「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、ローマ ⑥

2022年09月01日 08時31分58秒 | 田辺聖子・エッセー集










・ローマの町は流しのタクシーがない上に、
雨が降るととてものことに車に乗れない。

M君は近くのホテルまで行って、
やっと車をつかまえてきてくれた。
もう一軒行く。

トラスチべーレという町に観光客のよくいく、
「チチェルワッキョ」という店がある。

ここはさすがに観光客相手だけに休んでいない。

地下へ下りていくようになっていて、
牢獄だったという話だが、
それらしい様子に作ってあって、
旅行者が喜びそうなところ、
お上りさんはともかくローマっ子はいそうになかった。

甘いアイスクリームにワインをとって見回すと、
観光客ばかり、歌うたいが一組来た。

アコーディオンやギターを携え、
「オーソレミオ」や「サンタルチア」を歌う。

「ローマへ来てナポリ民謡とはこれいかに。
しかしやはりオーソレミオでないと、
しっくりきませんな」

「ローマの歌ってあるんですか」

「あの日ローマで眺めた月を・・・」

「せっかくパスタとビアンコで、
イタリア情緒に浸っているのですから、
もう少し格好つけて頂いて」

あんまり若くない歌うたいなのに、
男のテノールはりんりんと天井をゆるがしてひびき、
これでは声楽家志望の日本人留学生は、
世がはかなくなるのではあるまいか。

日本人もかなり来るとみえて、
歌うたいの一団は片言の日本語をしゃべる。

「やったぜ、シニョール!」

「スバラシイ」

と自分でいっていた。

千リラのチップをやる。
日本円で二、三百円くらいだろうか。

「こんな店のオーナーはたいていアメリカ人ですよ。
この辺は古い町ですが、
住民はほとんどアメリカ人、ユダヤ人が多くて、
家賃も高いです」

とM君の話。

イタリアのアイスクリームはおいしいと定評だが、
ここのはやたらと甘いだけ、
白ワインも高いにしては、
ジョバンニおじさんの店のよりおいしくない。

ただローマへ来て、
はじめての晩を楽しむには、
手ごろでいいムードである。

雨は止んだが、春雷しきり、
赤マントのおじさんがタクシーを拾ってくれる。

ここでホトトギス氏が勘定を払うと、
店の支配人がきて、
両手の指でピンとつまんだ一万リラ札を、
ニセ札だと鄭重に返した。

空港で両替した札がニセだという。

「ローマはニセ札多いです。
僕の友人もこの間、銀行で五万リラを四枚替えて、
使おうとしたら、
四枚のうち二枚までニセ札だといわれました」

M君はそういっていた。

警察へ届けても、
その場で破られるだけ、
銀行へ行ってもしょうがないし、
支配人は肩をすくめて、ホカの札を出せ、
というらしい。

「そのニセ札どうするんですか」

「やっぱり混ぜて知らん顔して払う、
ということになるんじゃないですか」

「しかし、知らないうちは使えますが、
知ってからは使えませんな」

「どうしたらいいかな、僕にもわからない」

ホトトギス氏はべつの札で払い、
ニセ札はべつのところにしまった。

ホンモノの札と並べて見比べると、
印刷が不鮮明で紙質も悪いとわかるが、
はじめて空港へ下りた旅行者に弁別は無理である。

店によるとニセ札見分け機ともいうべき機械を、
おいているところもあるという。

ローマのお札は同額でも、
毎年のようにデザインがちがうので、
よほど熟練していないと見分けはつきにくい、
のではなかろうか。

ニセ札が見つかったといって、
誰一人怒る者も驚く者もなく、
財布をのぞきこんで、
「ホカの札でお払いください」
という顔でいるのだ。

そこの、泰然たるところが、

「ローマですなあ」

とおっちゃんはいう。

「春雷や ニセ札多き ローマかな」

「銀行も たよりにならぬ ローマかな」

「空港も 信用ならぬ ローマかな」

「ニセ札や 真札やとて 暮れにける」

みんながふざけている間、
ホトトギス氏は手りゅう弾をふところに入れているみたいに、
またニセ札をかくしから出して、
深刻な顔をしてじ~っと眺めていた。






              


(次回へ)

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