「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、ヴェニス ⑦

2022年09月12日 08時23分00秒 | 田辺聖子・エッセー集










・こういう市場の喧騒の中に身をおいていると、
ヴェネチアが沈む、という実感はない。

現にヴェネチアの人にそう聞いたら、

「フ~ッ!」と鼻息あらく叱られてしまった。

ヴェネチアの学校で歴史を教えているという、
フロッシーニ先生である。

ヴェネチアの赤提灯についてガイドに聞こうとしたら、
ヴェネチア中でたった一人日本語を話せるというガイドは、
ただいま旅行中であった。

英語でガイドをする人が代わりに来てくれて、
それがフロッシーニ先生であった。

先生は六十代に見えるが、まだ五十七だという。
上品で人柄のよい紳士であった。

わかりやすい(といっても私にはわからないのであるが)
英語を話し、日本へも度々行った、
神戸は大好き、家には酒の、といって、
店のメモの裏に銚子と猪口の絵をかき、
そういうものを持っている、という。

その下に屋根を三つ重ねて描いて、
これはお城の天守閣のつもりらしい。

その絵だか掛け軸を持っている、
ということであった。

フロッシーニ先生は、
ヴェネチアには屋台や赤提灯というものはないが、
働く人たちがあつまる、
気軽に飲んだり食べたりする店はある、
といって案内してくれた。

ゴンドリエーレ(ゴンドラの漕ぎ手)の行く店だそうである。

いうなら運転手のたまり場、という感じ、
先生はゴンドリエーレたちに学校で、
ヴェニスの歴史を教えたから、
いうなら教え子の行く店、
という感じでもあるようであった。

サン・マルコ広場からリアルト橋へ行く方向の路地に、
「サヨナラ」という店がある。

これは日本語ではなく、
ヴェネチアより北西の町でSAONARA、
ここの主人はサオナラの出身者ということであった。

おっちゃんが、

「マイ・イングリッシュ、ハート、フロム、ハート」

と自分と先生の胸を指すと、
先生は典雅な発音で、

「イエース、イエース」

と大喜びで握手する。

三月の夜は、海上都市はまだ寒く、
みんなオーバーを着ている。
毛皮を着ている観光客の女もいる。

「サヨナラ」は満員、
入ったところにカウンターがあって、
そこに男たちが群がってぎっしり、
奥はレストランであるが、満席のようであった。

ゴンドリエーレは黒いゴンドラに乗るとき、
黒い横じまのシャツを着ていることが多い。

赤いリボンの麦わら帽子をかぶり、
粋な格好で軽舟を思いのまま走らせるのである。

しかし一日の仕事を終えたいまは、
潮焼けした肌に、思い思いの上衣やジャンパーをひっかけ、
さかんにしゃべりながら一杯やっていた。

主人は黒ひげを鼻下にたくわえた、
まだ三十代らしき敏捷な男、

(おいでやす、先生)という格好で側へ来た。

忙しいものだから、
元気よく熱心に先生としゃべり、
メニューの打ち合わせをする。

ここの前菜は、バの字の店よりはるかに美味しい。

シャコ、タコ、エビ、イワシと、
みな同じような種類だが、あたらしくて、
とくにイイダコの子というような、
白いムッチリしたプリプリの歯ごたえは、
面白い味である。

白ワインで乾杯、
「サリューテ!」というのも先生に教えてもらった。

メインはタラ(のごときもの)をボイルして、
それがたっぷり皿に出てくる。

これに好みで、酢、オイル、塩、胡椒で、
味をととのえて食べる。

これは淡白なので、日本人向きかもしれない。

ゴンドリエーレたちは見ていると、
小魚のフライをつまみながら、
一杯のビールで、カウンターで長いこと、
おしゃべりを楽しんでいる。






          


(次回へ)

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