・主上(一条帝)は、
もう一刻でも離すまいと、
なさるかのように、
夜はひしと定子中宮のおそばに、
いられる
もうほかの女御たちのことは、
思い出されることもない、
ありさまだった
そこへ吉報がもたらされた
帝の母君、女院が、
ご病気になられ、
平癒祈願のため、
大赦が行われて、
伊周(これちか)の君と、
隆家の君にお許しが出たのだ
召喚の命令が発せられた
姫宮は幸運を運んでこられた
姫宮がお生まれになってから、
中宮のご身辺には、
次々とよいことが続く
私は次に則光に会ったとき、
自慢せずにはいられない
「隆家の君がお帰りになる、
というのでずいぶんたくさんの人が、
配所までお迎えに上がったそうね
伊周の君は、
九州のはやり病が、
少しおさまってから、
お戻りになるらしい・・・
中宮が元に倍して、
ご寵愛が深いと知れたら、
どんなにお喜びになることか」
「・・・」
則光は口が重い
「どうかしたの?」
「どうもしない
ただこのごろ何となく・・・
疲れたよ」
「仕事が忙しいの?」
「そうでもないが、
昔のようにここへ来て、
骨休めできなくなった
お前はいつも、
『中宮さま』
のことで頭がいっぱいだし、
疲れがよけい重なる気がする
おれは淋しい」
今夜の則光は、
いつかのように怒らない
静かにいう
怒らない則光は、
それはそれで私を当惑させた
「どうしろっていうの?」
「あたまの悪いおれには、
どうしたらいいかというのは、
口に出していえない
口にできない何かがあったんだ、
お前のまわりには
おれはそれが魅力だった
お前のおしゃべりも楽しかったし、
宮中で再会したときは、
なつかしかった
お前を昔のように、
家にとじこめておけない、
というのはわかってる
お前はそんな女じゃない
たくさんの人にもてはやされ、
人に目だったり、
楽しませたりして、
生きていく女だからな
だけど、
おれと二人きりのときまで、
お前のあたまは、
『中宮さま』でいっぱいだ」
「・・・」
「おれはここで、
楽しめなくなった」
今度は私が黙る番だった
「おれ、
今までしこたま考えたんだが、
来年の除目で何とか、
どこかへくらいついて、
いけそうなんだ
左大臣家(道長の君)の手づるで
ほら致信(むねのぶ)さんが、
口を利いてくれた
どこの国になるかわからないが、
お前も来ないか
国の守になれるかもしれない」
「あたしが、なぜ?」
私はびっくりせずにいられない
「面白いじゃないか
生まれて初めての景色を見られて」
「あんたは家族を連れて、
行くのでしょう」
「連れてゆくが、
それとこれは別だ
お前、一、二年ぐらい、
遊んでみるがいいよ
お前は昔、
外へ出るのをあんなに、
喜んでいたじゃないか
どこの国でもいい、
しばらくおれについて来ないか」
「とんでもない」
「飽きたら帰ってくればいい
お前を束縛しようとは、
思わない
しかしこのまま京にいると、
気の休まるときとて、
ないに決まってる」
「どこの国へ行くつもり?」
と私が聞いたのは、
則光に同行する気持ちからではなく、
単なる好奇心だった
私は中宮を置いて、
どこへ行けるものかと、
思っていた
則光の顔はにわかに、
生彩を帯びる
「全く、
この都と変ったところがいい
東国へ行きたい
野っ原を馬で駆けて、
狩りをしてみたい
都びとと全く違う人間と、
親しんだり、
一緒に仕事をしてみたい
土の匂いを嗅ぎ、
川の水をすくって飲みたい
雪も嵐も恐れない、
そういう暮らしをしてみたい、
とお前も思わんか」
則光のいうことは、
よくわかった
ほんとのところ、
体が二つあればいい
一つは則光とよその国へ
一つは中宮のおそばに
「あたし、
そうしたい、
あんたと一緒に行きたい
でも・・・」
「おっと、
その先は言わなくていい
もうわかってるよ
お前の言いたいこと
でも、ちょっと言ってみただけ
言わなかったら、
おれの気持ちわかってもらえなくて、
埋もれてしまうだろうからね
お前は所詮、
都から離れられない人間だし」
「・・・」
「お前は人のちやほやが、
なくては生きられない女さ
ほめられ、おだてられ、
乗せられて」
たちまち私はカッとする
「あんたにゃ、
わからない世界なんだわ
あたしがどんな面白いことを、
いっても通じない人なんだから」
「そういう思いが、
この年になったおれには、
堪えられなくなったんだ」
「じゃあ、
別れるしかないわね」
「お前がそういうなら、
仕方ないよ」
則光は、
たちまち私にとって、
憎らしい男に転じてしまう
「もう呼んでも来ないからな」
「あたしも当分、
ここへは戻らない
中宮さまが内裏住みなされば、
ずっとあちらにいることに、
なるでしょうから」
則光は怒っているのではない
淋しい、というのは、
本当かもしれない
しかし所詮男心はわからない
しかし私はそのことを、
ゆっくり考えるひまはなかった
隆家の君が、
とうとう戻っていらした
この中宮の弟君は、
但馬から動かず謹慎していられた、
ということで、
左大臣家からの評判もよく、
中宮とお目通りなさって、
姫宮とご対面なるにつけても、
涙、涙、うれし涙であった
「これで早く兄上が、
戻られたら」
と欲が出るのも喜ばしかった
隆家の君は、
日に焼けて体つきも、
たくましくなって戻られた
私はこんな世界の方が、
やっぱり面白い
則光と荒野の国へ行くよりは、
人の噂や悪口の話に、
いきいきとよみがえる
(了)
・姫宮は、
脩子というお名になられ、
乳母も決まった
日々、すこやかでお元気である
姫宮の泣き声のうちに、
年が明けたのもめでたかった
配流先の筑紫や但馬からも、
お誕生を喜ぶ使者が来たが、
ある夜、
中宮の祖父君・高二位殿が、
ひそかに訪れて来られた
姫宮を拝見して、
「おお、なんと可愛ゆい」
と笑みまけていられたが、
二位殿の真意は、
「早く宮中へ参内なさいませ」
とすすめられることに、
あったようだ
「世間では、
主上が若宮をごらんになりたい、
と望まれ、それにつけても、
中宮もろとも入内されるであろう、
と噂しております
私も祈祷を欠かさず続けておりますが、
夢に、
『この次こそ、
男皇子がお生まれになる』
というおさとしを受けました
一日も早う参内されるのが、
よろしかろうと存ずる」
とすすめられる
「男皇子がお生まれになれば、
こちらの勝ちじゃ
一の宮はぜひ、
そなたがお挙げにならなければ、
ならぬ
一刻も早う主上のもとへ、
お戻りなさいませ
物事には機会というものがある
よろしいか、
世間がどう思おうと、
主上のご寵愛だけをたのみに、
主上におすがりしていなされ」
二位殿は中宮にささやかれる
妖しい祈祷の最中のように、
二位殿の目には、
人を暗示にかけるような、
強い光がみなぎりだす
「男皇子を」
「男皇子をこそ・・・」
「一日も早う」
「男皇子さえ、
お生まれになれば、
こちらの勝ちじゃ
そうなれば若宮の外戚たる者を、
筑紫や但馬にうち捨てて、
おくわけにもゆかぬ
やがて戻されよう
それには宮がぜひ男皇子を」
中宮は黙々としていられる
そのお耳に、
二位殿はくりかえしくりかえし、
吹きこまれる
しばらくして中宮は、
「女院(主上の母君)からも、
若宮をごらんになりたいと、
お便りがございましたけれど、
いざとなると、
万事につけて遠慮されまして
旅先のお兄さまや隆家の君も、
どうしていられるやら、
あれこれ考えて、
また気苦労を内裏で重ねるのも、
ためらわれますし・・・」
「というて、
姫宮をこのまま置かれては、
中途半端なご身分に、
なってしまいますぞ
女院や主上とご対面なされて、
内親王宣下を、
お受けにならなければ、
尊い身分が日陰者になって、
しまわれます」
中宮も姫宮のことになれば、
お心が弱られるらしかった
二位殿は重ねて、
一夜中、中宮に参内を、
すすめていられた
さすがに、
こういうときに、
父母や兄弟がいられたら、
と中宮は思われるのだろうか、
堪えかねて涙を落とされた
泣いたり笑ったりしつつ、
二位殿は夜明けに帰っていかれた
しかし中宮の、
参内のご決心をそそのかしたのは、
ほかならぬ主上からの、
忍びやかなお便りであったらしい
お使いが来て、
お文をごらんになると、
その気におなりになったようだ
伯父君たちもおすすめし、
参内の日が決まった
そのころ、
則光は左衛門尉、検非違使に、
なっている
三条の私の邸に、
一度来たけれど、
なぜかこの頃は口が重く、
しっくりしない
「中宮が参内されるって、
ほんとうかね」
「ええ、
姫宮の御五十日の儀を、
いい折にということらしいわ」
「昔から尼が、
内裏へ入ったためしはない
筋道がちがうと、
世間じゃうるさいことだ」
「尼には、
おなりにならなかった、
といっているのに!」
「そんな話、
誰が信ずるものか」
「でもほんとうなんだから、
仕方ないわ
あんたも疑うの、
あたしより世間の噂を信ずるの」
中宮の話をしていると、
私もいらいらして、
声音が変ってしまう
則光が口をつぐんでいるのに、
いい募ってしまう
「左大臣家(道長の君)でも、
彰子姫のご成長を、
待ちかねていられるようだけれど、
主上と中宮のお間柄を、
裂くことなんて、
誰にも出来やしないわ」
「・・・」
「やがてそのうち、
男皇子でもお生まれになったら、
もう誰にも気圧されたり、
なさらないわ」
「・・・」
則光は膝枕で横たわっていたが、
起き上がると、
「淋しいねえ・・・」
というではないか
「何が?」
この男にも、
淋しいなんて感覚があるのかしら、
と思ってしまった
その晩、
彼は泊まっていった
「二度と来ない、なんて言って」
私は笑うが、
則光は笑わない
何となく、上の空という感じで、
私は不満だった
私は則光が話に乗って来ないのが、
あきたりなかったが、
そのうち眠ってしまった
目が覚めると、
則光はもう帰っていた
「お供のお迎えを待たず、
帰ってしまわれました」
と小雪がいっていた
でも私は、
あまり気にとめなかった
何と言ったって、
則光はやはり私のもとへ、
帰ってくるのだもの
「二度と来ない」
とタンカを切りながら、
その舌の根も乾かぬうちに、
のっそりやって来る
則光がいつになく、
口少なだったのは、
照れ臭さをごまかすためなのか、
と私は考えていた
そのかみの格式には及ばないが、
中宮のご参内は、
それなりのいかめしさで、
飾ることが出来た
私どもの女房車も、
それにつづいて晴れがましく、
何カ月ぶりかで宮門をくぐる
ほぼ一年ぶりといっていい
女院も待ちかねていられた
姫宮をすぐお抱きになって、
「おお重いこと・・・
ふっくらと色白う肥えられて」
と頬ずりなさる
女院と中宮、
お話が尽きないところへ、
主上が弾んでお渡りになる
中宮は姫宮をお目にかけて、
暁にはご退出になる、
おつもりだったが、
「しばらく
せめて脩子を、
ゆっくりと抱きたい
四、五日はいるように」
と主上が切に仰せになって、
職の御曹司にお入りに、
なることになった
中宮と主上は、
じつに一年ぶりの逢瀬、
何をお話になったのだろうか、
私たちにはわからない、
世間の噂も人のそしりも、
道長の君の思惑も、
お若い主上にはお考えに、
なれなかった
(次回へ)
・中宮がご出産された若宮は、
すこやかな姫宮さまだった
(皇子さまだったらよかったのに)
という人、
(いや、この多難なとき、
姫宮のほうがかえってよかった)
という人もあり、
私はそれよりも、
主上のお使いが矢のように、
繁く来るのが嬉しかった
暮れのあわただしい中、
姫宮の産養が行われる
右近の内侍が参って、
さまざまの儀式を行った
故・道隆公ご在世であれば、
主上はじめてのおん子のご誕生に、
どんなに花やいだことであろうか
それでも白一色の衣に変った邸内は、
にわかに生き生きした気配が、
よみがえり、私たちは喜んだ
お産が軽かったのも嬉しいし、
姫宮がおすこやかで、
美しくいられるのも嬉しかった
なんとまあ、
力強いお声で泣かれるものか、
私は久しぶりに遠い昔、
則光の子の吉祥丸を、
抱いたときのことを思い出した
あの時吉祥は六カ月だったけれど
姫宮の泣き声は、
邸内から今年中の不吉を、
吹き払ってしまうように、
すがすがとめでたい
まったく長徳二年という、
この年は悪いこと続きであった
伊周(これちか)の君、
隆家の君、
そのほかのご一族の不幸、
流人となって流されなすったかと思うと、
二条のお邸は火災に遭うし、
母君の貴子の上は亡くなられるし、
弘徽殿、承香殿と、
女御はお二方も入内なさるし、
定子中宮にとっては、
お辛い日々であったと思われるが、
それもこれも、
姫宮のご誕生でいっぺんに、
消えてしまった
「お美しいこの宮さまを、
主上にお目にかけることが、
できたら・・・
女院(主上の母君)も、
お心にかけていらして、
お喜びでいらっしゃるそうで、
ございます
はじめての孫の君ですもの」
と右近はいった
右近は主上のご信任あつい女房で、
中宮や私とも心安い仲だから、
今までもひそかにお見舞いに、
来てくれていたが、
このたびは公式のご用で、
遣わされたので、
人目を忍ぶこともなかった
「筑紫にも但馬にも、
さぞ若宮をゆかしくお思いでしょう、
けれど、
やはりそれは主上がいちばんで、
いらっしゃいましょう」
右近は七日まで泊まっているので、
夜々私たちにそんな話をする
「かわいそうに、
あの人は自分の罪咎でもないのに、
一族のために苦労させられて、
思いもかけぬ尼にさせてしまった」
と主上は、
取り返しがつかぬように、
思い悩んでいられるとか
「いいえ、
中宮さまは尼姿では、
いらっしゃいませんよ」
と私がいっても、
右近は、
それを単なる気安めと、
とったらしくて、
「尼姿になられては、
今後、参内されることは、
はばかられるし、
さりとて主上は中宮に、
お会いになりたがられて、
日夜、恋しく思われ、
そっとお涙を拭いていられるときも、
ありますのよ
女院もお慰めになるのですが、
さすが大殿(道長の君)への、
思惑もおありで、
お悩みでございます」
右近はそういうのだった
新女御たちの、
弘徽殿、承香殿の御殿でも、
中宮は尼になって、
世を捨てられた、
主上のご寵愛をこれからは、
こちらが競おう、
という意気込みで、
振い立っていられるそうな
そして、
左大臣の道長の君のお邸では、
一日も早く、
彰子姫を入内させたいと、
姫のご成長を引き延ばす思いで、
待っていられるそうな
中宮が尼になられた、
という噂は、
左大臣のお邸から出ているらしい
「いいえ、
それは違いますわよ
お髪もそのままの俗体で、
いらっしゃいますわ」
と私が打ち消しても、
右近は不思議そうに、
「でも、五月一日のあの日、
たしかにお手ずから、
お髪を下ろされた、
とお聞きしていますもの・・・
あのあと、
ご連絡にたびたび参りましたときも
やっぱりご落飾のご様子に、
拝見しましたわ・・・」
というのであった
五月一日の、
あの運命の日の話になると、
周囲の女房たちは、
ぴたりと口をつぐむ
現場にいなかった私は、
何ともいえない上に、
長いあいだ中宮のお側を離れていた
そのころのお姿、
どういうお気持ちでいらしたか、
自信をもって私は断言できない
しかし私が何十日かぶりで、
中宮の御前へ出仕したとき、
全く昔のままだった
俗世の執着を断ち切って、
仏門へ入った人の明るさではなく、
この世を生きる、
人間の明るさだった
(故父君がご在世であれば、
ご誕生の祝賀も花やかに)
(故母君のご不幸が、
もう二ヵ月遅ければ、
姫宮のご誕生をごらんになり、
せめてものお心なぐさめに、
喜んで逝かれたかも、
わかりませんわね)
というのへ、
中宮はうなずかれるが、
決してそれを自分からは、
仰せられない
右近から手紙が来て、
あのあと、宮中へ参内すると、
主上が待ちかねていられた、
というありさまが、
こまごまと綴ってあった
「どうであった
それから・・・それから・・・」
とせきこんで、
お尋ねがあったそうな
それからそれへと申しあげると、
「そうか」
と主上は涙ぐんでいられたよし
「お美しい姫宮でいらっしゃいました」
と申しあげると、
「見たいなあ」
と深い嘆息を洩らされて、
「昔は皇女が生まれられて、
七つ、八つになるまで、
ご対面はなかったそうだけれど、
今は、そんなしきたりは、
すたれているというではないか
東宮の方では、
生まれられた若宮をおそばに置き、
東宮みずからお抱きになって、
可愛がっていられるようだ
東宮一家が水入らずで、
楽しんでいられるのが、
うらやましい
自分たち親子は、
いつになったら会えるのやら・・・
まして中宮が、
尼になられたとすると、
もう二度とお目にかかれないかも、
しれないね」
主上はひたすら、
中宮とお生まれになった姫宮を、
恋しく思われるようであった
(次回へ)
・その夜、
中宮は私をお側に呼ばれて、
「わたくしはあの時、
世を捨てるつもりでいたけれど、
わたくしが世捨て人になると、
この一族はばらばらになってしまう、
まして、
これから生まれていらっしゃる、
若宮がお可哀そうと思ったの、
こんな執着があっては、
仏の道など修められそうもないし、
仏罰をこうむることになるでしょう
もう二度と内裏へ戻ることは、
ないかもしれないけれど、
主上のおゆるしも受けず、
世を捨てることも、
ためらわれてしまって・・・」
というしみじみとしたお話
貴子の上はご病気だし、
伊周(これちか)の君たちは、
配流の最中、
お妹君たちは同じように、
宮中から退ってこのお邸に、
身を寄せていられる
主とたのまれるのは、
中宮お一方だけなのだった
内裏より主上のおつかいは、
右近が折々来るようで、
そのおねんごろな主上のご愛情と、
十二月に迫ったご出産が、
このお邸の唯一の希望だった
貴子の上のご病気は、
重いらしい
ご一族の清照阿闍梨が、
つききりで加持していられるが、
もう食事ものどを通らず、
「伊周に会いたい、
ひと目、会いたい」
とうわごとを仰せられるだけ、
という
伊周の君の流された、
播磨は近いが、
呼び返しまいらせるわけには、
いかない
弟君、隆家の君の配流先の、
但馬からも播磨からも、
使者は繁く来るが、
貴子の上は日一日と、
重くなられるばかりである
十月に入って危篤になられた
播磨と但馬へ、
早馬の使者が立つ
但馬の隆家の君からは、
「飛んでも参りたいが、
いま京へ戻っては、
恥の上塗りになる
ひたすら神仏にお祈りし、
すがるのみ
これ以上、世を騒がし、
人に嗤われたくない」
というきっぱりしたお返事が、
あったそうである
播磨からの返事はなく、
その代り、ある夜、
邸内はひそかなざわめきに、
包まれた
あり得べからざること、
伊周の君は、
夜の闇にまぎれて、
播磨の国から駆け戻られた
公の咎めで、
終生、すたり者になるかもしれぬ、
懸念は覚悟の上、
身はどうなろうとも、
親の死に目にあったことで、
断罪され神仏に憎まれるのなら、
「それはそれで運命だと、
思いまして」
と涙ながらに、
母君の手をとられたという
「これで、
心おきなく死ねます」
と貴子の上は喜ばれたそうである
二日一夜、
邸はひたすら沈黙を守り、
帥殿(伊周の君)の帰京を、
ひたかくしにかくし続けていた
邸の中の小者雑人にいたるまで、
ぴったり口を閉ざして、
秘密を洩らさなかった
・・・はずなのに、
密告者があった
小二条邸を検非違使がとり囲み、
「前代未聞だ
流人が勝手に帰京するとは、
朝廷の権威をないがしろにする
公の温情で播磨にとどめたのが、
裏目に出た」
伊周の君は、
たちまち有無をいわさず、
車に押し込まれなすった
以前と違って、
格段の手荒さであったという
私が見たわけではなく、
邸の中にいたけれど、
検非違使たちがひしと取り囲み、
お姿を見ることさえ、
かなわなかった
中宮のおわす寝殿は、
ぴたりと格子も蔀もおろされて、
外の様子をうかがうことも、
許されない
まるきり罪人扱いで、
このたびは即日、
判決通り筑紫へ送られることに、
なったのだった
都じゅうは、
この噂でもちきりだという
隆家の君を、
「性根の坐った方だ」
とほめる者もあり、
「いやいや、
伊周の君は孝行な方じゃないか
ひと目会って死にたいと嘆かれる、
母君のお心を察して、
わが身はどうなっても、
と帰られたそのお心がなつかしい」
と同情する声もある
そういえば、
噂の一つに、
さきの越前守・親信(ちかのぶ)
の話がある
密告者は親信の子で、
孝義という青年だそうな
彼は伊周の君が、
入京し小二条邸へ入られた、
という情報を手に入れ、
すぐさま朝廷へ売ったという
そのため、
ひと月ばかりして、
加階褒章された
孝義は得々として、
その喜びを言いに父を訪れたが、
親信は声をふるわせ、
息子を叱ったという
「何しに来たのだ?
ここをどこだと思うのだ?
わしはお前如きの薄情者、
人でなしを子に持たん
密告などという、
卑しむべきことは、
町のひさぎ女などのすることだ
あさましい
情けない
そんなことをして、
人々の心を傷つけ、
胸を焼き焦がし、
嘆きを身に負うのが、
いいことだとお前は、
思っているのか」
足蹴にせんばかり、
怒り狂い、ののしったので、
息子は閉口して、
ほうほうのていで逃げたそうである
私は親信という爺さんに、
好意を持った
それこそ人間らしさ、
教養というものではないか、
と思った
やがて貴子の上は、
亡くなられた
伊周の君は、
筑紫で母君の死を聞かれた
その国の大弐は、
何ということであろう、
有国であった
伊周の君の父君、
故道隆の大臣に憎まれ、
位を剥奪された有国は、
道長の君の代になって、
勢力を復し太宰大弐となって、
意気揚々と下っていったが、
そこへまわりまわって、
子息の伊周の君が、
流人として落ちて来られたのだった
有国はおどろき、
しかしねんごろに仕えているという
「世の中は、
めぐりにめぐるもので、
ございますな
有国のご主君は、
亡き兼家公でございました
兼家公のご子孫の君に、
仕えるべく有国はこうして、
ここへ参ったのでございましょう
ご不自由はおかけいたしません」
そういったという話が、
京まで伝えられた
二条のお邸は、
鈍色の裳服に埋められた
そして、
十二月十六日、
喪服を召された中宮は、
若宮をご出産なすった
(次回へ)
・三条の自邸へ帰って私は、
四、五日、呆然と過ごした
中宮からの忍びのお便りも、
ここしばらく途絶えている
式部のおもとからの、
連絡もない
世間から見放されたようで、
私は不安だった
こんな時は、
「春はあけぼの草子」を、
書く気にもならなかった
不安感の底には、
則光の得体の知れぬ悪意があった
結局、あの夜、
彼は何かむしゃくしゃすることが、
あったのだろうと、
思わないではいられなかった
そうして、
ああいう男の機嫌を取って、
暮らさねばならない妻の位置に、
私がいないのを幸福に思った
いや、思おうとした
それでいて、
(もし則光がほんとうに、
もう来ないのだとしたら?)
と思うと、
へんに重い空虚感がひろがってゆく
あんな男、
愛してなんかいないのに
でも、何となく、
正直な心の奥底では、
(しまった!)
という気がするからふしぎだった
(則光を怒らせてしまった・・・)
という自分の落ち度といった気分に、
滅入りこんでしまう点で、
私は私自身に腹を立てていた
そういう日、
顔見知りの長女(おさめ)が、
手紙を持ってきた
中宮からのお使いは、
宰相の君が使う女童が、
持ってくるのであるが、
この長女は中宮職の、
下級の女役人であるから、
もしや、
(ご直筆ではないかしら?)
と思うと胸がとどろいた
果たして、
「少納言の君さま、
宮さまお直々のお文でございます」
と長女は、
私の邸だというのに、
声をひそめる
私は胸とどろかせて、
開けてみた
白い紙には、
何も書かれていない
中に包みがあり、
開くと時期はずれの、
返り咲きの山吹の花びら一つ、
鮮やかな黄色が
その包み紙に、
高雅なご筆跡の走り書き、
墨のかすれも美しく、
まさしくこれは中宮のおん手で、
「いはで思ふぞ」
とただひとことある
あ、これは古歌の、
<言はで思ふぞ言ふにまされる>
(口に出さず恋しく思っている
その方が口に出して言うより、
ずっと思いは深いのよ)
そういう意味の歌を、
暗に引いていらっしゃる
中宮の久しぶりの、
お声を聞く心地がして、
嬉しい上に、
また、このお歌の適切な引喩、
山吹の花びらの洗練された使い方、
すべて私の趣味嗜好にぴったり、
勿体ないことだけれど、
(おやりになるわ、
さすが!)
と共感した思いでいっぱいだった
私は久しぶりに、
心がみずみずしくあふれてきた
これこそ私と中宮の、
共有する喜びの世界
嬉しさに私は、
目が熱くなり涙っぽく、
赤らんでくるのを、
長女に対して恥ずかしく思う
長女はそんな私を見て、
「中宮さまは、
ことごとにつけて、
あなたさまのことを、
お思い出しになられるようで、
ございますよ
早くご出仕なさいませ
皆さまも淋しがっておいでです」
といってくれた
「私はもう一軒、
用足しにまいります
そのひまに、
お返事をお書き下さいませ」
長女が出ていったあと、
私は机に向かったが、
この歌の上の句を度忘れしていた
この古歌は、
私もよく知ってる歌で、
絶えず引用しているのに、
こんなことってある?
のどまで出ているのに、
上の句が出ない
すると、
そばにいる小雪が、
「下行く水の・・・
『心には下行く水のわきかへり』
というのでしょう?」
と不思議そうに教える
私は笑い出してしまった
こんな子供に教えられるなんて
全く則光を笑えない
中宮のお文を頂いて、
私は滅入った気持ちから救われた
それから、三、四日して、
小二条のお邸へ上がった
このお邸はおどろくほど、
小ぢんまりしていて、
その上、
中宮の母君、貴子の上がご病気のため、
加持の僧が入れかわり立ちかわり、
詰めているから、
ごった返している
しかし、中宮のおましどころは、
まるで内裏を思わせるように、
よくととのえられ、
住みやすげにしつらえてあった
中宮は女房たちと、
話していられるところだった
何十日ぶりであろう、
私は心が臆して、
そっと几帳のかげに、
かしこまっていると、
中宮はお目さとく見つけられて、
「あれは新参の人なの?」
と笑われる
中納言の君をはじめ、
宰相の君たち女房も笑う
私は御前にすすんで、
久方ぶりのお目通りのご挨拶をし、
ご直筆のお手紙のお礼を申し上げる
私は、その上の句が、
どうしても出なくて、
召使いの女の子に、
教えられた話を申し上げると、
中宮はまたお笑いになる
「そういうことはあるものよ
ことに少納言みたいに、
博学で歌の道に通じたと、
自他ともに認めている人が、
女の子に教えられる、
などということが嬉しいわ」
と仰せられるものだから、
一座はまたどっと笑う
「少納言は賢いと思えば、
抜けていたりして、
ほんとに面白いわ
あなたの顔をしばらく、
見ないでいると、
物足りなくて淋しいわ」
と言い放たれる明るさ、
全く昔の通りである
ふり仰ぐと、
中宮は二ヵ月あとの臨月を、
控えられておなかもふっくらと、
高くなっていらっしゃるが、
お顔の色も冴えて、
おすこやかそうだった
お髪は短くなっていない
お召物ばかり鈍色だが、
かの五か月前の悲劇、
手ずからお髪を下ろそう、
とされたのを、
その途中でみんなは、
強いておとどめしたという
(次回へ)