「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、山抜けて山河あり ⑧

2022年12月27日 09時14分35秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・秋月さんはこれからの計画をいろいろ練っている。

「何ちゅうたかて、
ワシらの村やし、
どこへいくこともでけへん。
それに埋まった家を掘り起いてもどうもならんしの。
危険な山は崩せるだけ崩いて、
ワシ、こんどはてっぺんに家建てたるねん」

秋月さんは意気軒昂であった。

「みんなは怖い、怖い、いうけど、
みな崩れてしもうたら大事ないやろ。
なあに、またやりますがな」

秋月さんは新築したばかりの自宅や、
スタンドや車数台を奪われ、
一億あまりの資産をフイにしたのであるが、
親の遺産ではなく自分の稼ぎで作った人だから、

「またやりますがな」

という口調には迫力がある。

村の人が呼びにくる。
「保険の相談があって」ということだ。

火災保険には、みな入っていたが、
こんな災害では保険金が下りないので、
いま特別措置を交渉中だ、ということであった。

被災後、
全国からの見舞い品はありがたかったが、
これから生きていく手立ての配慮、
という点では、国も県も、
かのテレビ局のレポーターみたいなもので、
ヒトゴトのように、

「これから寒くなるのに、
どうなるんでしょう、ほんとうに」

というようなところらしい。

中々尻が重くて、
てきぱきやってもらえない、とこぼしていた。

「しかしまあ、
みな、仲ように被災してよかったやんか、
グループともども」

と夫はいった。

「まあ、そうやな」

秋月さんは資力のある人であるから、
すぐ小さな家ぐらい独力で建てられるのであるが、
村の若手グループの指導者ということで、
みなと同じようにするのがホンマやといい、
長いこと中学校の校舎に避難し、
仮設住宅に入り、
自宅のことは、いつも後回しである。

「災害からこっち、飛び歩いていて、
声嗄らしていたころは、もう、怖うて、怖うて。
夜、帰ってきたら、怒ってばっかりいるんやもの」

と秋月さんの奥さんはいっていた。

夫が、
今ごろは、男はみな、殺気だってるはずや、
というのは、ここのところをいうのかもしれなかった。

「今日は、別荘に泊るのか、
あそこは水に浸かってないし、何ともない」

とみなはいうが、

「今日はまあ、お見舞いに来ただけ。
元気な顔でよかった」

と私は引き上げることにした。

みんなぞろそろと、
道まで送ってくれた。

「昨日(きんの)、トクゾーが、
山崎警察でホウビもろとった、
生き埋めの奥さん助けて」

抜山のとなりの山は、
あいかわらず青々している。

帰途、
見るとなるほど新しくついた道のほとりに、
コンクリートで床をかため、
ドラム缶の巨大なやつをおっ立て、
プレハブの小舎のその横に、
建てたガソリンスタンドがあった。

その横に、クリーニング屋らしいプレハブの小舎もある。
屋台のごとき店は散髪屋だろうか。

そうして真っ青な空の下、
岸を削られた揖保川は岩を噛んで、
かなり激しい流れである。

山河は昔と変わらない。

山津波のなだれを免れた畠に、
柿の木があって、赤い実が生っており、
それらは以前、この村へ来て、
ようく見知った秋の風情である。

秋月さんらは、
どうやら元気で生きてゆくだろう。

あんなにしぶとく、
元通りにイキイキしてるなんて、
私は思ってもみなかった。

どういうように慰めようかと、
考えながら行ったのだった。

「やっぱり、ある程度、
時間をおいて行ったから、よかってん」

と夫はいうが、
私はまたまた、感じていた。

私は「運命」と渡り合って負けたのである。

「へへへ、へへへ」

という「運命」氏の、
(してやったり)という笑い声をきく気がする。

しかしそれは、
いまの私には、
たいそう快くひびいたのである。






          


(了)

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