・山崎の店へは、
始終電話をかけ、様子を聞いていたが、二週間目ぐらいで、
どうやら道がついたということだった。
土のうを積んで急ごしらえの道で、
危険な個所はロープを張って歩けないようにしてある、
という。
「道がついたらしいよ、行ってみようよ」
と私は、夫にいった。
「やかましい。
女が男に指図するか!」
と夫は耳にも入れない。私はいった。
「プレハブの家へ一戸ずつ移った、っていうから、
もうお見舞いのもん持っていっても、
おちついて話もできるよ」
「いかん。
まだ移りたてで、ゴタゴタしてるはずや。
そういう時にいくと疲れる。
何しろ前代未聞の災害やからみな殺気立ってる。
もっとおちついてじっくりして、
笑い声の一つも出るようになってから、行くもんや。
友人いうもんは、そうベタベタするもんやない」
とそっくり返っていう。
私は、いい気でいる夫が憎らしくなってきた。
声も嗄れてしまった、という秋月さんやおくさんに、
早く会って慰問したいと思ったが、
また一方では、あんまりショックが大きいので、
お見舞いの言葉も出て来ず、
気が重くなるのではないかという危惧もあり、
そうするとなるほど、
夫のいうように、もっと先でお見舞いをするほうが、
いいのかもしれなかった。
早くに見舞いにいった友人らは、
どんな結果だったのか、報告はなかった。
被災の日から、一ヶ月半ばかりたった秋晴れの日、
夫は朝食を摂ると腰を浮かし、
「これから福知へ行く」
という。私はカッとして、
「男が女に指図するか!
そういうことは前もっていうものだ!」
といってやった。夫は腰をおちつけ、
「そんならやめるか」
「いく、いく!」
と私は叫んで、
大急ぎでお見舞いの品をためていたのをまとめた。
セーターや毛糸のコート、
シャツやら子供の着物、
それにいつでも行けるようにと、
金庫にしまっておいたのし紙入りの「実弾」
(それは個人あてのお見舞いと町あての寄付の二種類)
そんなものを積み上げた。
もらいもののホーロー鍋や、
使わないお皿なども包んだ。
お袋からはかねて端ぎれで、
座布団地をことづけられている。
ウチの家政婦さんは蒲団を上手に縫う人であるが、
「被災地の人にあげはるお見舞いやったら、
タダで縫わしてもらいます」
と、義侠心を出してくれて、
十帖の座布団も出来上がっていた。
大きな荷物になった。
新しい住居からは、
わりあい早く村についた。
山崎の店へ寄って挨拶してから村へいく。
テレビより新聞より、
さすがに現地にくると迫力ある風景が展開していた。
(次回へ)