・村の中を流れる揖保川は、
なだれ落ちた土砂のため堰き止められたダムになり、
対岸の家々をあっという間に流し、
川の流れが変ってしまった。
千ミリの豪雨で増水して、
手がつけられないそうである。
ただ、十四日の朝刊によると、
住民の奇蹟的な脱出が成功して、
一人の犠牲者も出ていないという。
せめてものなぐさめである。
秋月さんたちは、
少なくとも、命だけは助かったらしい。
「よかった。
一人でも誰か、知った人が亡くなってたら、
もう、あそこの村、よういかんわ」
と私はいったが、
はじめの生き埋めの三人は、
やっぱり行方不明らしかった。
新聞に、無惨に倒壊埋没した、
下三方(しもみかた)小学校の写真が出ている。
山肌は白っぽくえぐりとられ、
山裾の村や往還はただ何もなく、
ごろごろ倒れた巨木と土砂の野原である。
小学校はかわいらしい真っ白い三階建ての、
鉄筋コンクリートの建物であった。
私は何年か前、
小学校の図書室に児童名作全集を贈り、
校庭に山茶花を植えにいって、
あかるい校舎を見てまわり、
秋月さんの愛くるしい女の子が、
授業を受けているのをのぞいたり、
したことがある。
それはいま、
波のようにうねり、
苦し気にもがいたさまで、
土砂に埋もれ、正面の壁に取り付けられた時計は、
「九時四十分」をさして停まっている。
記事によれば、山津波のあと、
住民は北の下三方の中学へ避難する者、
対岸へ避難する者、さまざまで、
小字ごとに確認が急がれたが、
風雨がはげしくて、連絡が取れず、
仕事ははかどらない。
誰と誰が助かったのか、
犠牲者が出たのか出ないのか、
状況が確かめられなかったが、
やっと、山崩れから五時間もたって、
生き埋め三人のほかは、全員無事、
ということがわかった、という。
記事の中に、
「『秋月さんはどこへ行ったんやろ』
『世良さんの家はどうなった』などと、
地元の人たちと消防団が協力して確認し合った」
というくだりがあり、
私は思わないところで、友人の名をみつけた。
秋月さんは、たいそう、頼もしい存在であるから、
こういう危急の場合、人々が頼りにするにまちがいなく、
一ばん人々に連呼され、さがし求められたのは、
秋月さんにちがいない。
私にはそのさまが目に見えるようであった。
あっという間の山崩れなのに、
それでも年より子供に至るまで、
二百人もの人間が逃げ延びたというのは、
陰にきっと、
はしっこい秋月さんの指揮があったに違いない、
と思われた。
土砂は六百メートル流れ、
高さ百五十メートルの山が三分の一削られて、
土砂を押し流し、水深四メートルの揖保川を埋め、
川の流れをねじまげている。
道路は寸断され、奥の部落は孤立状態である。
自衛隊は徹夜で復旧作業をし、
ヘリコプターが救援物資を投下しているということだ。
十四日になって、やっと、
山崎のスタンドへ電話がかかった。
その店にいる人は、
「お宅の別荘は大丈夫です。
渓谷へ入る道は何ともありません」
といってくれた。
私は、私の小屋のことなど、
もう考えにも入れてなかった。
こんなにえげつない「運命」の悪意を、
思い知らされたあとは、「運命」の奴が、
「へへへへ。
別荘は助けてあげましたぜ。
これも意外やったやろ」
といっているようで、けったくそ悪い。
むしろ私は、私の小屋が助かったことを、
村の人のために喜んだ。
「あそこの家にあるもの、
お蒲団も食器も、電気製品も、
み~んな取り出してみなさんで分けて使って下さい。
何でも使って下さい」
といっておいた。
店の人は、大回りして山越えで、
明日は行ってみるという。
自衛隊が警戒して通してくれないが、
元気ではいるらしい、ということだった。
私は、福知の村の災害に、
何か私が責任あるような気がして、
ショックを受けている。
私と運命の一騎打ちに敗れたために、
こんなことになったのだ、という気がしている。
私の力及ばなかったために申し訳ない。
夫はそんな私を見て、
「ええかげんにせえ!
前からおかしい、おかしい、思うてたけど、
やっぱりどっか、おかしいのんと違うか」
とバカにした如く、いう。
あんまりそんなことばかり考えてたせいか、
福知へ行く夢を見てしまった。
(次回へ)