かたけ、かたけ吹の初出を探し、かたけ吹の手順と名称の由来を明らかにしたい。
泉屋叢考(住友修史室 1955)によれば、「天正・文禄より慶長・元和にかけて、主要な都市には天秤屋あるいは銀屋とよばれた業者が興り、領主の御用を勤め特権を与えられ、運上を納めて、天秤座・銀座とよんだ。その業務とするところは、定にも見える如く金銀の吹替、判金銀の鋳造、金銀の秤量、銀の包装等があり、また天秤の製造販売をも行った。」とある。
寛永4年(1627)の金沢藩の記録に、「天秤座御定」に「かたけ」がでてくる。1)→図1.2.
「天秤座御定
・前略
・今極印銀と鉛持之事
・並銀とかたけ持之事
・後略
右如斯被仰付候、念を入以来迄無相違様可仕者也
寛永4年正月2日 稲葉左近
青木助之丞
天秤座 彦四郎殿
同 次郎兵衛殿
--- 丁銀も今極印銀(金沢藩の判銀で天秤座が鋳造した)も約2割の銅を含有する。それ故に、銀吹替のためには、定にあるように鉛を購入準備するとともに、銀銅吹分の床が必要であろうと思われる。定に見える「かたけ」持というのは、生野銀山へ伝えられたカタゲ吹と同じ吹床の装置を意味するのではあるまいか。これについては、暫く疑を残して将来の研究に期待したい。」
と著者は書いている。しかし筆者は、この「かたけ」は「銀かたけ」または「かたけ吹で得られた銀」を意味しており、銀その物を指していると推定する。前項の「今極印銀と鉛」に対応し、「並銀とかたけ銀」である。銀貨の銅含量の調節用には、安価な銀かたけを使えと指示していると推定する。藩の財政上にも好都合であるから。
このことから、寛永4年(1627)当時には「銀かたけ」あるいは「かたけ銀」はかなり普及していたと結論できる。
この「銀かたけ」「かたけ銀」はどこ産かが問題となるが、生野銀山に伝わったのが寛永9年なので生野銀山ではない。そうすると伝えた元の多田銀銅山の産である可能性が高いと筆者は思う。
そこで数日前に入手した猪名川町史5「多田銀銅山資料編」の全ページを「かたけ吹」の語で調べた。その結果、1ヶ所あり、驚くべきことを見出した。寛永4年より39年後になるが、寛文6年(1666)の多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であったのである。残りの157床は素吹床であった。以下にその部分を記した。2)→図3.4.
摂津国多田銀銅山略伝における文書の写しは以下のとおりである。
寛文6年6月30日
摂州多田銀山吹床役御運上銀帳 この帳面の趣にては吹屋54軒
吹屋 かたけ吹床 素吹床 運上銀
本町市郎兵衛 12挺 -- 24匁
本町伝兵衛 14 -- 28
和久源右衛門 12 -- 24
本町喜右衛門 4 -- 8
本町市兵衛 2 -- 4
本町長左衛門 16 -- 32
万善市左衛門 17 -- 34
能瀬太兵衛 15 -- 30
万善五郎右衛門 14 -- 28
若宮清左衛門 18(19?) 1 39
瀬戸太兵衛 3 -- 6
横山惣右衛門 18 -- 36
若宮長七 16 -- 32
松屋清右衛門 16 23 55
新町七兵衛 6 -- 12
若宮治兵衛 -- 17 17
村上平慎 -- 5 5
村上平兵衛 6 23 35
奥山又右衛門 12 28 52
宝路伝兵衛 -- 24 24
津慶吉兵衛 25 1 51
奥山伝三郎 13 -- 26
奥山五郎右衛門 11 -- 22
芝辻次郎兵衛 4 -- 8
奥山甚右衛門 -- 10 10
奥山八右衛門 -- 21 21
出石仁兵衛 3 -- 6
中嶋屋次郎兵衛 3 -- 6
村上忠兵衛 4 3 11
寺前市左衛門 2 -- 4
横町孫左衛門 10 -- 20
2丁目太兵衛 10 -- 20
2丁目又右衛門 1 -- 2
2丁目次郎右衛門 12 1 25
2丁目仁右衛門 6 -- 12
但馬哉仁右衛門 9 -- 18
池田屋次郎右衛門 4 -- 8
竹中九郎左衛門 20 -- 40
山下八兵衛 5 -- 10
牧野屋仁右衛門 10 -- 20
灰屋八兵衛 15(17?) -- 34
金屋藤兵衛 21 -- 42
いかり屋庄兵衛 4 -- 8
生野屋市右衛門 31 -- 62
灰屋仁助 12 -- 24
菊屋太左衛門 8 -- 16
竹田屋仁兵衛 17 -- 34
但馬屋理左衛門 35 -- 70
薬屋弥右衛門 26 -- 52
3丁目市郎右衛門 2 -- 4
3丁目四郎左衛門 4 -- 8
3丁目治右衛門 3 -- 6
但馬屋与左衛門 20 -- 40
奥山長兵衛 1 -- 2
545床 157床
(銀計) 1090匁 157匁 1,247匁
(552?床) (1,267?匁)
かたけ吹床1挺に付き運上銀は2匁、素吹床1挺に付き1匁である。
かたけ吹床数と運上銀の合計が1~2%合わないが、運上銀がからんでいるので、かなり信頼がおける記録である。津慶吉兵衛(かたけ吹床数25)、竹中九郎左衛門(20)、金屋藤兵衛(21)、生野屋市右衛門(31)、但馬屋理左衛門(35)、薬屋弥右衛門(26)、但馬屋与左衛門(20)が、かたけ吹床20床以上保有する吹屋であった。
寛文年の出銅高は、以下のとおりであった。
寛文2年(1662) 57,261貫 (357,881斤)
寛文3年(1663) 91,627貫 (572,672斤)
寛文4年(1664) 120,935貫 (755,846斤)
重要な大口間歩の鏈の極上品は、「銀銅綴れ」といい、砕こうとしても槌にひっついて砕けないような性質のものであったという。この極上品をはじめ、中上品・中品1駄(36貫 135kg)に含まれる銀・銅は以下のとおりである。3)
極上品 銀1貫目(3.75kg) 銅12貫目(45kg)
中上品 銀500目(1.85kg) 銅3貫目(11.25kg)
中品 銀300目(1.1kg) 銅2貫目400~500目(9kg前後)
寛文6年(1666)は、生野銀山へ伝えた寛永9年(1632)より34年後であるが、ほとんどがかたけ吹床であること、および寛永4年の天秤座御定の「かたけ」から、伝えた当時には、多田銀銅山にて、かたけ吹と呼ばれていたと筆者は推定する。すなわち寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろう。「かたけ」が低品質ということを表しているのではなく、単に銀の性質をわかりやすく表しているにすぎないのであろう。
ただ、寛永、寛文年間のかたけ吹の手順の記載は見つからなかった。寛延2年(1749)の吹き方は書かれていたので、後日検討したい。
まとめ
1. 寛永4年(1627)の金沢藩の記録「天秤座御定」の中に「かたけ」が出てきており、「銀かたけ」 または「かたけ銀」を意味すると考えられる。
2. 寛文6年(1666)の摂州多田銀山吹床役御運上銀帳によれば、多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であった。
3. 以上のことから、寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろうと推定した。
註 引用文献
1. 泉屋叢考 第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」p64~66(住友修史室 昭和30年 1955)
2. 摂津国多田銀銅山略伝(山内荘司文書):幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「寛文元年(1661)の銀山奉行中村杢右衛門の着任から正徳4年(1714)の代官町野惣右衛門支配の終わりまで約30年間分の文書の写しあるいは抜き書き」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p236~239(猪名川町 平成3年12月 1991)
3. 猪名川町史2 近世p58(猪名川町 平成元年3月 1989)
図1. 寛永4年天秤座御定の箇所-1(泉屋叢考 第6輯より)
図2. 寛永4年天秤座御定の箇所-2(泉屋叢考 第6輯より)
図3. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-1(猪名川町史5より)
図4. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-2(猪名川町史5より)
泉屋叢考(住友修史室 1955)によれば、「天正・文禄より慶長・元和にかけて、主要な都市には天秤屋あるいは銀屋とよばれた業者が興り、領主の御用を勤め特権を与えられ、運上を納めて、天秤座・銀座とよんだ。その業務とするところは、定にも見える如く金銀の吹替、判金銀の鋳造、金銀の秤量、銀の包装等があり、また天秤の製造販売をも行った。」とある。
寛永4年(1627)の金沢藩の記録に、「天秤座御定」に「かたけ」がでてくる。1)→図1.2.
「天秤座御定
・前略
・今極印銀と鉛持之事
・並銀とかたけ持之事
・後略
右如斯被仰付候、念を入以来迄無相違様可仕者也
寛永4年正月2日 稲葉左近
青木助之丞
天秤座 彦四郎殿
同 次郎兵衛殿
--- 丁銀も今極印銀(金沢藩の判銀で天秤座が鋳造した)も約2割の銅を含有する。それ故に、銀吹替のためには、定にあるように鉛を購入準備するとともに、銀銅吹分の床が必要であろうと思われる。定に見える「かたけ」持というのは、生野銀山へ伝えられたカタゲ吹と同じ吹床の装置を意味するのではあるまいか。これについては、暫く疑を残して将来の研究に期待したい。」
と著者は書いている。しかし筆者は、この「かたけ」は「銀かたけ」または「かたけ吹で得られた銀」を意味しており、銀その物を指していると推定する。前項の「今極印銀と鉛」に対応し、「並銀とかたけ銀」である。銀貨の銅含量の調節用には、安価な銀かたけを使えと指示していると推定する。藩の財政上にも好都合であるから。
このことから、寛永4年(1627)当時には「銀かたけ」あるいは「かたけ銀」はかなり普及していたと結論できる。
この「銀かたけ」「かたけ銀」はどこ産かが問題となるが、生野銀山に伝わったのが寛永9年なので生野銀山ではない。そうすると伝えた元の多田銀銅山の産である可能性が高いと筆者は思う。
そこで数日前に入手した猪名川町史5「多田銀銅山資料編」の全ページを「かたけ吹」の語で調べた。その結果、1ヶ所あり、驚くべきことを見出した。寛永4年より39年後になるが、寛文6年(1666)の多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であったのである。残りの157床は素吹床であった。以下にその部分を記した。2)→図3.4.
摂津国多田銀銅山略伝における文書の写しは以下のとおりである。
寛文6年6月30日
摂州多田銀山吹床役御運上銀帳 この帳面の趣にては吹屋54軒
吹屋 かたけ吹床 素吹床 運上銀
本町市郎兵衛 12挺 -- 24匁
本町伝兵衛 14 -- 28
和久源右衛門 12 -- 24
本町喜右衛門 4 -- 8
本町市兵衛 2 -- 4
本町長左衛門 16 -- 32
万善市左衛門 17 -- 34
能瀬太兵衛 15 -- 30
万善五郎右衛門 14 -- 28
若宮清左衛門 18(19?) 1 39
瀬戸太兵衛 3 -- 6
横山惣右衛門 18 -- 36
若宮長七 16 -- 32
松屋清右衛門 16 23 55
新町七兵衛 6 -- 12
若宮治兵衛 -- 17 17
村上平慎 -- 5 5
村上平兵衛 6 23 35
奥山又右衛門 12 28 52
宝路伝兵衛 -- 24 24
津慶吉兵衛 25 1 51
奥山伝三郎 13 -- 26
奥山五郎右衛門 11 -- 22
芝辻次郎兵衛 4 -- 8
奥山甚右衛門 -- 10 10
奥山八右衛門 -- 21 21
出石仁兵衛 3 -- 6
中嶋屋次郎兵衛 3 -- 6
村上忠兵衛 4 3 11
寺前市左衛門 2 -- 4
横町孫左衛門 10 -- 20
2丁目太兵衛 10 -- 20
2丁目又右衛門 1 -- 2
2丁目次郎右衛門 12 1 25
2丁目仁右衛門 6 -- 12
但馬哉仁右衛門 9 -- 18
池田屋次郎右衛門 4 -- 8
竹中九郎左衛門 20 -- 40
山下八兵衛 5 -- 10
牧野屋仁右衛門 10 -- 20
灰屋八兵衛 15(17?) -- 34
金屋藤兵衛 21 -- 42
いかり屋庄兵衛 4 -- 8
生野屋市右衛門 31 -- 62
灰屋仁助 12 -- 24
菊屋太左衛門 8 -- 16
竹田屋仁兵衛 17 -- 34
但馬屋理左衛門 35 -- 70
薬屋弥右衛門 26 -- 52
3丁目市郎右衛門 2 -- 4
3丁目四郎左衛門 4 -- 8
3丁目治右衛門 3 -- 6
但馬屋与左衛門 20 -- 40
奥山長兵衛 1 -- 2
545床 157床
(銀計) 1090匁 157匁 1,247匁
(552?床) (1,267?匁)
かたけ吹床1挺に付き運上銀は2匁、素吹床1挺に付き1匁である。
かたけ吹床数と運上銀の合計が1~2%合わないが、運上銀がからんでいるので、かなり信頼がおける記録である。津慶吉兵衛(かたけ吹床数25)、竹中九郎左衛門(20)、金屋藤兵衛(21)、生野屋市右衛門(31)、但馬屋理左衛門(35)、薬屋弥右衛門(26)、但馬屋与左衛門(20)が、かたけ吹床20床以上保有する吹屋であった。
寛文年の出銅高は、以下のとおりであった。
寛文2年(1662) 57,261貫 (357,881斤)
寛文3年(1663) 91,627貫 (572,672斤)
寛文4年(1664) 120,935貫 (755,846斤)
重要な大口間歩の鏈の極上品は、「銀銅綴れ」といい、砕こうとしても槌にひっついて砕けないような性質のものであったという。この極上品をはじめ、中上品・中品1駄(36貫 135kg)に含まれる銀・銅は以下のとおりである。3)
極上品 銀1貫目(3.75kg) 銅12貫目(45kg)
中上品 銀500目(1.85kg) 銅3貫目(11.25kg)
中品 銀300目(1.1kg) 銅2貫目400~500目(9kg前後)
寛文6年(1666)は、生野銀山へ伝えた寛永9年(1632)より34年後であるが、ほとんどがかたけ吹床であること、および寛永4年の天秤座御定の「かたけ」から、伝えた当時には、多田銀銅山にて、かたけ吹と呼ばれていたと筆者は推定する。すなわち寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろう。「かたけ」が低品質ということを表しているのではなく、単に銀の性質をわかりやすく表しているにすぎないのであろう。
ただ、寛永、寛文年間のかたけ吹の手順の記載は見つからなかった。寛延2年(1749)の吹き方は書かれていたので、後日検討したい。
まとめ
1. 寛永4年(1627)の金沢藩の記録「天秤座御定」の中に「かたけ」が出てきており、「銀かたけ」 または「かたけ銀」を意味すると考えられる。
2. 寛文6年(1666)の摂州多田銀山吹床役御運上銀帳によれば、多田銀山の吹屋54軒の保有吹床の78%にあたる545床が「かたけ吹床」であった。
3. 以上のことから、寛永9年に多田銀銅山より生野銀山にやってきた長兵衛・庄兵衛は、これが「かたけ吹」だと言って生野の人に示したのであろうと推定した。
註 引用文献
1. 泉屋叢考 第6輯「南蛮吹の伝習とその流伝」p64~66(住友修史室 昭和30年 1955)
2. 摂津国多田銀銅山略伝(山内荘司文書):幕末期の銀山役人秋山良之助が編集した「寛文元年(1661)の銀山奉行中村杢右衛門の着任から正徳4年(1714)の代官町野惣右衛門支配の終わりまで約30年間分の文書の写しあるいは抜き書き」である。
猪名川町史5 多田銀銅山資料編(小嶋正亮執筆)p236~239(猪名川町 平成3年12月 1991)
3. 猪名川町史2 近世p58(猪名川町 平成元年3月 1989)
図1. 寛永4年天秤座御定の箇所-1(泉屋叢考 第6輯より)
図2. 寛永4年天秤座御定の箇所-2(泉屋叢考 第6輯より)
図3. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-1(猪名川町史5より)
図4. 寛文6年摂州多田銀山吹床役御運上銀帳-2(猪名川町史5より)
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