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山下吹(8) 渡邊渡の山下吹

2020-09-06 09:38:42 | 趣味歴史推論
 渡辺渡(わたなべわたる)は、明治12年(1879)東大理学部を卒業し、冶金鉱山学の研究のためにドイツフライベルク鉱山大学に留学、明治19年(1886)東大工科大学教授就任した。農商務省技師を兼ね、佐渡鉱山局に勤務。明治24年(1891)工学博士。明治32年(1899)鉱山局長を辞し、明治35年から工科大学長を務めた。日本鉱業会の明治35.2~40.2副会長、明治40.2~大正8.6第3代会長を務めた。明治から大正にかけてのわが国鉱業近代化促進の指導者の一人である。1)

渡邊渡「冶金に関する技術の進歩 銅」第5回内国勧業博覧会(大阪 1903)第4部審査報告(明治37年 1904)に、2)
「乾式製錬を第1焼鉱、第2熔鉱、第3煉銅、第4分銅、第5精銅の5項目に分ち説明すべし。
第1. 焼鉱 略

第2. 熔鉱 銅鉱を火熱の力によりて熔解するに、還元熔解法すなわち炭質燃料を用いて焼鉱を熔解するの法、および酸化熔解法すなわち鉱石中の硫黄および鉄等の燃焼熱を利用して生鉱を熔解するの2法に大別すべし。 而してこれに用いる熔鉱炉の種類は左の如し。
①日本固有の平炉 ②レンガ熔高炉 ③円形水筒熔高炉 ④方形水筒熔高炉

①平炉 小鉱山にありては旧により本邦固有の吹床すなわち平炉を襲用す。而して著名の鉱山中今なお平炉を用いる所は、間瀬、広谷,姥澤、三つ澤、綱取、細地、永松、大島、寳、高根、川上、宮前、金坂、銀井谷、伊田、国盛、坪井、三原、久宗、寳加藤、内馬、鷺、桜郷、五木等にして、いわゆる山下吹なる熔解法により、木炭もしくは骸炭を用いて焼鉱を平炉中に還元熔解して銅鈹を得、次いでこれを同じ炉中に酸化熔解して粗銅を収むるものとす。而してこれに使用する所の鼓風器は箱フイゴ、革フイゴおよびルーツ送風器の3種なりとす。以上の山下吹中やや改良を施したるものは、五木銅山にして平炉と高炉を合併したる和洋折衷の装置なりとす。以下略

②レンガ熔高炉 この炉は明治9年以来、佐渡、小坂、阿仁、別子等の鉱山にて使用せしも今は皆水筒高炉に変遷し、また平炉より一躍して後者に勇進したるもの多々これあり。以下略

③円形水筒熔高炉 略

④方形水筒熔高炉 この炉は明治23年(1890)塩野門之助氏創めてこれを足尾銅山に採用せし以来、各所に広まり目下、阿仁、草倉、不老倉、別子新居浜、日平、小坂の諸鉱山、東雲製煉所および古河鎔銅所に使用せらる。中略 殊に小坂の熔高炉は世界無比の大炉にして、内長25尺7寸(7.71m) 幅3尺3寸(0.99m) 孔径5寸(15cm)の羽口36個を具え、もって生鉱の自熔法を行う。而して、他の熔高炉は皆炭質燃料を用いて還元熔解法を行うものなり。そもそも酸化作用によりて発生する自熱を利用しこれを熔解するの新法にして熔解費の大部分を節減し得べき経済的の製煉法たり。而して本邦において初めてこの自熔法の試験を行いしは、佐渡鉱山にして明治21年本官(渡邊渡)自らこれを指揮し該山所産の石英質金銀鉱を原料としこれに阿波東山産の含銅硫化鉄鉱を加え旧式のレンガ熔高炉を用い酸化熔解を試験せしが、自熔の点においてややその目的を達せしといえども、酸化の程度充分ならざるの結果、製鈹の品位予定の如く高まらざるをもって、これを廃せり。けだし高炉の構造不完全にしてかつ送風量の少なきの致す所ならん。翌22年米国の冶金家オースティン氏は、自国において自熔法の試験を行い、特種の高炉を工夫し24年これが専売特許を得、27年その説明書類を本邦の知人に分けてり。よって本官(渡邊渡)はこの自熔法が本邦所産の含銅硫化鉄鉱の製煉に適応すべきことを、該書に付記して我鉱業家の注意を喚起せしも、かつてこれに応ずるものなかりしが、明治33年に至り工学士竹内維彦氏等が小坂鉱山の硫化鉱物に対してこの新法を擬し学術上堅く信頼する所を固守し幾多の困難を斥け終に自熔法を大成することを得たるは独り小坂鉱山の興廃に関する大問題の解決に止まらずまたもって博く斯業のために貢献する処ありしは、深く歎賞すべきことなりとす。

第3. 煉銅 熔鉱の製産品たる銅鈹を再煉して粗銅を収むるの事業を煉銅という。而して目下使用する煉銅法は左の4種に別つべし。
①再吹(まぶき 真吹)煉銅法 ②當吹(あてぶき)煉銅法 ③英式銅煉法 ④ベスマー(ベッセマー)煉銅法

①再吹(まぶき 真吹)煉銅法 本邦固有の煉銅法に甲乙の2種あり。甲はすなわち還元熔解法にして先ず銅鈹を焼き次にこれを木炭と共に平炉にて熔解し粗銅を収むるもの是なり。この方法は古来東国および北国地方に行われ、現に明治22~23年頃に足尾、阿仁、荒川、尾去沢、神岡、面谷、尾小屋等の著名なる銅山にて専用せられたるものなり。また乙は酸化熔解法にて平炉中に熔解したる銅鈹に強風を吹入れ鉄および硫黄分を酸化し同時に粗銅を収むるいわゆる再吹法是なり。この方法は往時摂津国多田銀銅山の近傍山下村において発明せられ世にこれを山下吹と称して、いわゆるベスマー煉銅法の小仕掛なるものにて、古来専ら四国、中国および西国において行われ、現に多田、別子、帯江、国盛、吉岡、五木、槙峯、日平等の諸銅山に専用せられたるものなり。而して今や甲法全く廃し、乙法のみ全国に行わるゝに至れり。なかんずく改良再吹法なるもの23年頃吉岡銅山に創始せられし以来、尾去沢、阿仁、荒川、草倉、尾小屋、平金、生野、槙峯、日平、大和田、水島、三崎、佐島等の銅山および製煉所陸積これを採用するに至れり。中略

②當吹(あてぶき)煉銅法 この新法は明治32年(1899)別子銅山新居浜製煉所の創始に係り先ず熔高炉より産出する所の銅鈹(含銅約30%)を壁炉にて焼き、次にこれを再熔高炉にて熔解して精鈹(含銅73%)となし、液体のままこれを反射炉形前床すなわち當吹炉に注装し7~10ポンドの圧力を有する皷風を吹き入れもって粗銅を収む。而して1回の取扱量は鈹800貫目にして6時間半を要す。この方法たる旧再吹炉を反射炉に変更しかつ一層強圧の皷風をもちいるものにしてベッセマー煉銅法に比し起業費を要することはるかに少なくその経費もまた少額にて足れりという。

③英式銅煉法 此新法は明治24年(1891)初めて新居浜製煉所に採用し同32年(1899)まで継続せしが、同年前記當吹法によって替代せられし以下略。

④ベスマー煉銅法 此煉銅法は本邦固有の再吹法を大仕掛に且つ機械的に改良して転炉を用いるものにして、明治26年(1893)塩野門之助氏創めて之を足尾銅山の煉銅に応用せり。当時氏の採用したる転炉は外径4尺7寸(142cm)高さ7尺3寸(221cm)容積1トン半のパロット式にて周囲に20個の風口を具え汽機によりて運転するものなりしが、以来該鉱山においては幾多の改良を加え益々本業の発達を図れり。まず改良の第一着手として転炉の内壁を構造したる珪石7割粘土3割の混和物に代えうるに1部分解したる石英粗面岩の切石を以てせしに著しくその摩損を減じ、したがって交替の時間を減省せり。すなわち旧炉にありては銅品位60の鈹を以て1ヶ月約40万斤(240トン)の銅を製出せり。しかるに新炉にありては銅品位47の鈹を以て1ヶ月約90万斤(540トン)の銅を容易に製出するに至れり。第二の改良は風口の方向を変じその数を減じてその孔径を増大したるにあり。すなわち旧炉にありては20個の風口は均しく炉の中心に向かうが故に熔鈹の攪拌不充分にして熔体の噴出を大ならしめ煉銅の時間を長からしめたり。以上の欠点を除かんがため転炉中にその内径の3分の1に相当する同心圏を書きこれに切線となるべき方向を有する風口を設けしに熔体に旋回的の運動を与えてよく攪拌ししたがって化学作用を急劇ならしめ以て煉銅に要する時間に1割5分の短縮を告くるに至れり。次に周囲に分配したる風口を単に後方半周に止めてその数を8個に減じ且つ風口の直径12mmを増大して20mmとなし在来の風量(圧力約10ポンド)を以て2割の製銅量を増加することを得たるのみならず、また操業上著しき利便を得ることあたかもビスビー式転炉と同一の効力を奏するに至り。その結果現今銅品位47内外の鈹を以て1ヶ月約120万斤(720トン)すなわち当初の計画に比し3倍の産銅を得ることはなはだ容易の業となるに至れり。第三の改良は転炉用送風機の改良にして、以下略。」

考察
1. 渡邊は、ドイツに留学し先端の冶金学を学んで、製錬の化学反応を酸化還元で論じた。
「熔鉱では本邦固有の平炉(吹床)でいわゆる山下吹なる熔解法により、木炭もしくは骸炭を用いて焼鉱を平炉中に還元熔解して銅鈹を得る」とある。「還元熔解して」は何が還元されたのか筆者には分からない。主語が書かれていなければ、当然目的成分であるCu成分であるべきであるが、どうもそうではないようだ。焼鉱でできたFe2O3がCOで還元されFeOとなりSiO2と反応して2FeO・SiO2 (Fe2SiO4)鍰(からみ)となることを言っているのであろうか。
また還元熔解して銅鈹を得る吹きも山下吹というのであろうか。
「次いで銅鈹を同じ炉中に酸化熔解して粗銅を収むる」とあるが、Cu2SをO2で酸化すれば、Sは酸化されSO2となり、Cuは還元され金属Cuとなることを言っているのであろうか。
2. 「再吹(まぶき 真吹)煉銅法は、酸化熔解法にて平炉中に熔解したる銅鈹に強風を吹入れ鉄および硫黄分を酸化し同時に粗銅を収むるいわゆる再吹法是なり。この方法は往時摂津国多田銀銅山の近傍山下村において発明せられ世にこれを山下吹と称して、いわゆるベスマー煉銅法の小仕掛なるものにて、古来専ら四国、中国および西国において行われ」とある。山下吹では、S分やFe分がO2と反応し発熱し高温を保ち、SO2ガスや鍰となって系外に除かれる原理が 1856年に発見発明されたベッセマー法を同じであることを強調している。3)
渡邊や塩野らの留学した研究者、技術者は、江戸時代に山下吹が日本で発明され、製造に使用されてきたことを誇らしく感じたに違いない。それをPRしつつ、大量生産にあうベッセマー炉も日本でできているとこの内国博覧会の審査報告はうたっている。ベッセマー法と同じ原理である真吹が山下吹の神髄であるとみることにより、渡辺は(狭義の)山下吹の定義をしようとしたのではないか。
渡邊より前に塩野門之助は、ベッセマー法を熟知検討していたはずで、山下吹との比較をしているに違いない。
3. 筆者の勉強不足のために、酸化還元については書いてあることが理解しがたいところがあった。次回には、筆者の理解するところをまとめてみたい。
4. 別子銅山にいた塩野門之助が、足尾銅山で明治20年~27年(1887~1894)の期間に方形水筒熔高炉とベッセマー炉建設という先駆的な仕事を成し遂げていたことを知った。4)

まとめ
1.  ベッセマー法と同じ原理である真吹が山下吹の神髄であるとみることにより、渡辺は(狭義の)山下吹の定義をしようとしたのではないか。

塩野門之助のベッセマー法と真吹の比較に関する論文を探してみる。
山下吹、奥州吹の酸化還元について理解しているところをまとめてみる。

注 引用文献
1. Wikipedia 渡辺渡 安政4年~大正8年(1857~1919)
2. 渡邊渡「冶金に関する技術の進歩」第5回内国勧業博覧会(大阪 1903)第4部審査報告 第1篇第5章 p117~132(明治37年 1904) 国立国会図書館デジタルコレクションより
3. ベッセマー法:web. 辻伸泰「 鉄鋼材料学」(京都大学材料工学専攻 2018)p7 
「1856年ベッセマーは、溶けた銑鉄にそのまま空気を吹き込めば、燃料の熱源なしに銑鉄中の不純物である炭素やケイ素 と反応して除去でき、鋼に転化できることを発見した。」  
4. 塩野門之助の経歴年表 嘉永6年~昭和8年(1853~1933) 愛媛県立新居浜南高等学校情報科学部の web. http://besshi.net/hp/eco/01/007/siononenpyou.htmより。


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