性寺入道前関白太政大臣

2023年06月16日 08時57分42秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波>


(大海原に舟を漕ぎ出し
海と空をひろびろとながめれば
沖に立つ白波は
雲かとまがうばかり
なんとまあ
はるけくも晴朗なながめよ)






・雲居は雲のかかるあたり、
そのような意味から雲そのものを指している。

これは『詞花集』巻十・雑に、

「新院、位におはしましし時、
海上遠望といふことを、
詠ませ給ひけるに詠める」

として出ている。

「海上遠望」という題にふさわしい、
大らかな歌、王朝には珍しい、
茫洋とした風格の歌で、
むしろ万葉調に近い。

この新院は崇徳院(77番の作者)である。

この歌は、
保延元年(1135)四月二十九日の歌合わせの歌である。

作者は藤原忠通(ただみち)(1097~1164)。
ずいぶん長い名前となっている。

忠通は晩年、
法性寺に隠退して出家したので、
法性寺入道と呼ばれる。

この忠通の生きた十二世紀はじめは、
動乱時代の幕開けであった。

皇室では、
鳥羽上皇と崇徳院がご親子の仲でいながら、
仲がお悪かった。

崇徳院は父君にうとまれ、
異母弟の近衛帝のために、
皇位を譲らねばならなかった。

関白家では忠通が父と弟に対立していた。

父の忠実(ただざね)は、
次子の頼長(よりなが)を愛して、
嫡男の忠通を排斥しようとする。

武士たちは源氏も平家も、
それぞれの思惑から、
立場を異にして同族間で角逐を演ずる。

近衛帝が崩じられると、
後白河帝が立たれた。

心ならずも皇位を下ろされた崇徳院の恨みは、
深まるばかりである。

そこへ頼長と忠通の争いに武士たちがからみ、
鳥羽院崩御をきっかけに持ちあがったのが、
保元の乱(1156)。

崇徳院側について賭けたのが頼長、
後白河天皇側に与したのが忠通であった。

崇徳院側はあえなく敗れ、
頼長は戦死し、崇徳院は讃岐へ流される。

憤怒に燃える崇徳院は、
生きながら鬼のようになって、
都の君臣を呪いつつ、
生涯をその地で終えられた。

忠通は勝者の立場に立った。
弟は敗死し、父は隠遁した。

もとのように関白に復し、
氏の長者として一族を統べる身となった。

忠通の生涯の大方は政争にあけくれたが、
彼はもともと、鳥羽・崇徳の間にあるような、
肉親憎悪を父や弟に抱いていたとは思えない。

忠通一家は、
皇室関係者の軋轢に巻き込まれたのである。

専制君主たちが、
自分たちの都合のままに、
関白や太政大臣の職を、
任意にはく奪したり与えたりして、
一家をひっかきまわしたのである。

それをいえば、そもそもすべては、
鳥羽・崇徳両院の宿命的な反目と憎悪から、
出ているのであろう。

実の親子でも運命としかいいようのないほど、
仲の悪い人々もあるが、
まして鳥羽院は、崇徳院をご自分の子ではない、
と排斥していられた。

この「わたの原」の歌のとき、
忠通は三十八歳、関白の位にあり、
崇徳院はまだ十七歳のうら若き帝であった。

二十年のちに二人が敵味方の立場に立とうとは、
お互い思いもせぬことだったであろう。






          


(次回へ)

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