今日も健康が守られて礼拝に集うことができた。
朝の起き方で、ツラさが大きく違うのだけど、
ちゃだは今日もツラい中、なんとかして自分を支えて立っていた。
今日の礼拝の奏楽奉仕はちょっと賛美するには苦しかった。
「ああ、恵み」という讃美歌は、
父が亡くなったとき、親友である向日かおりさんが歌ってくれた曲。
その曲が、今日はものすごい速さで、心がついていかなかった。
ピアノがとにかく雑だった。
あの人のピアノはとにかく音が綺麗でない。
ピアノが専門ではないことは分かっているけれど、
「ピアノが弾けること=礼拝の奏楽奉仕でピアノを弾く」ことではないと思う。
どんな曲でもそうだと思うけれど、
曲には「このテンポで演奏して欲しい」という潜在的な速さがあると思う。
特に歌の伴奏としての奏楽奉仕の時には、
会衆がどれだけ心を込めて歌えるか、その曲が自ら欲しているテンポがある。
それを全く無視していると感じるのだ。
自分が歌専門なら、ブレスをしながら歌いやすいテンポというものを、
感じる能力は充分あると思うのに・・・。
ピアノのタッチも、あのグランドピアノはもうそれをカバーすることができなくて、
弾き手のニュアンスがそのまま出てしまう。
なので叩きつけると「雑だなー」とすぐに分かってしまうのだ。
「ああ、恵み」は讃美歌の曲集にある曲だけど、
それを弾き手も礼拝、賛美しながら弾くべきだと思うのに、
そういう信仰的なものが全く感じられないので、現実に引き戻されてしまう。
もう、ピアノの奏楽にこだわって奉仕しなくてもいいのではないかとも思う。
他の青年会のメンバーも育ってきたし、彼女たちも上手くなってきた。
新曲も多くなってきている中で、司会者がそういう曲を選べなくなるという難点も。
奉仕者は礼拝に心をかたむけている会衆に、
不安を与えたり、心配をかけたりすることなく、
あたり前に奏楽奉仕ができなければ、礼拝の雰囲気が壊れてしまう。
「ピアノがおかしい」とか「シンセは後奏をちゃんと弾けるか?」とか、
そんなことを「現実的」に心配するような礼拝ではいけないと私は思う。
久しぶりにあの人のピアノを聞いたのだけど、
他の多くの人のピアノも聴いている耳は、
それをもう受け入れなくなって、ピアノ奉仕は無理なんじゃないかと思わされた。
ただ和音進行のチョイスは耳がよい分、豊富だと思う。
しかし祈りの静まりに対しては和音進行が速すぎて、色の変わりが多くて耳につく。
もっと何に対してもゆっくりと余裕を持って、
そんなときにも神さまに捧げる信仰を感じていれば自然と生まれてくる静けさ。
自分の技術を聞かせる場ではないので、そういう気持ちが大事だと思う。
☆チャペルの講壇のお花☆
☆受付の春らしい色☆
☆玄関のカランコエもつぼみが開いた☆
くぅ