聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ13章

2018-10-15 | 聖書
最後の過ぎ越しの途中でイエスが12弟子の足を洗う。

エホバの証人の組織ではこの部分、イエスが謙遜さの際立った模範を示した、としている。誰が一番偉いかを競い合っている弟子たちに謙遜さを教えるために、イエスの実物教育、という言葉まで使って。イエスが居なくなった後のことを思って。

自分はそれにいつも違和感を感じていた。謙遜さの模範というだけではどうもしっくりこない部分があって。

7節の「わたしのしている事を、今は理解していないが後に理解するようになる」とか、8節の「わたしが洗わないならあなたはわたしと何の関係もない」とか、10節の「水浴びした者は足を洗ってもらう必要があるほかは全身清い。それであなた方は清い」とか。

今回いろいろ調べて(もちろん組織の出版物ではありません。組織以外のキリスト教です)、腑に落ちたことがたくさんあって、いったい自分は今まで何を学んで来たんだろうと。
エホバの証人は聖書を全く理解してないことがよく分かったです。

で、何が分かったかというと・・・上手くまとめられないので列挙します。

イエスが弟子たちの足を洗ったのは、謙遜さを示すと同時に、弟子たちの日々の歩みで付いてしまう汚れを洗う、つまり日々犯す罪をイエスによって洗い清められなければならないことも示していた、ということ。
そしてそれはイエスの愛の表明(贖い)でもあり、ペテロのように拒んではいけない(拒むのは高慢)こと。受け入れて神の愛を知り、それに倣って他の人を謙遜に愛すること。
さらに、水浴びした者、つまりイエスがメシアであるという信仰を抱いた者はすでに清い者であるけど、日々の歩みで足に汚れが付くのでイエスに足を洗ってもらう(贖いに基づいて許しを祈り求める)必要があること。
ユダは信仰を失ってしまっていたので、イエスは「すべての者がそう(清い)ではない」と言ったこと。
などなど。

これらが分かって読むとヨハネの書いてることって深いなぁと。聖書ってやっぱいいなぁと。

ついでに、組織の出版物から分かったことも1つ。
21節。「イエスは霊において苦しまれ・・・」とある。前の18節でユダの裏切りに関してイエスは詩編41:9を引用された。それはダビデがアヒトフェルの裏切りについて書いたものらしい。アヒトフェルは首をくくって自殺した。聖書に記されてる2つの自殺のうちの1つ目。2つ目は・・・イエスがユダの行く末のことを思って苦しまれたことがわかる。

分からなかったことも1つ。
32節。節の頭にあるはずの「神が彼によって栄光をお受けになったのであれば」という言葉が、新世界訳では「また」という言葉に置き換えられてる。神が彼によって栄光を受けては何かまずいことでもあるのかな。これって三位一体を否定したいがための書き換えじゃないのかな。