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からみ・鍰の由来(17) 柄実(がらみ)説

2021-05-30 08:33:47 | 趣味歴史推論
 本報は、筆者の仮説である。
1. 「からみ」を「空味」と表記したものは、見つけられなかった。「空」は「無」「何も実体のない空間や状態」を意味するので、「からみ」には不適当であったのであろう。「物のからみ」には実体がある。「空」ではない。だから「空」の字を使わなかったと思う。「からみ」の「から」は「何もない」を意味する「空」からきているのではないと思う。「空」の読みも一般には「くう」であるし。
正味鏈にしたものを処理して、そこから「空味 何もないもの」が生成するというのは、論理的にもおかしい。
そこで「何もない から」を意味するものでないところに語源を探すことにした。

2. 「からミ」初出が石見銀山の大久保長安の覚書であったので、「からみ」の語源を石見銀山に探すことにした。
「石見銀山通信」の情報に基づいてまとめると以下のようになる。1)
間歩中で銀掘がどんどん打ち削っていく石のうち、銀を含んだ値打ちのある石を「鏈(くさり)」と呼び、たいした値打ちのない素石を「柄山(がらやま)」と呼んだ。間歩で適当な大きさに砕かれた塊は、鏈と柄山(捨石 素石 脈石)とに二分され、「入手」(いりて)によって、叺(だつ)に詰められた。叺とは藁で作られた”かます”の方言で、大小のサイズがあり、大は9貫目(約34kg)入り、小は4.5貫目(約17kg)入りだった。
叺に詰められた鏈は、荷(に)と呼ばれ、「荷負役」(においやく)によって間歩の外の役所の脇にある鏈置き場に運ばれた。掘人が自分で背負ってくこともあった。
一方、「柄山」の詰まった叺は、「柄山負(がらやまおい)」に背負われ、間歩近くの河原などにある柄山捨場(がらやますてば)に運ばれた。2)3)

3. 素石は、「がらやま」と発音されたことから、「柄」の字をあてたと思う。山は岩石を表すが、なぜ「がら ガラ」と発音されたのか。筆者は、この素石を分けてポイッと放り出した時や、集める時に生じる音が「ガラ」「ガラガラ」と聞こえるので、大した値打ちのない岩石を「がらやま」と言ったと思う。オノマトペによる柄(がら)である。

4. 正味鏈を吹きて生成した(実になった)たいした値打ちのないものを、「ガラの実」と言い、これが「ガラ実」→「柄実」(がらみ)となったのではないか。「柄実」は、たいした値打ちのないものである。しかしよく調べると、銀や銅が残っていたり、焼鉑を熔かしやすくしたり、有用であることがわかってきた。そこで、有用感を出すために、濁音の「ガラ」を静音の「カラ」に変え「カラミ」と呼び、「からミ」とかなで書いたのではないか。現場の大久保長安が率先して使ったので(あるいは指示して)、それ以降、皆が「からミ・からみ」を使ったのではないか。石見銀山の文書では「からみ・鍰の由来(10)」に記したように、一貫して「からみ」が使われ、「柄実」はなかった。大久保長安より前の石見銀山の文書に「柄実」はないであろうか。

5. 江戸期の鉱山関連の書籍や文書で、「柄実」を多く使っているのは、佐渡金銀山である。
佐渡では、文禄4年(1595)、石見国から来た山師により、鶴子銀山が稼行された。その頃に、「柄実」が伝わったのではないか。そして、この「柄実」は、石見では使わなくなったが、佐渡では生き残り使われたのではないか。
由来(1)で、示した「独歩行(ひとりあるき)」(1804~1829頃) には、多くの状態と名称の「柄実」が記されており、「柄実」が製錬工程で重要であったことがわかる。4)「金銀山敷岡稼方図」(1700年代後半)にも「柄実」、「カラミ」が記されている。
 見付けた最も古い「柄実」は、寛永20年(1643)「未6,7両月、相川上下組小役銀高」(佐渡国略記)である。5)

上組     3貫826匁6分 内
 ねこ    90筋     役銀 810匁
 磨     44柄        220匁
 柄実買    7人        70匁
 歩替屋   17人         170匁
 ゆり板   104枚        416匁
 鍛冶屋   3軒          30匁
 大床屋    5軒        400匁
 万小役             850匁6分
 吹分床    6軒        420匁
 小床屋   11軒         440匁
右は門御帳の通り相究め如斯御座候、銀取立御運上屋へ納め申し候
 寛永20年未7月29日
                鈴木八右衛門
                川住権右衛門

下組
 (略)

 柄実買は、からみには銀分が含まれているので、回収して商売にしていた。この頃には、「柄実」は、「からみ」とも発音されていたかもしれない。
これ以前は、「佐渡古実略記」(神代~寛永11年(1634)を調べる必要がある。6)

「柄実」についてもう少し調べてみよう。 

注 引用文献
1.  web. 石見銀山ガイドの会公式ブログ「石見銀山通信」2011.1.23
2. 日本鉱業史料集第9期近世編「石見銀山絵巻・大森銀山絵図等」(日本鉱業史料集刊行委員会 昭和63年 1988)
石見銀山絵巻は石見銀山資料館本
p15 荷柄山運出之図 →図1
3.  別冊太陽「石見銀山」編集人 湯原公浩 p11 (平凡社 2007.11)   
石見銀山図解(中村俊郎氏蔵)より 荷柄山取扱図 →図2
・web.渡部浩二(新潟県立歴史博物館学芸課研究員)「日本鉱山絵巻の分類と鉱山技術の伝播・交流に関する研究」(科研費補助金研究成果報告書 平成23.5.30)
「なお、近年、石見銀山絵巻の原図は、19世紀前半に、石見銀山の地役人で絵師であった阿部半蔵光格の手によるものであることが指摘されたが、佐渡金銀山絵巻の成立は1730年代と見込まれ、佐渡金銀山絵巻が石見銀山絵巻に先行したとする本研究の指摘はそれを裏付けるものとなった。」
・web.「石見銀山通信」2018.08.21, 2019.12.24 
阿部家8代当主阿部光格は、「石見銀山絵巻」の下描きをした人と言われている。
4. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」p582~665(刀水書房 1986)
 史料(11)「ひとりあるき」(佐渡高校舟崎文庫所蔵文書)下 吹分所取扱
5. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」p264(刀水書房 1986)
「佐渡国略記・上巻」p135(新潟県立佐渡高等学校同窓会 1986)
「佐渡国略記」は、寛永12年(1635)から天保7年(1836)までを収める佐渡国の編年体記録。著者は相川町年寄伊藤三右衛門。天保年間(1830~1843)に書きあげられた。
6. web.国会図書館デジタルコレクション「佐渡国略記・上巻」の中の「佐渡古実略記」4~7巻

図1. 荷柄山運出之図


図2. 荷柄山取扱図
   


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