ご自分を贖いの犠牲として捧げる前に、全ての人の大祭司として神に祈られたイエスの言葉。
1~5節はご自分のこと、6~19節は弟子たちのこと、20節~は弟子たちの言葉(聖書含む)によって信仰を持つ者たちのことを。
栄光を、保護を、聖別を、一致を、愛を。
・・・深いです。何を書いても上っ面になりそうです。なので、今まで学んでこなかった点や、新世界訳を読んだだけでは分からなかった点を書いておきます。
1,5,11,21,24,25節。「父よ」=「アバ」。「アバ、父よ」って言うのが油そそがれた者だけだとしたら、自分は「父よ(アバ)」って祈ったらダメって事になっちゃわないかなぁ・・・やっぱり油注がれるってよく分かんないなぁ。
1節。「時は来ました」。ヨハネは「時」について何度も書いてる。いよいよその時が来た。
3節。ご自分のことをここで初めて「イエス・キリスト」と言われた。神に遣わされたキリストとしてのイエスを知るように、ということだね。
5,24節。教義では「世がある前」「世の基が置かれる前」とは、人類誕生の前となっている。それでもいいのかなとは思うけど、天地創造の前としているものも多い。どちらであっても大切なのは、イエスが神の傍らで栄光ある存在だったこと、再びその栄光を得て弟子たちもその栄光にあずかるようにと祈ってくださってること。
6,26節。「み名を明らかにする」「み名を知らせる」。イエスは「み名」に拘っていたわけじゃなくて、み名の表わしている本質を明らかにし、知らせた。(弟子たちはすでに神の名を知ってた)
8節。新世界訳の「代理者」という言葉は付け足し。
神がイエスに与えてくださったことばを「受け入れ」、イエスが神から出て来たことを「知り」、神がイエスを遣わされたことを「信じた」。これが弟子になって行く過程だとわかる。
11,12節。新世界訳「み名のために彼らを見守る」。他の訳「み名によって彼らを守る」「あなたの名で彼らを守る」。だいぶ印象が違う。他の訳の神は、新世界訳の神よりずっと積極的に、まさに父親のように守ってくださるように感じる。
15節。新世界訳「見守る」。他の訳「守る」。サタンから、見守るのと守るのとじゃ、雲泥の差が出ると思うんだけど、どうなんだろうね。
15~18節。邪悪な者のいる「世のものではない」ことと、み言葉真理によって神聖なものとされることが、対として書かれている。イエスが足を洗ってくださったこと(日々の罪を贖っていただくこと)とも通じる。世に居る限り、日々、世の影響を受けるのは必至なわけで、それを取り除くために聖書と祈りは不可欠だとわかる。
21,23,26節。「結びついて」。すべて付け足し、もしくは意訳。
23,26節。イエスを愛した神の愛が弟子たちのうちにもあることを世が知る。イエスを愛した神の愛によって一致する。
キリスト教がどれほど分裂していても、大切なのは一人一人が神とイエス(とその愛)について知る(知識としてではなく、いわば父や兄弟や友として)ことなのかなと感じた。
1~5節はご自分のこと、6~19節は弟子たちのこと、20節~は弟子たちの言葉(聖書含む)によって信仰を持つ者たちのことを。
栄光を、保護を、聖別を、一致を、愛を。
・・・深いです。何を書いても上っ面になりそうです。なので、今まで学んでこなかった点や、新世界訳を読んだだけでは分からなかった点を書いておきます。
1,5,11,21,24,25節。「父よ」=「アバ」。「アバ、父よ」って言うのが油そそがれた者だけだとしたら、自分は「父よ(アバ)」って祈ったらダメって事になっちゃわないかなぁ・・・やっぱり油注がれるってよく分かんないなぁ。
1節。「時は来ました」。ヨハネは「時」について何度も書いてる。いよいよその時が来た。
3節。ご自分のことをここで初めて「イエス・キリスト」と言われた。神に遣わされたキリストとしてのイエスを知るように、ということだね。
5,24節。教義では「世がある前」「世の基が置かれる前」とは、人類誕生の前となっている。それでもいいのかなとは思うけど、天地創造の前としているものも多い。どちらであっても大切なのは、イエスが神の傍らで栄光ある存在だったこと、再びその栄光を得て弟子たちもその栄光にあずかるようにと祈ってくださってること。
6,26節。「み名を明らかにする」「み名を知らせる」。イエスは「み名」に拘っていたわけじゃなくて、み名の表わしている本質を明らかにし、知らせた。(弟子たちはすでに神の名を知ってた)
8節。新世界訳の「代理者」という言葉は付け足し。
神がイエスに与えてくださったことばを「受け入れ」、イエスが神から出て来たことを「知り」、神がイエスを遣わされたことを「信じた」。これが弟子になって行く過程だとわかる。
11,12節。新世界訳「み名のために彼らを見守る」。他の訳「み名によって彼らを守る」「あなたの名で彼らを守る」。だいぶ印象が違う。他の訳の神は、新世界訳の神よりずっと積極的に、まさに父親のように守ってくださるように感じる。
15節。新世界訳「見守る」。他の訳「守る」。サタンから、見守るのと守るのとじゃ、雲泥の差が出ると思うんだけど、どうなんだろうね。
15~18節。邪悪な者のいる「世のものではない」ことと、み言葉真理によって神聖なものとされることが、対として書かれている。イエスが足を洗ってくださったこと(日々の罪を贖っていただくこと)とも通じる。世に居る限り、日々、世の影響を受けるのは必至なわけで、それを取り除くために聖書と祈りは不可欠だとわかる。
21,23,26節。「結びついて」。すべて付け足し、もしくは意訳。
23,26節。イエスを愛した神の愛が弟子たちのうちにもあることを世が知る。イエスを愛した神の愛によって一致する。
キリスト教がどれほど分裂していても、大切なのは一人一人が神とイエス(とその愛)について知る(知識としてではなく、いわば父や兄弟や友として)ことなのかなと感じた。