まるまる1章、生まれつき盲人の目を開けるという奇跡(ヨハネの書いた6番目の奇跡)のこと。
前章8:12で、ご自分を「世の光。わたしに従う者は・・命の光を持つようになる」と述べたイエス。この章では、それを業によって証明されたことがわかる。
癒された者は、実際の光だけでなく、霊的な光(命の光)も持つようになった。
さかのぼって6:28,29で、神の業をするため何を行なったらよいか、という質問にイエスは、神の遣わした者に信仰を働かせることが神の業だ、とお答えになっている。
この者が、イエスに信仰を働かせるようになって行く過程が興味深い。
イエスは、どんな方法でも(言うだけでも、触るだけでも)癒せるけど、この時は粘土を作って目に塗り、行ってシロアムの池で洗うようにと指示された。
イエスの言葉を聞いてそれに従うこと(特に自分ではどうにもできないこと)で、実際に良い結果を得られたことが、信仰の始まりになる。
その前に「この人が罪を犯したのでも、その親たちでもない」と述べているイエスの言葉に心動かされたんだろう。さんざん、お前のせいだ親のせいだ、と言われてただろうから。イエスが従い易くしてくださってることも分かる。そうでなかったら、目が見えないのにシロアムの池まで行こうとはしなかったかもしれない。
ヨハネがわざわざ、シロアムの意味を「遣わされたもの」と書いているのも、イエスが遣わされた者であるという信仰が関係しているからなんだろう。(新世界訳は「送り出された」となっているので、そこが分かりにくい)
この者がイエスについて語る言葉は、まず人々に「イエスという人」⇒パリサイ人には最初「彼は預言者です」、2回目には「神からの人」⇒そしてイエスに「主よ」となっていく。
神の業は奇跡的に癒されることだけでなく、その事実(経験や知識)に基づいて、追放されても、親から見放されても、イエスに信仰を働かせるようになっていく、これが神の業なんだなぁと。
3節でイエスは、この人が盲人として生まれたのは「神のみ業がこの人の場合に明らかにされるため」と述べている。その通りになった。
そしてイエスは、パリサイ人たちに「盲目であったなら罪はなかった。あなた方は『見える』と言う。あなた方の罪は残る」と言われる。
盲目であること(=罪人であること)を自覚するのが信仰への第一歩。これを考えると、パウロの回心の過程が興味深い。一度盲目にされてから、視力を回復されてる。彼が与えられたとげ(視力に関することらしい)は、このことを忘れないようにという戒めでもあったのかな。
ものみの塔をいくら研究しても、今回のようなことは学べない。これは、いわゆる世のクリスチャンたちがネットに載せてくださっていること(感謝です)をまとめたもの。
聖書をものみの塔解読のための辞書のように使っているエホバの証人は、もっと聖書そのものを勉強する必要があるとつくづく感じた次第です。
前章8:12で、ご自分を「世の光。わたしに従う者は・・命の光を持つようになる」と述べたイエス。この章では、それを業によって証明されたことがわかる。
癒された者は、実際の光だけでなく、霊的な光(命の光)も持つようになった。
さかのぼって6:28,29で、神の業をするため何を行なったらよいか、という質問にイエスは、神の遣わした者に信仰を働かせることが神の業だ、とお答えになっている。
この者が、イエスに信仰を働かせるようになって行く過程が興味深い。
イエスは、どんな方法でも(言うだけでも、触るだけでも)癒せるけど、この時は粘土を作って目に塗り、行ってシロアムの池で洗うようにと指示された。
イエスの言葉を聞いてそれに従うこと(特に自分ではどうにもできないこと)で、実際に良い結果を得られたことが、信仰の始まりになる。
その前に「この人が罪を犯したのでも、その親たちでもない」と述べているイエスの言葉に心動かされたんだろう。さんざん、お前のせいだ親のせいだ、と言われてただろうから。イエスが従い易くしてくださってることも分かる。そうでなかったら、目が見えないのにシロアムの池まで行こうとはしなかったかもしれない。
ヨハネがわざわざ、シロアムの意味を「遣わされたもの」と書いているのも、イエスが遣わされた者であるという信仰が関係しているからなんだろう。(新世界訳は「送り出された」となっているので、そこが分かりにくい)
この者がイエスについて語る言葉は、まず人々に「イエスという人」⇒パリサイ人には最初「彼は預言者です」、2回目には「神からの人」⇒そしてイエスに「主よ」となっていく。
神の業は奇跡的に癒されることだけでなく、その事実(経験や知識)に基づいて、追放されても、親から見放されても、イエスに信仰を働かせるようになっていく、これが神の業なんだなぁと。
3節でイエスは、この人が盲人として生まれたのは「神のみ業がこの人の場合に明らかにされるため」と述べている。その通りになった。
そしてイエスは、パリサイ人たちに「盲目であったなら罪はなかった。あなた方は『見える』と言う。あなた方の罪は残る」と言われる。
盲目であること(=罪人であること)を自覚するのが信仰への第一歩。これを考えると、パウロの回心の過程が興味深い。一度盲目にされてから、視力を回復されてる。彼が与えられたとげ(視力に関することらしい)は、このことを忘れないようにという戒めでもあったのかな。
ものみの塔をいくら研究しても、今回のようなことは学べない。これは、いわゆる世のクリスチャンたちがネットに載せてくださっていること(感謝です)をまとめたもの。
聖書をものみの塔解読のための辞書のように使っているエホバの証人は、もっと聖書そのものを勉強する必要があるとつくづく感じた次第です。